日本語表記の始まり

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日本語表記をめぐる関係年表

57年      金印(漢委奴國王)

239年     邪馬台国の卑弥呼、魏の国に使いを送る

4-5世紀ごろ 仁徳天皇の時代に「なにはづ」の歌が作られた

472年     稲荷山古墳出土鉄剣銘(漢文の中の固有

         名詞の表音表記)

672年     壬申の乱

            この前後、額田王活躍。歌木簡が書かれ

         はじめる

694年     藤原京遷都

         この前後、柿本人麻呂活躍。変体漢文

            漢字仮名交じりで歌が書かれはじめるか

         (人麻呂歌集)

701年     大宝律令(漢文の法律)完成

         このころまでに古事記,万葉集の原形が

         成立していたか

712年     古事記(変体漢文の史書)成立

720年     日本書紀(漢文の史書)成立

759年     大伴家持による万葉集の最終歌

 

 現代の日本語は、漢字仮名交じりで書くのが普通です

が、平仮名や片仮名ができたのは、平安時代のことです。

飛鳥に都があったころは、漢字だけで書くしか方法があり

ませんでした。しかも、日本語をそのまま書くのではな

く、「漢文」という中国語で書く、そんな時代が長く続いてい
ました。

 紀元前後の東アジアは漢(前202~後220年)という巨大
帝国を中心に、周辺
の多くの国々は、漢に朝貢(ちょうこう・
みつぎもの)をすることで
存続していました。倭と呼ばれた
日本も例外ではありませ
ん。福岡県志賀島(しかにしま)で
発見され
た金印は、「後漢書(ごかんじょ)」によって57年
に日本に伝わったこと
がわかる、最古の漢字資料ですが、
そのような背景を象徵するものといえるでしょう。

 国交を維持するために使いを送って、その見返りに
「漢委奴國王」の印(国王である証明)をもらったものです。
当然、親書という漢文で
晝かれた手紙が貢物には添え

られていました。漢との交渉のためには、東アジアの共通

語であった漢文で書くことが求められたのです。

 これに対して、外交以外で日本語を晝くということは、

ほとんど必要のないことでした。現代でも日常の生活でこ

とばを書くというのは、ほとんど必要のないことを考えれ

ばいいでしょう。日常生活で書くことは、講義ノートや日

記などの記録か、社会生活を営むための行政文書や
報告晝
などの類です。これらは高度に発達した社会に
おいて必要
とされるものなのです。

 やがて、国としての体制が整えられてくると、政治や行

政のために書くことが必要とされるようになります。しか

し、文字としては漢字しかありません。そこで、漢字をエ

夫して日本語を書きあらわすようになります。

 おそらくはじめは、日本語で発想したことがらを、漢文

で書くことが行われたのでしょう。漢字を知っているとい

うことは、漢文を知っているということです。そもそも漢

字は漢文を書くためのものであったのですから。

 しかし、律令制を採り入れるためには、多くの役人が必

要でした。すべての役人が漢文を書けるわけではありませ

ん。そのような教育制度が発達していなかったからです。

そこで日常業務に必要なことがらだけが書ければいい。
のような書き方が誕生しす。正倉院に残る写経生

の膨大な日常文書は、漢文でもなければ、日本語で読
める
ように書かれたものでもない,「変体漢文」と呼ばれる

漢字の文章です。

 この方法を元にして書かれたのが、8世紀に成立した万

葉集や古事記です。ただし、その元になった資料は、飛鳥

に都のあった7世紀ごろから書かれはじめました。漢字を

使って日本語を書くようになった時代の言語生活に思いを

はせてみましょう。
  2015-6-12  朝日新聞
 (関西大学文学部教授乾善彦)

 古代、漢字を使って日本語を書きあらわすには、「こと

ば」の「かたち」は伝わらなくても、「意味」あるいは

「ことがら」だけが伝わればいいという書き方と、「こと

ば」の「かたち」を伝えるための書き方とがありました。

 事務的な伝達のためには、「ことがら」だけが伝われば

いいでしょう。滋賀県森ノ内遺跡から出土した7世紀の木

簡には、漢字を日本語の語順どおりにならべただけの、漢

文とはほど遠い文書が書かれていました。古事記や万葉集

の多くの歌々もこれに似たような書き方をしており、読み

方のわからない部分があるわけです。

 しかし、人名や地名、あるいは歌のようなことばは、そ

のかたち(読み方)が重要です。ことばのかたちを伝える

ためには、漢字を、音をあらわす文字(ローマ字のような

表音文字)として利用する方法がありました。

 中国でも外国の固有名詞をあらわすには漢字を表音文字

として利用しました。たとえば、邪馬台国の卑弥呼のよう

な例です。この方法は日本でも早く、5世紀末の埼玉県稲

荷山古墳出土鉄剣銘に「乎獲居(をわけ)」「獲加多支鹵
(わかたける)」などの人名地名表記にみとめられます。

 古くは、漢文の中に固有名詞が組み込まれる場合だけに

使われていたこの方法だと、ことばのかたちをあらわ

とができるので、やがて、日本語の品物名もこの方法で書

かれるようになります。藤原京跡からは、「多比(たひ・鯛 )」

や「宇迩 (うに・雲丹)」などと書いた付札木簡(つけふだ)
がみつかってい
ます。

 歌が書かれた資料としては、近年注目されるようにな

った7、8世紀の「歌木簡(うたもっかん)」

があります。木簡の用途は荷札や文書など多岐にわたりま

すが、その中に歌を書くために作られ、典礼の場で使用さ

れた木簡の一類があることが2008年ごろ、 当時大

阪市立大学におられた栄原永遠男教 よって提唱されました。

 飛鳥の石神遺跡飛鳥池工房遺跡からも、7世紀の重要

な歌木簡が出土しています。

石神遺跡の「なにはづ」の歌の木簡は、最古の「なには

づ」の歌として貴重ですし、飛鳥池遺跡の「止求止佐田目手和

口(とくとさだめてわが・□は加?/羅久於母閇皮(らくおもへば)」

の歌は、記紀万葉の仮名書歌とは異なる仮名の用

法が特徴的であり注目すべきものです。

 広い意味の歌木簡は典礼のためだけでなく、さまざまな

用途が考えられており、「なにはづ」の歌には、手習いの

要素が強く感じられます。木片に文字を習得するために、

ひいては、自分たちのことばを記録するために文字を練習

した古代人の姿がほうふつされます。このようにして、漢

字を使って日本語の「かたち」を書きしるせるようにな

りました。平仮名や片仮名の起源がここにあります。
  2015-6-12  朝日新聞
 (関西大学文学部嫠乾善彦)



 万葉集の中には、飛鳥に都があったころの歌が数多く残

されています。先に、歌は「ことば」が重要なので、

「かたち」がわかるように書かれたといいました。たしか

に、木簡に書かれた歌の多くは、仮名(漢字の表音用法)で

晝かれているので、ことばの「かたち」がわかる、つまり、

読み方が一つに決まるのですが、万葉集の歌々は古いもの

ほど、訓を利用した書き方になっていて、読み方の定ま

らない歌が少なくありません。

 たとえば,持統天皇の「春過而夏来良之白妙能衣乾有天
(はるすぎてなつきたるらししろたへのころもほしたりあめの
かぐやま)

之香来山」(巻1・28 )のように書かれた歌がありま

す。このうち、「良之、能」は表音用法で書かれているの

で「らし、の」と読めます。

その他は漢字の意味も考えて訓で読まなければなりませ

ん。「春過而」を「はるすぎて」と読むことは容易でしょ

う。しかし、大和三山の一つ「天之香来山」は、実は「あ

めのかぐやま」なのか「あまのかぐやま」なのかは、意

見の分かれるところです。「天」は「あま」とも「あめ」

とも読めるからです。つまり、読み方が定まらないのです。

 また、次のような歌もあります。額田王の歌です。
「金野乃美草苅葺屋杼礼里之菟道乃宮子能借五百磯所念
(あきのののみくさかりふきやどれりしうじのみやこのかりい
ほしおもほゆ)」(巻1・7)

この場合は、読み方はほぼ定まっているのです

が、これを「秋の野の御草刈り葺き宿れりし宇治の都の刈

り庵し思ほゆ」と読むのはそう簡単ではありません。この

場合、さほざまな知識が求められるのです。

 初句「金野」を「秋の野」と読むのは、「陰陽五行説」

という中国の思想によります。五行説では、木·火·土

金·水の五行(曜日の火曜から土曜がここからきていま

す)が、それぞれ季節の春夏·土用·秋·冬に対応する

ので、わざわざ秋を金と表記したのです。相当の知識が

ないと読めない、そんな高度な書き方がなされています。

 中には「色二山上復有山者(色に出でば)」「二八十一

不在国(憎くあらなくに) 」といったのもあります。前者

は、山の上に山を書くと出という字になるので「山上復有

山」を「出づ」と読ませるもの、後者は9×9= 81なので

「八十一」を「くく」と読ませるもの。ここまでくれば

判じ物(謎の一種)の世界です。それほどまでに、漢字で

日本語を書くということに余裕が出てきたものと思われます。

 おそらく、当時の知識人たちは、高い漢文の能力を駆使

して、漢字を使って日本語を書くことの可能性を、さまざ

まな表現行為、漢字表現として楽しんだのでしょう。中国

語である漢文を書くことと,日本語を高度に表現すること

とは、きわめて近い行為だったことと思われます。

 万葉集に載る歌が書かれたのは、7世紀なのか、8世紀

なのかはわかりませんが、漢字だけを使って日本語を書く

しかなかった時代に、さまざまな試みが行われてきたこと

がわかります。現代の漢字仮名交じりで日本語を書くとい

う行為とはまったくかけ離れたところで、飛鳥に集った人

々は、漢字を使ってさまざまに日本語を書いてきたのでした。

 やがて、平仮名、片仮名が成立すると、それらの記憶は

残された資料の中に閉じ込められてしまいます。古代語の

研究がそこからはじまるわけです。
  2015-6-19  朝日新聞
 (関西大学文学部教授乾善彦)