藤原宮跡
(ふじわらのみやあと)地図
藤原京復元想像図 (藤原資料室パネルより) |
藤原京は、奈良の畝傍、耳成、天香具山 の大和三山に囲まれた地に、持統天皇の 694年に造営された都である。 京内は条坊制によって東西、南北に大路 小路が走り、薬師寺や大官大寺などの寺院 が営まれていた。 藤原京という名は『日本書紀』や『続日本紀』 など正史にはみえず、『新益京(あらましのみ やこ)という名で登場する。 |
西方向畝傍山、 そのうしろに二上山・葛城山・金剛山 の葛城連嶺がかすんでいる。 |
北方向耳成山 | 東方向香具山、うしろには多武峰・ 音羽山の山なみがある。 |
藤原宮跡より三方を望む(地図)藤原京は大和三山に囲まれた地であったことが知られる。 奈良盆地の古道と都⇒⇒⇒ |
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藤原宮は、今から1300年前、持統・文武・元明三代の天皇が治めた日本の首都です。藤原京
のほぼ中心に位置し、北を二条大路、南を六条大路、東と西をそれぞれ二坊大路で囲まれたそ の広さは、南北906.8m×東西925.4mで、約84haに及びます。その内部には、中軸線上に北か ら内裏、その南辺に大極殿院と大極殿、その南には朝堂院が広がり、両脇に計十二の殿堂を配 置しています。さらに南には控えの場である朝集殿があり、朱雀門へと通じています。 |
大極殿から朱雀おうじを一直線 にするために、前方の丘(南方向) を削った。 逆に南方向から和田廃寺⇒ |
周囲に市街地を持つ、わが国初の本格的都市計画によって建設された、半永久的な宮城で、 唐の首都長安(都城)を模倣したものとされながら、中国では実際には造られたことがなかった 王宮を真ん中に造った理想都市であった。条坊制に基づいて造られた最初の都でもある。 当時は天皇が変わるたびに宮殿も転々としたが、壬申の乱後確立した律令国家体制を堅持 するために永久的なものにしようという要求から、天武天皇の意志を継いだ 持統天皇(690〜697年)によって建設され、文武天皇・元明天皇と三代の天皇が、 持統8年(694)から和銅3年(710)の16年間治めた。 白村江の戦い(663)で唐・新羅に大敗。存亡の危機を迎えた激動の時代でもあった。 ここでは、二官八省制と呼ばれる官庁組織や大宝律令(701)の制定によって国を治め 築いてゆく礎となる制度、律令制度が整備された。 都は飛鳥浄御原京(きよみはら)から藤原京に移り、 飛鳥は二度と政治の中心になることはなく、 古代の記憶がそのまま残された。 藤原京16年の歴史は、飛鳥時代と奈良時代を繋いだ、 国の骨格が形作られた重要な時代であった。 |
大嘗宮跡の一部とみられる建物跡も見つかっており、掘っ立て柱式の一棟で、東西12m、 南北3mの膳屋(かしわや)。 藤原宮では文武天皇と元明天皇が即位したとされる。 藤原宮の大嘗宮が後の時代の原型になった可能性があるとされる。 大嘗祭(だいじょうさい):天皇の即位後最初の新嘗祭しんじようさい。 新しくとれた穀物を神に供える儀式。一代一度 の祭事。おおなめまつり。おおにえのまつり。 |
その後の調査で、下つ道から西1、600mの地点と、中ツ道から東1、600mの地点で相次いで大路跡が出土。 それぞれ西京極と東京極とわかり、東西が5、300mと確定した。 (藤原京の京極(きょうばて=最もはずれの境界)となったのが、中つ道、下つ道)南端の南京極を示す 遺構は未確認だが、93年に出土した「十二条大路北側溝」が、碁盤の目に沿って 東西方向に延びていることから橿原市教育委員は南端と判断。南北距離は4、800mになった。 面積は約25万平方キロで平城京約24平方キロ、平安京約23平方キロを上回る最大の都であった。 和銅三年(710)、元明天皇は,わが子文武天皇の遺志を継いで、永久の都として造営された筈の 藤原京を棄て、平城京に遷都した。 強引な天武系皇位継承、律令制への急激な移行による混乱、藤原京造営の失敗、加えて疫病の流行、 飢饉などが、すべて藤原京の位置の悪さに起因するとして責任をまぬがれようとしたことも考えられる。 |
大極殿(天皇が執務をしたところ)は周囲を回廊がめぐり、東西南北に門があった。 東門の建物全体の大きさが南北29m前後、幅6.6mのものであった。回廊からは、16個の柱の据え付け穴もみつかっている。 天皇の住まいである内裏の屋根は、檜皮葺きや板で葺かれていた。その伝統は平城京、平安京へと受け継がれる。 一方、儀式や政務に使われる大極殿や朝堂は瓦葺きで建てられていた。 |
伝藤原宮海犬養門跡(あめのいぬかいもん)上図の北側左 |
天武天皇は、飛鳥浄御原に宮をおいていた。 しかし、理想とする律令国家体制下の首都としては官庁、官人などを配備するスペースが不足していた。 そこで、飛鳥の北、藤原に遷都することにした。 天武天皇は死没したが、持統天皇に引き継がれ、持統天皇八年(694)に遷都の運びとなった。 都の北側は伊勢と難波を結ぶ横大路、西側は下つ道、東側は中ツ道が奈良盆地に南北に平行して通っている。 京は、東西方向に十一本の道をつけ、十二条に分割。南北に七本の道をつけ、八坊に分けた。 このように京は、東西・南北の道路によって碁盤の目のように区画した、日本最古の人工都市である。 中には、皇族・貴族の邸宅、寺院のほか、市場が設けられた。 京の大きさは東西2、100m、南北3、200mほどで、耳成山・香具山・畝傍山の大和三山を北と東西に 望む景勝の地を占め、「万葉集」にもこの地に関する歌が数多く残っている。 都が平城(なら)に遷った後、藤原宮・京は急速にすたれ、田園に変わっていった。 |
以来千三百年もの間地中に埋もれていた。1934〜43年の発掘により、 大極殿・朝堂院の位置や規模が明らかになった。 その後、4ヶ所の門や大垣、役所の一部などの様子がわかってきた。 宮の広さは、南北906.8m×東西925.4mで、約84haに及ぶ。 中軸線上に北から内裏、その南辺に大極殿、その南には朝堂院が広がり、両脇に計12の殿堂を配置している。 さらに南には控えの場である朝集殿があり、朱雀門へとつうじている。 藤原宮の外郭は、堀立柱塀の大垣と各辺3ヵ所ずつ(合計12問)開く宮城門に囲まれている。 大極殿は天皇が執務の際、出御する建物であり当時日本では最大の建物であった。 その高さは基壇を含めて約25mを超え、8階建てのビルの高さに相当する。 出御:しゅつぎょ・天皇・皇后・皇太后・太皇太后がおでましになること |
北方向に見える山は耳成山。地図 | |
「藤原京は、持統天皇8年(694)から和銅三年(710)までの16年間、 平城京遷都まで持統・文武・元明天皇三代にわたる都でした。藤原京はその中心部にあたり、 現在の皇居と国会議事堂及び霞ヶ関の官庁街とを一ヶ所に集めたようなところです。 大きさは、約900m四方、まわりを大垣(高い塀)と濠(ほり)で囲み、 各面に三カ所ずつ門が開きます。 中には天皇が住む内裏、政治や儀式をおこなう大極殿と朝堂院、 そして役所の建物などが建ち並んでいました。」 |
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「政治・儀式の場である大極殿や住居である内裏、多くの役所などが立ち並ぶ藤原宮。 その広さはおよそ1km四方、周囲は大垣でかこまれ、その外側には幅5mの外濠(そとぼり)、 内側には内濠をめぐらせていました。大垣(高い塀)は2.7m間隔に柱をたてならべた掘立柱塀で、 高さ5.5m、土壁の厚さ20cm、瓦葺きの立派なものでした。 この場所は藤原宮の西面南部にあたり、 大垣や外濠、内濠などが発掘で見つかっています。 |
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春過ぎて 夏来るらし 白栲(しろたえ)の 衣ほしたり 天の香久山 巻1−28 歌 持統天皇 持統天皇が藤原宮の内裏から、香具山をうたった歌として有名である。新しい都は、 政治・経済・文化の中心地として栄えた。柿本人麻呂をはじめ宮廷歌人が活躍した舞台でもあった。 16年ののち、都は平城京へとうつった。やがて田園にかわり、その跡は地中に埋もれた。 百人一首⇒⇒⇒ |
河合源七郎家(重文) | |||||
橿原市八木町には、古代の幹線道路といわれる南北に下つ道、東西に横大路があり、 それらが交差するところに札の辻がある。これらは旅籠街道筋としておおいににぎわった。 札の辻から東は伊勢神宮や長谷寺、南は吉野山や高野山、西は竹之内街道から大坂へ、 北は奈良へと通じた。
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都が奈良に遷った後、藤原宮があった場所は長い間わからなくなってしまった。 条里制による耕地整理で田んぼとなり、宮の跡や町割りの跡がかき消された。 万葉集巻1の「藤原宮の御井の歌」から大和三山に囲まれた範囲内にあったことがわかり、 また、扶桑略記等が鷺栖坂の北にあったことを伝えるのみであった。 |
3分の1の大きさで復元された幢幡 |
続日本紀と合致 |
日本初の本格的な都とされる藤原京(694〜710)の中枢部、藤原宮跡で天皇が出御する重要儀式等に使われる「幢幡(どうばん)」と呼ばれる 旗竿を立てたとみられる7基の柱の穴が見つかった。 幢幡の数などが続日本紀に記された大宝元年(701)の元日朝賀の記述と合致した。 文武天皇が大宝律令の完成した大宝元年の正月に、官僚や新羅の使節らを迎えた朝賀の儀式を開催。 正門に3本足のカラス(烏・う)、太陽と月、方角の守護神「四神(しじん)」(白虎・青龍・玄武・朱雀)の表現された計7本の旗が立てられたとされる。 平安時代の律令の施行細則延喜式は、天皇があいさつをうける元日朝賀では、大極殿の前に幢幡を6m間隔で横一列に並べると記す。 平城宮跡や長岡宮跡など同様の遺構が見つかり藤原宮跡も同じとみられてきた。ところが図のように、方角に対応しており、 古代中国の陰陽五行思想の影響を受けている。 中国王朝では中央に黄龍や麒麟の旗を立てるが、日本では独自の形である3本足のカラスの旗を立て、中央に配置された旗を強調し、 海外の使者に「日本」を印象づけた。 一方、7基の旗ざお遺構の約9m南には、横一列に並ぶ16基の柱の穴が確認されている。これらは天皇の軍の旗を並べたと考えられている。 2016−9−29 朝日新聞より
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大宝元年(701)元日朝賀の想像図(早川和子画) |
四神旗、左から青龍・朱雀・烏・日像・月像・白虎・玄武 |
【藤原宮ひょっとして豆知識】 路傍の石も1300年 藤原京朝堂院地区は、お寺の境内のよ うに玉砂利が一面に敷かれています。 過去の調査では、幅10mの帯状に砂利 石の大きさを変え、通路?として整備 されたという調査成果もあります。 正月の朝賀(ちょうが)の儀式などで 役人たちが整列する際、もしかすると 運動会の入場行進のように目印にし ていたのかもしれません。 発掘現場では物資運搬用の運河と別 に、小石にも注目してみてください。 発行日:平成23年9月23日 発 行:橿原市役所世界遺産推進課 |
2016−10−2現地説明会⇒⇒⇒ 2015−10−13藤原宮跡のコスモス⇒⇒⇒ |
石詰め暗渠。Uの字に石が詰めてある。 暗渠部分の色が異なる。 |
南から北を望む。 前方の山は耳成山。 木立が大極殿。 |
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奥から大極殿 大極殿院 朝堂院 朝集殿院 朱雀門 |
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室町時代絵巻にみられる天皇即位時に立てられた旗。 一部。柱が2本一緒に立っている。
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平山郁夫画伯の藤原京 | 藤原京資料室の藤原京 |
大極殿院閤門(こうもん) | ||
大極殿院閤門は、大極殿院と朝堂院を区切る門である。 規模は不確定ながら、正面約30m、側面約15mと 朝堂院南門と同規模と想定されている。 列柱は閤門より南30mの場所に設置し、再現されている。 |
橿原市博物館展示、藤原京 |
10条10坊の正方形の藤原京の意味については中国古典の「周礼(しゅらい)」のかかわりが指摘されている。 周礼は孔子の活躍していた頃の周の国の官制などを記したとされる書物で、髄や唐の時代の中国では周は理想 の社会として受けとめられていた。周礼の「考工記」に都城のあるべき形態が説かれていて、正方形の都城の中心 に天子宮殿を配置すべきであるとされている。藤原京の形制は、この理想の都城形態を実現したものだった。 藤原京の建設計画は、壬申の乱(672)が終息して、勝利者である天武天皇が飛鳥浄御原宮に即位後ほどなく 始動したと思われる。途中、天武の逝去などもあり、必ずしも造営工事が順調にすすんだわけではないが、天武の 後を継いだ持統女帝の8年(694)に、天皇は藤原宮に遷居し、藤原京が名実ともに首都として成立した。 |
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