善法律寺
[京都府指定文化財表門江戸時代後期]
表門は境内の東北に東面して扉を開く、高麗門である。宝暦9年(1759) の棟札があり、建立後に大きな改変もなく現在に至っている。 |
[京都府指定文化財善法律寺本堂江戸時代前期] 本堂は五間四方の建物で、本瓦葺き入母屋造りであり、建物周囲には高欄 付の縁を廻らしている。石清水八幡宮の旧社殿の材料を用いたと伝える。 内陣に高御座を備え、本尊·八幡大菩薩を祀る。 寛永16年(1639)頃の建立とみられ、神仏習合の数少ない貴重な建造物 である。また奥殿は阿弥陀堂と称し、宝冠阿弥陀如来などを祀っている。 |
[大西坊覚運墓塔] 大西坊はかつて男山にあった四十八坊の一つである。覚運は『忠臣蔵』 で高名な大石内蔵助良雄の養子となり、良雄の実弟·専貞の跡を継いで 大西坊の住職に就いた。 覚運は赤穂浪士討ち入りに助力し、衰退していた大西,,復興して、中 興の祖となり、宝暦9年(1756)に亡くなった。 当寺の本堂前に、墓塔が弟子の運應と覚助と共にある。 |
善法律寺は、奈良唐招提寺の末寺で律宗に属する。鎌倉時代正嘉年間(1257 ~59)に、豊前国宇佐八幡宮の喜多院に準じて、石清水八幡宮の法務寺院として、 八幡宮第27代検校の善法寺宮清が自分の邸宅を僧坊として喜捨し、奈良東大寺 より実相上人を招いて開山とした。御本尊·八幡大菩薩の霊場として、今日に至る。 また、善法律寺は足利将軍家とゆかりがあり、特に宮清のひ孫·良子が、二代 将軍足利義詮に嫁いで、三代将軍義満を生んだ。そのため、義満·義教·義政 など歴代の将軍が何度も参詣している。 義満の母·良子は、善法寺家の菩提寺である当寺へ多くの紅葉の樹を寄進し 今も約100本の紅葉が茂っている。春は萌える新緑、秋は深紅の紅葉が美し く、当寺は「もみじ寺」と称されるようになった。京都府指定文化財の本堂と 表門をはじめ、八幡市指定文化財の仏像·絵画9点などの貴重な文化財を有す る寺である。 [八幡市指定文化財本尊八幡大菩薩像平安時代] もとは、石清水八幡宮で祀られていた。奈良大安寺の僧、行教が宇佐カ 八幡の地に、八幡神を勧請して祀った本尊とも伝える。 明治の神仏分離の際、当寺に安置された。左手には宝珠をささげ、右手 錫杖を持ち、本来は地蔵菩薩であったとみられ、所願成就の御利益がある。
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平安時代初期(860年)、石清水八幡宮を勧請した行教が創建。 |