大安寺(だいあんじ)地図

 
 本堂
本尊 十一面観音立像(重文)
   
 舒明天皇が639年に奈良盆地中央で造営を始めた百済大寺が、大安寺の始まりとされる。
それが673年に飛鳥に移されて高市大寺となり、4年後に大官大寺に変わった。
この官の大寺(我が国初の国立寺院)が平城京遷都で今の場所に移り、大安寺となり金堂や講堂などを擁する大寺院だった。
 わが国最初の天皇発願の寺を原点とし、平城京に壮大な寺地と伽藍を構えた。奈良時代、 東大寺や興福寺などとともに南都七大寺の一つに

数えられ、一時期を除き筆頭寺院としての格を有していました。

 菩提僊那、空海、最澄をはじめ、千人にも及ぼうかという国内外の僧侶たちがここに集い、後に諸方面で活躍しました。 天智天皇の発願により造られたとみられるかつての本尊釈迦如来像は、今は失われてしまいましたが、平安時代には奈良薬師寺金堂の薬師三尊像よりも優れていると評され、古代から中世の仏像制作に影響を与えました。

 大安寺(南都七大寺の一つ)は奈良の都平城京に建立された官の大寺である。東大寺西大寺と共に南大寺とも称された。
藤原京大官大寺が平城遷都に伴って移されたのが大安寺で、平城京の左京六条、七条の四坊に十五町(約8万坪)もの寺地を有していた。
(平城京遷都和銅3年・710)
 かってここに、平城京大安寺の南大門がそびえ建っていた。この門は正面が五間、奧行きが二間あった。
一間の長さは約5mで、正面25m、奥行き10mで平城京の正面「朱雀門」と同じである。
 奈良時代には、来日した多くの僧侶が滞在し、東大寺の大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)や中国僧の道?(どうせん)、
新羅僧の審祥(しんしょう)、ベトナム僧の仏哲(ぶってつ)など多数大陸の渡来僧が滞在したほか、唐や新羅に学んだ留学僧などが住居した。
鑑真招聘に尽力した栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)もこの寺の学僧で、最澄空海はここで学んだ後に唐に留学し、天台宗真言宗を日本に伝えた。
滞在した。
大安寺は当時の国際交流の拠点であった。
 1月23日にがん封じささ酒まつりが行われる。
光仁天皇が寺境内の竹林で竹の杯についだ酒を飲んで長生きされたという故事にちなんで、竹筒で振る舞う酒を飲む。
 竹筒は青竹で温めた笹酒(ささ)となっている。ほんのり甘い香りが漂い、多くの参拝者が竹の杯を手に健康や長寿を願う。

熊凝精舎
 大安寺は聖徳太子が建立した熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)がはじまりとされ、奈良時代に現在地に移った。
大官大寺 大安寺  額安寺 
大官大寺  八十八面観音巡礼   百済寺 

 聖徳太子に起源を持つとされ

る大安寺は、平城遷都ととも

に現在の地に移転して遷寺

1300年を迎える。南都七大

のひとつで、わが国の高名

な学僧とともに、奈良時代に

海外から来日した僧侶の多く

が居住し、当時の国際交流の

拠点。国の安泰と人々の安楽

を祈る大寺として大安寺と号

した。今日は癌封じの寺として
参詣が絶えない。

奈良市の大安寺で6月23日、恒例の「竹供養・がん封じ夏祭り」があった。参拝者

に竹の杯が配られ、竹筒からお酒や水を注いでもらって飲み、健康を願った。

この日に竹を植えるとよく育つという中国の「竹酔日」にちなみ、竹に感謝し

て供養する行事。1月23日の「光仁会がん封じ笹酒祭り」とともに大安寺の二

大行事とされる。

竹筒からお酒や水を注ぐ役は、奈良総合ビジネス専門学校(奈良市)の生徒ら

が務めた。インドネシアから昨秋に来日して日本語を学ぶルツフィア・ラーミさ

ん(22)は「初めて浴衣を着ました。ちょっと息が苦しいです」と流暢な日本語で

話した。

大安寺は昔、外国からの渡来僧が数多くいた歴史がある。河野良文・貫主(66)

は「今、外国人留学生が手伝ってくれるのは、ありがたい。日本の良い思い出に

なれば、うれしい」と語った。
2017-6-24 朝日新聞
(佐藤圭司) 

僧房跡 大安寺旧境内
 伽藍中心部には金堂を中心に講堂や僧房が建ち並び、塔院には東西に2基の七重塔がそびえていた。
塔が伽藍中心部の南に「塔院」として独立し、回廊壁画にまで仏画が描かれるなど、それまでの寺院にはない特徴がみられる。
 かっての大伽藍は長安の西明寺を模して建立された。
伽藍配置比較⇒⇒⇒ 
 東西塔の高さは推定で約70m、奈良時代では東大寺の七重の塔と同じか、それに次ぐ高さだったとみられる。
東塔は八世紀ごろ創建され、1296年の焼失以降、再建されていない。
塔の初層は約12m四方、基壇は約21m四方、基壇に上る階段の幅は約5.4mと判断されている。
発掘調査では、中国の焼物である唐三彩の枕の破片がたくさん出土した。
 唐代の「枕中記」という小説は、主人公が陶枕に頭をのせて居眠りをする。
 夢の中で空洞の陶枕の中に入り込んだ主人公が官僚としての一生を過し、長い人生を終えたところで目覚めたら、
それは一瞬の夢であった。という物語。
 伽藍の造営で主導的な役割を果たしたのが、道慈(どうじ)僧侶。
 道慈は、702年に中国の明州(めいしゅう・現在の寧波・ねいは)に上陸し、揚州(ようしゅう)経て長安の西明寺で
16年間にわたって仏教を学んだ。
西明寺はインドの祇園精舎を模して建立したとされる壮麗な寺院で、道慈ははこの西明寺を参考にして 、
帰国して大安寺の大伽藍造営にたずさわった。
東大寺の七重塔模型。
手前が東塔、奥が西塔。
2006年9月25日付け朝日新聞(夕刊) より
嘶堂(いななき)
 馬頭観音立像(重文)
 「6本の腕を持つ木像の立像(8世紀、高さ173.5cm)、頭上に馬の頭がない。
文化財としての指定名称は千手観音菩薩像、
上の歯で下唇をかみしめている独特の形相は、
草をはむ馬のように悪を食らい尽すという馬頭観音信仰にふさわしく、
眉の根をよせた怒りの表情を強調している。胸飾りには数匹のが巻き付く。」
 2010−4−23 朝日新聞より
   
 南都七大寺
がん封じの寺大安寺ポスターより
右 楊柳観音(重文)
中 不空羂索観音(重文)
左 多聞天(重文)
 大安寺中門跡
万葉歌碑
 うつせみは数なき身なり山川(やまかわ)の
 さやけき見つつ道をたづねな
  大伴家持 巻20 4468
   元暦校本 書

 奈良市の大安寺の旧境内(国史跡)で、平城京の東

西の道「六条大路」を挟む溝の跡とみられる遺構が見

つかった。約15m幅の大通りが境内を横切っていた様

子が浮かび上がった。16日、市埋蔵文化財調査セン

ターが発表した。

現在の南門前で昨年、六条大路とみられる路面と南側

の側溝跡を確認。その約50m東側を調査し、路面や南

側の側溝跡(幅約1.5m)のほか、新たに北側の

側溝跡(幅約1.7 m)を確認した。

南北の溝に挟まれた大路の中心線は、平城京内の過

去の調査から想定される六条大路の中心線と一致。金

堂などがあった北側の区画と、塔があった南側の区画

の間を、側溝に挟まれた約15m幅の大路が横切ってい

た可能性が高まった。

溝には12世紀ごろに埋められた跡があり、そのころ

には大路の機能が失われたらしいことも分かった。南

側の地区では文献に記録がない建物跡も見つかった。

センターの担当者は「古代寺院で大路が境内を横切

る例はほかになく、地形など何らかの制約があったの

かもしれません」と話す。
2017−11−17  朝日新聞

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