第二次大戦
(2025-8-15 産経新聞より)
終戦の詔書
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| 現代語訳 私は世界の情勢とわが国の現状を深く考え合わせ、非常の手立てをもって事態を収捨したいと願い、 ここに忠義厚く善良な国民たちに告げる。 " 私は米国、英国、中国、ソ連の4ヵ国に対し、その共同宣言を受諾する旨を政府に通告させた。 そもそも、国民が平穏無事に生活を送り、世界の国々とともに栄えるようにすることは、歴代の天皇が 残してきた手本であり、私の念願でもあった。米英 2ヵ国に宣戦布告した理由もまた、わが国の自存とア ジアの安定を心から望み願ったからであって、他国の主権を排し、領土を侵害するといったようなことは、 もとより私の意志ではない。しかし、戦争が始まり、すでに 4年の歳月が過ぎた。わが陸海軍の将兵たち は勇敢に戦い、役人たちも職務に励み、 1億の民たちも奉公し、それぞれが最善を尽くしてきた。それに もかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた私たちに有利とはいえない。加えて、敵は 新たに残虐な爆弾を使用して、罪なき民を殺傷した。痛ましい被害がどこまで広がるのか、その範囲は はかり知れない。交戦を継続すれば、最後はわが民族の滅亡を招くのみならず、ひいては、人類の文明 も破壊されることになろう。そうなれば、私は何をもって、大切なわが国の民たちを守り、歴代天皇の神霊 にお詫びすることができょうか。これが、私が共同宣言に応じるように政府に命じた理由である。 私はわが国とともに終始、アジアの解放に協力してきた友好諸国に対し、遺憾の意を表せずにはいられ ない。国民の中で、戦陣に死し、職域に殉じ、不幸な運命のもとに倒れた人々やその遺族たちに思いをい たせば、本当に悲しみに堪えない。また、戦傷を負い、災禍を被り、家業を失った人々の生活の厚生は、 私が深く心を痛めるところである。今後、わが国が受けるべき苦難は並大抵のものではないだろう。国民 の心中はよく分かる。しかし、私は時世の巡り合わせの赴くべきところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、 この先も長く続く未来のために平和を実現したいと思う。 私はここに国体を護持することができ、忠義に厚い国民たちの誠実な心を信頼し、常にあなたたち国民 とともにある。もし感情の激するままに争ったり、同胞同士が互いに相手を陥れたりして、道を誤り、その ために世界からの信頼を失ってしまうようなことがあれば、それは私の最も戒めるところだ。どうか、一丸 となってこの国を子孫に伝え、神州の不滅を信じてほしい。国の再建と繁栄への責務は重く、道のりは遠 いことをよく理解して、将来の建設に力を傾けてほしい。道義を大事にし、志を固くして、わが国の美点を 発揮し、世界の進歩に後れを取らないように肝に銘じなければならない。国民よ、あなたたちが私の心を 理解し、行動することを願う。 (監修・川上和久麗澤大教授) |
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御杖神社地図
| 奈良県の東端に位置し三重県の伊勢に近い御杖村。村名の由来となった伝承が残る土地に御杖神社 が鎮座している。 宇陀市から車で国道 3 6 9号を東へ進む。付近には西国から大和を経て伊勢神宮へ通じた旧伊勢本 街道が残る。近世によく利用された街道で、当時の信仰や参詣について知る上で貴重として良好に残る 峠が国史跡に指定されている。 御杖神社は県境に近い神末(こうずえ)という集落にある。川のそばに広がる境内に入っていくと杉の 巨樹が並び、神秘的な雰囲気だ。鳥の鳴き声と川音のみが聞こえ、森閑としている。 本殿には、杖から生まれた境界を守護する久那斗神(くなと)などが祭られている。社伝では 第 11代垂仁天皇の皇女、倭姫命が天照大神に仕える御杖代(みつえしろ)となり、大神の鎮座地を探す 旅の途中でその候補地の印として杖を残したとされる。「御杖を祭っており、伝承は地域の信仰となって います」と大森重嗣宮司は語る。 日本書紀によると、天照大神の鎮座地を探す倭姫命は「菟田(うだ)の篠幡(ささはた)」へ。その後、 近江 (滋賀県 )に入り、美濃 (岐阜県 )を経て、伊勢へと至った。そのとき、天照大神が「伊勢は中心で はないが美しい国だ」とたたえたため伊勢にお社を建てたという。 御杖神社では 11月 2日、例大祭が行われた。各地区の氏子を代表する当屋が神社の分霊を 1年間 祭る習わしが続いており、今回は「お当渡し」の儀式で 4軒が引き継いだ。当屋では分霊を神棚に祭り、 朝夕の食事を供えるほか神社の祭りにも奉仕するという。 「神様の威光が地域の皆さんに行き渡るように続けている。当屋を通じて神様を身近に感じていた だければ」と大森宮司。 神様の伝承や信仰が息づく村はいっそう山々が美しく輝いて見えた。 2025-11-24 産経新聞 岩口利一 御杖
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![]() 2026-1-7 産経新聞(夕刊) |
| 「神宿る島」として古代から人々の信仰を集め、玄界灘に浮かぶ世界文化遺産「沖ノ島」 。周囲約 4キロの絶海の孤島には古墳〜平安時代の約 5 0 0年間、大陸への航海安全を祈って金製指輪や銅鏡 などが巨岩の祭祀場に奉納された。国宝となった出土品の調査に取り組むのが余良県橿原考古学研 究所。術の解明を通じて、当時の都があった大和 (奈良 )などとの 関係や国家像に迫る。 沖ノ島には厳格な禁忌がある「不言様(おいわずさま)」と呼ばれ島での見聞は口外できず、一木一草 一石たりとも持ち出してはならない。上陸時は神職といえど着衣をすべて脱いで海で心身を清める。 玄界灘に面した宗像市神湊から北西 60キロに位置し、韓国・釜山までは145km。宗像大社の 「沖津宮」として島全体がご神体とあがめられ、神職が祭祀のために滞在する以外、原則立ち入りはで きない。(地図) 神聖な島であるがゆえに、島内の古代祭祀については長らくべ—ルに包まれていた。昭和 29〜 46年 に学術調査が行われ、沖津宮社殿北側の巨岩群から 23カ所の祭祀場が見つかった。 岩の上や岩陰、岩から離れた平坦地などの露天から、朝鮮半島系の金製指輪や中国由来の 金銅製龍頭、古墳時代の銅鏡、金銅製馬具など約 8万点が出土。国宝に指定された。古墳の副葬品の ように埋められたのではなく、祭祀場に奉納され、千数百年もの間、手つかずの状態だったとされる。 「強烈な潮風や雨にさらされる厳しい環境下にあって、遺物はもっと傷んでいても不思議ではない。これ ほど良好に残っているとは」。調査に携わる檀考研の水野敏典•保存科学センター長は目を見張る。 檀考研と宗像大社による共同調査が始まったのは平成 19年度。出土品は宗像大社のご神宝であり、 考古学的調査は画期的だった。 当時の橿考研所長の樋口隆康さん (故人 )は中国やアフガニスタンなど中東も含めた遺跡研究の第一 人者。沖ノ島の調査について「バーミヤン (アフガニスタン )などでは現地に行けば見ることができたが、 沖ノ島の遺物をこれほど間近で調査できるとは」と感激しきりだったという。 3年かけて銅鏡 71枚分の 3次元計測を行い、詳細な文様や種類が判明。同じ鋳型で作られた複数の 三角縁神獣鏡が確認されるなど貴重な成果が得られた。 令和 5、 6年度には金銅製龍頭や金銅製馬具などに調査対象を広げ、 3次元計測や蛍光エックス線な ど科学的調査を実施。保存科学センターの奥山誠義薦研究員は「精度の高い客観的なデータをさまざま な分野の専門家が共有でき、研究が深まる」と話す。 その中で注目されるのが、 5点の金銅製馬具「心葉形杏葉」 ( 6世紀 )。幅 10cmほどの大きさで、鳥人 とされる文様が鑿(たがね)で彫られている。 3次元計測などによって、目や翼の表現、鑿の打ち方が微妙 に異なり、複数の工人が関わった可能性が浮かび上がった。鑿の間隔のばらつきにも着目する奥山さん。 「ミスなのか、焦りなのか」。当時の金工職人に思いをはせた。 橿考研では現在、金銅製冠や馬具などが発掘された奈良県斑鳩町の藤ノ古墳 ( 6世紀後半 )の出土品 の保存修復も進めており、時代が重なる沖ノ島との比較研究に取り組む。奥山さんは「沖ノ島や藤ノ木古墳 という超一級の資料を分析する意味はとても大きい」と話す。 水野さんは考古学の立場から「古墳時代の銅鏡や金銅製品は全国で大量に出土しているが、本格的 な工房跡は見つかっていない。製筏法や素材など出土品からアプロ |チすることで、生産態勢にも迫れる のでは」と期待を込める。 4世紀後半〜 9世紀、大陸への航海安全など国家的祭祀が連綿と行われた沖ノ島。水野さんは言う。 「ヤマト王権がクラスのものを奉納する祭祀は、政治体制が変わっても揺るがなかった。それだけ特別な 島だった」 沖ノ島や藤ノ否墳の調査については昨年 11月、檀考研のシンポジウム「保存科学が拓く文化遺産の世 界」で披露された。奥山さんは「保存科学と考古学は車の両輪。遺物を後世に伝える保存科学の仕事は、 考古学に重要な情報を提供できることも知ってもらいたかった」と開催の意義を説いた。 もともと遺物の修復に主眼が置かれた保存科学。その蓄積は、歴史の解明へ新たな扉を開いた。 2026-1-7 産経新聞(夕刊) |
| 「海人の町」として知られる沖縄県糸満市の舟大工、大城清さん ( 76 )が沖縄の伝統漁業で使った 木造帆装漁船「サバニ」作りの技術継承に取り組んでいると聞き、会いフに行った。父親に教わった技術』を 次代に伝え「美しい舟を完成させた先人の知恵を残したい」と笑顔を見せた▼繊維強化プラスチック ( F R P ) 製の船が主流となった戦後、サバニは廃れたが、大城さんは F R P船の修理などをし ながら技術を守った。近年、マリンスポーツ用の発注が増え、弟子の高良和昭さん ( 52 )について「数多く作 らないと技術が身につかないが、おかげで一人前」▼かっ て海人はサバニで日本各地や東南アジアなど にも進出。松江市の美保神社に古いサバニが保存されており「サバニが広く活躍した証拠」と胸を張った。 漁船の役割を終えた海人文化の象徴が今後も活躍することを願いたい。 |
三大丸山遺跡
| 陸奥湾に面する青森市の市街地南側に、縄文集落跡である三内丸山遺跡がある。集落は縄文前期に あたる約5900年前に成立して1700年ほど存続したらしい。最新のAMS年代測定法(微量の炭素同位体の 質量分析により発掘遺物の年代を精密に測定する)により、従来の歴史年表にある先史時代はかなり遡り、 日本列島の歴史が次第に明らかになりつつある。 これによると、日本列島に人類が住み始めたのは約3万7500年前の最終氷期であり、最初に土器が作ら れたのは約1万6500年前だという。気温が上昇して海水面が上昇するのは約7000年前のことであるから、 縄文時代ははじめの約1万年が氷河期だつたことになる。 2026-4-20 産経新聞 (夕刊) |
保存科学
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| 2026-1-20 産経新聞 |
| 奈良県立檀原考古学研究所(橿考研 )、九州国立博物館などで研究を続け、保存科学のエキスパート として知られる今津節生さん。経歴をたどると、少々異色ともいえる。考古学といえば大学の文学部が多 いが、出身は駒澤大経済学部だ。 「生まれも育ちも和歌山。とにかく 一度は東京へ行きたかった。学部を問わず東京の大学ばかり受験 した」と苦笑する。教員免許を取得して郷里に戻るっもりだったという。 もともと歴史好きで、駒澤大では考古学クラブに所属して古墳を勉強した。青山学院大が古墳を発掘し ているのを知り、同大大学院で研究を深めた。保存科学の世界を知ったのは、同大で発掘した 古墳の大刀の修復がきっかけ。東京文化財研究所 (東文研 )に依頼したところ、自身も手伝うことになった。 東文研では、東北や九州など各地から保存修復のために遺物が持ち込まれた。「考古学なら弥生時代の 土器や古墳時代の銅鏡など、研究はどうしても専門化する。保存科学は、時代や国・地域に関係なく研究 できるのが新鮮だった」と語る。 土器の修復について研究し、当時は石膏での補修が一般的だったが、樹脂も使えることを論文で発表。 その後、樹脂が広く使われるようになった。「自分の研究がそのまま役立つことがうれしかった」と手応え を感じ、まだ研究者も少なかった保存科学の道を選んだ。 平成元年に橿考研へ。印象に残っているのが、 8年に発掘されたの前方後方墳、奈良県天理市の 下池山古墳 ( 3世紀後半 )だ。国内最大級の銅鏡「内行花文鏡」 (径38cm )が出土し、表面には泥のよ うなものが付着していた。「文様を見たいから泥を落としてくれ」。発掘国ではこうした声もあったが、「何か あるかもしれない」とそのままの箱で研究所に持ち 帰った。 今津さんが確認すると、泥ではなく、絹など高級な織物「裂」だつた。「皆目とともに、色も残っていた。 彩色のある古代の布といえば正倉院宝物。下池山古墳は数百年もさかのぼり、まさに最古だ」と目を見 張った。 青や赤系統などの縦じま模様が確認され、布の重なり具合も復元し、鏡は巾着のような絹の袋に包ま れていたことが判明。 iなどから、魏志倭人伝に記された「班布(はんぷ)」、「倭文(しどり)」とされ 邪馬台国論争にも発展した。 「当時、遺物が見つかれば、すぐ土を洗い落としてきれいにすることが多かった。下池山古墳の鏡も、 泥だと思って取り除いていたら、布の存在は分からなかっただろう」と話す。 保存科学は古代の日中関係をもあぶり出した。弥生〜古墳時代の墳墓などで出土する赤色顔料の 水銀朱に着目。水銀朱の硫黄同位体比の測定により、弥生時代の福岡の嘉では中国産を示す「プラス」 に対し、奈良県内の古墳は軒並み国産を意味する「マイナス」だった。 古墳時代、ヤマト王権は国内での水銀朱の採掘と生産技術を習得し、中国依存から脱却。国力の飛躍 的な強化が、ミクロの世界から浮かび上がった。 こうした研究成果の土台にあったのが、橿考研ならではの「同じ釜の飯を食う」という古き良き伝統。夕 方になると、発掘担当者は現場から次々と戻ってくる。休憩室などに自然と集まり雑談に花が咲く。話題 は決まって発掘現場のことだった。 「ウチの現場でこんなん出てきた」「大刀が見つかったが、さびないようにするにはどうしたらいいだろう」…。 :そんな時、保存科学の部屋を見ると照明がついている。「今津さんがまだおるなあ。ちょっと相談してみ よう」と担当者が訪ねてくる。「明日、一緒に現場に行こう」。そんな会話が交わされるのが常だった。 「互いに言葉のキャッチボ—ルができたのは、 橿考研に考古学と保存科学の人間が同居していたから こそ」。こうした体制が他の研究機関に広がることを願っている。 「保存科学とは、考古学担当者の『困りごと』にいかに応えるか。発掘 ,の愚痴が研究テ !マになるとこ ろが面白い」 2026-1-20産経新聞 編集委員小畑三秋 |
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| 全国の天満宮の総本宮であり、学問の神様・菅原道真公をまつる「大宰府天満宮」 (福岡県太宰府市 ) で、令和 5年から行われていた本殿の大改修が完了した。漆や檜皮など日本の伝統的な資材や技術用 いてよみがえった本殿は、豪壮華麗でありながら品格も漂う。豊臣秀吉の命で安土桃山時代に再建され て以来最も大規模な改修で、約 4 3 0年前の姿を再現。「神様のお住まい」を将来にわたり守る創意工夫 も後世に伝えられる。 (一居真由子 、 写真も ) 太宰府天満宮は延喜 5 ( 9 0 5 )年、道真公の墓所に廟を建てたことが始まりとされ、同 19 ( 9 1 9 )年に 醍醐天皇の勅命を受けて最初の社殿が造営された。以来 1 1〇〇年以上の歴史を持ち、火災や戦争な どで 何世紀にもわたって形を変えた後、豊臣政権下の天正 19 ( 1 5 9 1 )年に筑前国の領主だった 小早川隆景が本殿を再建。墓所の上に建ち、国の重要文化財にも指定されている。 今回の改修は、道真公の没後 1 1 2 5年となる令和 9年の「式年大祭」に向けて約 3年かけて実施。 明治期以来 1 2 4年ぶりの改修だが、改修規模は約 4 3 0年前の本殿再建以来最も大きい。 本殿は、正面の柱間が 5つある大型の社殿で、屋根の正面側が長く伸び、美し曲線を描いている。 「五間社海造」と呼ばれる構造で、格式の高い本殿に用いられる。この大屋根を全面的にふき替えたほか、 柱や天井など表面部分の漆、欄間彫刻や金襴巻などの彩色はすべて一度落としてから塗り替えた。 伝統技法で繊細な模様が施された「錺金具(かざり)」など約 8 0 0点も取り外した上で改修した。 国産の檜皮と漆 今回、屋根のふき替えに使用された檜皮はすべて岡山県産で、傷みが激しかった屋根がヒノキ約3800本 分の皮で全面的にふき替えられた。 檜皮ぶきの技術は、約 1 3 0 0年前の飛鳥時代に生まれたとされる日本固有の工法。耐久性や防水性 に優れ、瓦にはない優美で柔らかなカーブを生み出すことができる。改修に携わった文化財建造物保存技 術協会 (東京 )の原光治・副参事は「檜皮の下にある野地板はヒノキの皮をはがさないと状態が分からず、 残す部分と修復する部分の判断は難しかった」と振り返る。 また、近年国内で消費されている漆の多くが安価な中国産だが、塗り替え用の漆にはすべて国産漆が用 いられた。漆は、ウルシの木の樹液に由来する天然の素材で、木製品などを長持ちさせる生活資材として 古くから親しまれてきた。だが、化学塗料の台頭や職人の減少などもあり、国産漆の生産量が減少。改修 を請け負った大手ゼネコンの竹中工務店によると、「うるしの里」として知られる岩手県二戸市の浄法区や、 青森県の漆を調達した。 現場責任者を務めた同社九州支の小島英史主任は「漆はかなりの量が必要で調達が難しかった」といい 「漆塗りや彩色は職人の技能や知識に頼る部分が大きく、気象条件や温度、湿度にも品質が左右される。 伝統技術の奥深さと重要性を認識した」と語る。 継承する機会に 太宰府天満宮によると、長く良い状態を保つため、漆塗りや柱の金箔ののせ方は何度もテストや微調整を 重ね、細部まで最善の方法を探ったという。経験を有す職人が後輩とともに作業にあたり、技術を継承する 機会となった。 |
| 今年 3月、飛鳥宮跡を見下ろ甘樫丘 (同村 )で出土した木簡が注目された。「稲賜 奉了」 (稲賜う 奉りおわんぬ ) の 4文字。調査をした同村教育委員会文化財課の長谷川透係長は「天皇から賜わった稲を、豊穗を願い神に 奉ったとも想像できる」と指摘。高床倉庫 2棟と区画塀も発掘され、天武・持統朝の米蔵ともみられる。甘樫丘は 蘇我蝦夷、入鹿父子の邸宅があつたことで知られるが、蘇我氏滅亡後も重要な場所だった。 2026-5-7産経新聞(夕刊) |
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| 2026-6-18 産経新聞(夕刊) |
| 弥生時代で最もなじみ深い青銅器ともいえる銅。教科書などで「鐘のように鳴らして豊作を祈る」と解説 される一方、「近畿の銅鐸 VS.九州の銅桙と対立の構図としても語られる。謎多き銅鐸を 30年以上追い 続けた研究者が今春、一冊の本を出版した。本来は農耕祭祀用だった銅鐸が突然、国 (ク二 )の「守り」 のため大量に埋められた。九州の脅威に備えた近畿や中国地方——。西日本を取り巻く緊迫した政治情勢 が背景にあったという。銅鐸の終焉も、女王卑弥呼の誕生や前方後円墳出現と合致。まさに激変する 時代の証言者だった。 • 「銅鐸を追求すると、社会や政治との関係なくしては考えられない」。『銅鐸の世界』 (新泉社 )を執筆した 纏向学研究セーンター (奈良 -県桜井市 )の寺沢薫所長は語る。邪馬台国有力候補地の纏向遺跡や 卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳などを発掘し、弥生から古墳時代を中心に研究。今回銅鐸を通じて 弥生人の精神世界や社会に迫るべく、国内の銅鐸約 550個のうち博物館や大学などを訪ねて 378個を 実見した。 銅鐸は弥生時代中期前葉 (紀元前 2世紀中頃 )、朝鮮半島の影響を受けつつ日本独自に生み出され、 主に九州を除く西日本を中心に出土。高さ数十cmの釣り鐘形で、鳥やトンボ、脱穀作業を思わせる人物 が描かれたものもある。舌と呼ばれる棒が出土しており、農耕祭祀の際に木につるして打ち鳴らしたという。 「聞く銅鐸」と呼ばれている。 出雲から大発見 銅鐸が謎の宝器といわれるのは、銅剣や銅鏡のような墓の副葬品ではなく、山中などに大量に埋めら れるケースがあるためだ。 全国ニュースで大々的に報じられたのが、島根県出雲市の荒神谷遺跡。昭和 60年、道路建設に伴う 発掘で銅鐸 6個と銅矛 16本が並べて埋められた状態で出土。平成 8年には約 3キロ離れた加茂岩倉遺跡 (同県雲南市 )で、銅鐸 39個が道路工事中に発見された。いずれも山の斜面で、弥生中期末頃 (紀元後 1世紀前葉 )に埋められたという。 貴重な銅鐸をなぜ山中に、しかも同時期に—。神話の国・出雲とあって歴史ファンも巻き込んで議論が沸騰。 外敵から守るため境界に埋めた、隠したともいわれるが定かではない。 当時の政治情勢や遺跡を重ね合わせて考察したのが寺沢さん。北部九州ではこの時期、中国•後漢王朝 の後ろ盾を得た奴国が台頭。西暦 57年に後漢から印綬が下賜された記録があり、志賀島 (福岡市 )で発見 の「漢委奴国王」の金印とされる。 「奴国の存在は、近畿や瀬戸内などにとって大きな脅威。防御のため碧のような高地性集落を要所に築き、 大地の神に祈るため農耕祭祀用だった銅鐸を大量に埋納した」と指摘。荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の 出雲地域だけでなく神戸市内の山中で 14個の銅鐸と銅戈 7本が出土した「桜ヶ丘」も同様の背景があった とみる。 「見る銅鐸」に変化 このとき、北部九州が侵攻することはなかったが、1 0 7年に倭国王・帥升が中国に朝貢するなどさらに 強大化。新たな脅威に直面した近畿などの弥生人は、再び銅鐸にすがった。霊力を高める為大型化し、 滋賀県野洲市の大岩山では高さ1m以上の巨大銅鐸も出現。木につるして鳴らすのではなく、祭殿など に置いて宗めたとみられ、「見る銅鐸」と呼ばれる。 「『聞く』から『見る』への変化は外形だけでなく、農耕祭祀用から国を守る宝器へ意義そのものが変わっ た」と話す。 弥生時代末 ( 2世紀後半)になると、後漢の衰退によって北部九州の「ー強」は崩れ、特殊器台という 大型土器をまつった吉備、独特の形をした四隅突出型墳丘墓を築いた山陰などが台頭し、西日本は群雄隠 の様相となった。 この混乱期を記すのが中国の歴史書・魏志倭人伝。「倭国乱れ相攻伐すること歴年。すなわちー女子 を共立し王となす。名づけて卑弥呼」。何年にもわたって戦乱状態になったが、各勢力が共同で卑弥呼 を擁立して事態は収束し、邪馬台国に都を置いたという。 2世紀末〜 3世紀初めとされる。 軌を一にして終焉を迎えたのが銅鐸だった。奈良県などでは数cm大の銅鐸の破片が出土し、他の 青銅製品を作る原料用として破砕されたという。 豊作を願い国を守るために崇められた銅鐸は、新時代の到来とともに「リサイクル」に回された。 歴史が突きつけた厳しい現実なのかもしれない。 |
| 「空海の師」勤操しのび 学問所だった大安寺には、真言宗の開祖、弘法大師・空海(774〜835年)が若き日に出入りした可能性が ある。そんな空海の師ともされるのが大安寺僧だった勤操(754〜827年)だ。勤操は大和国高市郡(現在の 奈良県高市郡、橿原市周辺)に生まれた。南都六宗の一つだった三論宗を学び、宮中で講義するなどし当時 の仏教界で著名な僧となった。空海はこの人物から影響を受け、記憶力が増すとされる修行 「虚空蔵菩薩求聞持法」を教わったとも伝えられてきた。 そんな高僧の命日に遺徳をしのぶ「勤操忌の法要が今年も5月7日に大安寺で肖像画を掲げて営まれた。 法要後、河野良文貫主は「当時の学問僧は寺で経典をひもとくだけでなく、山に籠もり、生来備わっている 百然智を磨いた。その先駆けが勤操さん」と話した。 来年は勤操の没後1200年。 2026-6-10 産経新聞
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| 不空羂索観音立像(中央) 2026-6-10 産経新聞 |
| 「南都七大寺」に数えられ、今は「がん封じ」の信仰を集める奈良市の大安寺は奈良時代、国家筆頭の 寺院だった。境内は現在 (約 1万平方m )の約 25倍の広さを誇り、国内外の僧侶が出入りする「仏教総合 大学」の様相を呈していた。 2026-6-10 産経新聞 (岩口利一 ) 奇跡的に残る木彫仏 大安寺は恒例行事「光仁会・笹酒祭り」 ( 1月 23日 )や「がん封じ」の祈禱で知られる。現在の本堂は 何の変哲もない建物で、奈良時代の大伽藍は想像しにくい。それがひとたび宝物殿に入ると、目を見張る。 並んでいるのは不空羂索観音立像や聖観音立像、柳(りゅう)観音立像、四天王立像の計 7体。重要文 化財に指定された奈良時代の木彫仏だ。 大安寺では多くの建造物や文書、仏具が失われたが、本堂に安置している十一面観音立像と嘶堂 (いななき)の馬頭観音立像を含めた 9体が奇跡的に残った。 昭和 30年代に建てられた宝物殿は老朽化が進んだため増改築した。クラウドフアンディングで資金の 一部を工面し、令和 5年春に開館した。照明や内装によつて厳かな雰囲気を際立たせたためか、像をただ 見るだけでなく、前で手を合わせる人が増えたという。 一方、別の部屋に行くと V Rゴーグルを装着している拝観者と出会う。目に映るのは奈良時代の大伽藍 といい、壮大さに驚きの声を上げる人も多いようだ。 内外の僧侶ら交流 大安寺は奈良盆地南部の藤原京にあった大官大寺を前身としている。平城京遷都に伴い、現在地に移り、 大規模に整備された。その伽藍には幅約 35mの金堂やその 2倍近い講堂などがあり、 奈良時代末頃には七重塔が東西に並び立つ壮麗だったといわれる。 大安寺の河野良文貫主は「ここは当時仏教を広げた大もとで、渡来僧を含め多くの人たちが交流した。 海外から先端の文化が伝えられ、僧侶らが国内各地に広めた。いわば文化の受容と伝播の役割を担っ た」と語る。 奈良時代にまとめられた資財帳 (財産目録 )によると、僧侶の数は今の規模ではイメージしにくい 8 8 7人に上る。海外の僧も住み、インド出身で東大寺大仏開眼の導師を務めた菩提僊那やベトナムから 訪れ現地の音楽を伝えた仏哲もいたと伝わる。そんな僧侶らが拝み、たたえた金堂本尊はどんな像だっ たのか。 それは天智天皇が造らせたとされる大きな釈迦如来像で、中世以降に失われたが、平安時代には 薬師寺 (奈良市 )の薬師三尊像よりも優れていると評されていた。平安時代の仏教説話集「日本霊異記」 には、この釈迦如来に祈り続けた貧しい女性が銭を拾い、寺に届ける行為を繰り返したところ、僧侶らが 信心を知り、仏が与えたとして女性に銭を返したという話も残る。大安寺釈迦如来の霊験が庶民の間で も知られていたことをうかがわせる説話とされ、興味深い。 周辺変化も静謐に 現在の大安寺周辺は住宅地が広がるが、 J R関西線の新駅や京奈和自動車道のインターチェンジ I C ) も計画されており、今後は環境が変化することも予想される。 「寺の周辺は建築物も増え、一気に変わるかもしれない。そんな中でここを清浄で静謐(せいひつ)な 宗教空間として守っていきたい」と河野貫主は話す。 また、現在の境内南側にあり、古くから保存が図られてきた東西両塔跡周辺も貴重だ。広大な空間に基壇 が残り、付近に立っと、壮麗な七重塔の姿を想像できる。そんな大寺の祈りについて河野貫主はこう語る。 「釈迦如来が本尊に選ばれたのは、日本仏教の根幹を担うという意識があったためでしょう。寺名『大安』 からもうかがえるように釈迦如来に天下太平、万民安楽を祈ってきた。現在の私たちもそうした祈りをより 深めていきたい」 |
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