かぎろひの丘地図人麻呂公園地図又兵衛桜地図

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道の駅に飾ってある「かぎろい」状態の写真
 
 かぎろいの丘
 
 かぎろいの丘(東)
 
 かぎろいの丘(西)
 
 

  軽皇子の安騎野(あきのの)に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌

やすみしし わが大王(おおきみ) 高照らす 日の皇子 神(かむ)ながら
神(かむ)さびせすと 太敷(ふとし)かす 京(みやこ)をおきて  隠口(こくもり)の  
泊瀬(はつせ)の山は 真木(みき)立つ  荒山道を 石(いは)が根 
禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして玉かぎる 夕さりくれば み雪降る
阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 
草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて                   (巻一〜四五)

解説⇒軽皇子の阿騎野 


 
   

 
東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて かえり見れば月傾(かたぶ)きぬ

「かぎりひ」というのは「陽炎」すなはちかげろうと解されるが、この「かげろうは」は日中に
立つものではなく、暁天の光をさすものとされる。東の空に日が立ち、暁の光がさしている。
その時、ふと西をふりかえってみると、月がもう入りかかっているという意味で、朝の気配を
歌った壮大で雄偉な歌と云われる。
  解説 東の野に⇒
  万葉集のなかで秀歌のひとつに数えられるこの歌は、持統六年の冬(六九ニ年),この

地阿騎野へ狩りに訪れた軽皇子に同行した柿本朝臣人麻呂によって詠まれたものです。

 故中山正實画伯は、この時の情景に綿密な考証をくわえ、壁画 「阿騎野の朝」を描かれ

ました。この柿本人麻呂石像は、現在大宇陀.町が所蔵する壁「阿騎野の朝」をもとに、

「阿騎野・人麻呂公園」のシンボルとして制作したものです。

  平成九年三月 大宇陀町長 芳岡一夫

 
 柿本人麻呂⇒⇒⇒

 大宇陀町は、奈良県北東部を占める大和高原の南端部に位置し、宇陀川上

流の小盆地に発展した歴史の古い個性豊かな町です。 この「阿騎野・人麻呂

公園」は大宇陀町のほぼ中央部、 宇陀川支流の本郷川と黒木川に挟まれた
微高地状の丘陵端部に位置しています。 この地からは東方 "かぎろひ"のたつ

高見山をはじめとして宇陀の連山、 近くに古城山、 北は万葉公園、 西は西山

岳、南は吉野の峰々を望むことができます。

 平成7年度( 1995)に実施した発掘調査によって、 この地が古代の狩

(薬猟)場であった、 「阿騎野」の重要施設であることが判明しましたので、

大宇陀町は保存整備委員会を発足させ検討を重ねました。 その結果、 調査し

た中之庄遺跡の遺構を復原保存し、故中山正實画伯の壁画「阿騎野の朝」

をもととした万葉歌人柿本人麻呂の石像を建立し、 「阿騎野・人麻呂公園」

として保存 整備しました。 

   
阿騎野・人麻呂公園

 平成七年度に実施した発掘調査により

この地に古代の狩場(薬猟)であった『阿

騎野』の中心施設がおかれたことが判明し

た。この遺跡からは掘立柱建物跡などが発

掘され、現在、遺跡公園として保存されて

いる。

   
 

   
 当区の字道辺寺の境内に、大坂冬の陣、大坂夏の陣で活躍した豪傑、
後藤又兵衛の墓がある。
 周囲に玉垣がめぐらされ、石碑には「法泉院量獄安寿居士」と彫られ
ている。
 元和元年(1615)5月8日、大坂夏の陣で豊臣方は敗退したが、
又兵衛は再挙兵の希望を捨てがたく、城中より逃れた落ちた。
 紀州を廻って知人を頼り、大和宇陀の当地に来て、本郷の鉱泉で傷を
癒し、豊臣家の再興を待ったが、
世は徳川の天下となったので、又兵衛は僧になり「後藤」の姓を一時
「水貝」と改めて生活していたと伝えられている。
 当地には、後藤の姓を名乗る家が数件あり、この又兵衛ゆかりの枝垂
れ桜が残っている場所も、後藤家の屋敷跡である。
 また、本郷鉱泉を利用した又兵衛ゆかりの湯として、近くに県立老人休
養ホーム椿寿荘宇陀寮の本郷温泉がある。



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松山城西口門地図
 
 

 「松山町」(現大宇陀町松山地区)は、天正13年 (1585)

から宇陀郡に入部してきた、豊臣家配下の大名の城下町

として成立しました。 関ヶ原の戦いの後、当地の領主と

なった福島孝治の頃、町名も「松山町」と改称されたと

考えられます。

 元和元年(1615)に織田信長の次男信雄が宇陀を所領し、

宇陀松山藩としての藩政が始まります。 織田氏は、春日

神社の北側に「御上屋敷」を、その周辺の城山山麓から

山腹地にかけてと宇陀川の西側に武家地、 現在の町役場

付近に「長山屋敷」を設け、 それらに挟まれる形で町人町

を定めました。織田氏時代には400軒を数える商家が賑わ

いました。

 元禄年間の織田氏転封の際、 織田に関係する施設はすべ

て取り壊されたため、 町人町だけが残りましたが、元来

奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地とを結ぶ地の利を得て

おり、平坦部からは米や塩、その他の日常物資を、山間

部からは薪炭や木材、 特産品の吉野葛・宇陀紙を、また

遠く熊野灘の鯖を平坦部に供給しました。 城下町として

の機能を失っても「宇陀千軒」と呼ばれる繁栄を誇り、

薬問屋や紙問屋をはしめとした各種問屋、 小売商などが

軒を連ね、18世紀末の史料には、三と八の日に市が開か

れ、遠く室生・曽根・御杖・吉野からも客が来ると記さ

れているように、広域な商圏をもつ在郷町であったこと

がうかがえます。

 現在の松山地区には、 今なお江戸時代後期から明治時代

にかけての建築物等が数多く残っており、 これらの建築物

や歴史的街なみを保存し、 後世に伝えて行かなければな

りません。



歴史的な建築物
 
   
   
     


阿騎神社地図
     
 垂仁天皇の御代皇女倭姫命天照大神

祀った宇多の吾城(阿騎)宮が当社の起こ

りといわれる。境内には神明造りの本殿と

現在では非常にめずらしい能舞台があり、

「あきの蛍能」として六月中旬に能楽が催

される。

   

 神武天皇紀州能熊野の難所を越し大和国宇陀へ出て

当地阿騎野において御祖の神を敬祭り国中へ押出すとき

朝日を後に戴きて日神の御位勢をかり賊軍を打ちはらい

御運を開かせ給ふと当社古文書にあり祭神は伊勢神宮

御同体の天照大神社殿は神明造り南向と伊勢神宮と

全く同じ建て方になっております。

境内にある能舞台は宇陀の地が元和以来織田藩の治所と

なり三代長頼公時代に始められたものといわれている。

 軽皇子の阿騎野 ⇒