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伊勢神宮

皇大神宮(内宮)略図から 豊受大神宮(外宮)略図から 行 事
 伊勢神宮は天照大御神を祭る皇大神宮・こうたい(内宮・ないぐう)と豊受大神・とようけを祭る
豊受大神宮(外宮・げぐう)
の両正宮の他、14の別宮、109の摂社・末社・所管社からなり125の社殿がある。
内宮は、五十鈴川の清流のほとり、緑深い森の中の清浄と静寂の聖地に鎮まる。
 ふたつの御正宮は、天照大御神の皇祖神としての側面(内宮)と、作物の豊饒神としての側面(外宮)を表している。
 日本書紀によると、天照大御神は最初は宮中に祭られていたが、神威を畏れた祟神天皇は、皇女豊鍬入姫に命じて
大和の笠縫村に遷させた。さらに垂仁天皇の世に、倭姫が各地を巡りあるいて伊勢の国至り、
天照大御神の「かの神風の伊勢の国は常世の波の重波よする国なり。
傍国のうまし国なり。この国に居らむとおもふ。」の言葉を得て、ここに鎮座の地と定めたという。
 参拝は外宮から内宮の順にするのがならわしとなっている。
 「日本の文化は継続の文化です。それを象徴的に表すものが、法隆寺と伊勢神宮です。
 法隆寺は7世紀に建てられた世界最古の木造建築です。それも、遺跡から発掘されたというものでは
ありません。何度も解体修理しながら、1300年の間ずっと日本人が戦争や自然災害から守り通して
きたものです。1千数百年にわたって、こうして一つのものを守り伝えて、今も生きているというのは
日本だけのことです。稀有のことです。これは継続の文化だからこそ、と言っていいでしょう。
 法隆寺は当時の国際文化として、宗教として外国から入ってきたものを一生懸命守ってきたものです。
 しかし、伊勢神宮は違います。これは在来の、日本が生み出したもので、遷宮といって20年ごとに
新しく立て直しています。毎回、新たに木材を切り出し、全く同じデザイン、同じ技術で建て替えているわけです。
そういう形で、建築の技術を伝承しているものです。
 最初は持統天皇の時といいますから、1300年近く伊勢神宮の遷宮は、戦争に負けようが、
爆弾が落ちようが、続けられてきたわけです。
 この伊勢神宮の神殿は、高床の、穀物倉の象徴です。つまり農耕民族であること、
農耕文化の大本である稲作農耕を忘れておりませんという、証だということです。日本の原型ともいえるものを、
そうやってデザインとして、技術として残していこうという先祖の知恵なのです。
 法隆寺と伊勢神宮。片方は文化財、生きた宗教として原型オリジナルを一生懸命残してきました。
もう一方は、継続はするけれども物や形ではなく、心を伝え残してきたことになります。
有形文化財と無形文化財の伝承を守り続けられた。」
  平山郁夫 
 
法隆寺⇒⇒⇒

皇大神宮(内宮) . 祭神 地図 hi77hi
 御正宮 . 天照大御神 御正宮 hi77hi
 第一別宮 荒祭宮 . 天照坐皇大御神荒御魂 . hi77hi
 別宮 風日祈宮 . 級長津彦命
級長戸辺命
風日祈宮 hi77hi
 子安神社 . 木華開耶姫命 子安神社 hi77hi
 大山祇神社 . 大山祇神 . hi77hi
. 宇治橋 . 宇治橋 hi77h
. 神苑 . . .
. 火除橋・第一鳥居 ., . .
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. 参集殿 . . hi77hi
. 第二鳥居 . . hi77hi
. 風日祈宮橋 . . hi77hi
. 神楽殿 . . hi77hi
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. 別宮遥拝所 . .
籾だね石 . .
. 御酒殿・由貴御倉 . . hi77hi
. 外幣殿 . . hi77hi
. 忌火屋殿 . . hi77hi
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. 内御厩 . .
. 御稲御倉 . . hi77hi
. 火除橋・外御厩 . . .
. 手水舎(東 . . .
. 神宮司庁 . 神宮司庁 .
 別宮 倭姫宮 . 倭姫命 倭姫宮 hi83hi
 別宮 月読荒御魂宮 . 月読尊荒御魂 . hi85hi
 別宮 月読宮 . 月読尊 . hi85h
 別宮 伊佐奈岐宮 . 伊弉諾尊 . hi85h
 別宮 伊佐奈弥宮 . 伊弉冉尊 . hi85h
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豊受大神宮(外宮 . . . hi78hi
 御正宮 . 豊受大神宮 御正宮 hi78hi
 別宮 土宮 . 大土乃祖神(おおつちのみおやのかみ) 土宮 hi78hi
 別宮 風宮 . 級長津彦命(しなつひこのみこと)
級長戸辺命(しなどべのみこと)
風宮 hi78hi
 別宮 多賀宮 . 豊受大神荒御魂(とようけおおかみのあらみたま) 多賀宮 hi78hi
 下御井神社 . . 下御井神社 hi78hi
. 表参道火除橋 . . .
. 勾玉池・奉納舞台 . . .
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. 手水舎 . . .
. 第一鳥居 . . hi78hi
. 神楽殿 . . hi78hi
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. 火除橋 . . hi78hi
. 北御門鳥居 . . .
. 御厩 . . .
. 忌火屋殿 . . .
. 五丈殿・九丈殿 . . .
. 参道 . . .
. 三ツ石 . . .
. 別宮遥拝所 . . .
 猿田彦神社 . 猿田彦大神 猿田彦神社 hi79hi
 佐瑠女神社 . 天宇受売命 佐瑠女神社 hi79hi
 別宮 世木神社 . . 世木神社 hi80hi
 別宮 月夜見宮 . 月夜見尊 月夜見宮 hi86hi
 摂社 高河原神社 . 月夜見尊荒御魂 高河原神社 hi86hi
 おかげ横丁 . . おかげ横丁 hi84hi
 おはらい町 . . おはらい町 .
 神路通り . . 神路通り .
 神宮美術館 . . 神宮美術館 hi83hi
 神宮徴古館 . . 神宮徴古館 hi83hi
天照大神、伊勢へ⇒⇒⇒
 皇室の宗廟(そうびょう)である。
 当神宮においては通常、祭神のアマテラスを天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、或いは皇大御神(すめおおみかみ)
と云い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と云う。
 伊勢神宮は内宮(皇大神宮・こうたいじんぐう)と外宮(豊受大神宮・とようけだいじんぐう)からなる。
内宮は第11代垂仁天皇のとき、外宮は第21代雄略天皇の時に創建された。
 神宮には式年遷宮(しきねんせんぐう)があり、20年に一度125すべての社殿を新造して神々を遷すことになっている。
これは常若(とこわか)という考え方で、常に若々しい姿をみせることになる。平成25年(2013)で62回目となる。
 内宮・外宮の棟持柱(むなもちばしら)は20年後に宇治橋の内と外の鳥居となる。
さらに20年後には「鈴鹿の関の追分」桑名の七里の渡し」の鳥居になる。
式年遷宮は
1、神の住まいである新しい社殿を建てる。
2、御装束(おんしょうぞく)や神宝(しんぽう)を奉納する。
3、新社殿に神がうつる遷御(せんぎょ)の祭りを執り行う。
 三つの柱から成り立つ。
 一連の行事は8年前の5月から始まっており、新しい社殿に神をうつす遷宮の儀で最高潮を迎える。
 起源は、690(持統4)年に内宮、2年後は外宮で初の遷宮が行われたと伝えられている。中世の戦乱で中断もした。
 神宮にとって最も重要な神事は、新しく収穫された米を天照大神に捧げ感謝して来年の収穫を祈願する神嘗祭(かんなめさい)。
その神事を、社殿を20年に一度新しくして大がかりに行うのが式年遷宮である。 
 五十鈴川にかかる宇治橋の前に鳥居がある。冬至の日に鳥居から昇る朝日は宇治橋と鳥居は一直線上になる。
1月11日御饌(みけ)の神事
 内宮の天照大神、外宮の豊受大神をはじめ、伊勢神宮125社すべての祭神が一堂につどい、神職も全員参列
する神様の新年会。
 御饌の神事が終わると、第二部が始まり、五丈殿を会場として舞楽が催される。
宗廟
宗廟(そうびょう)とは、祖先の霊を祭った建物のこと。御霊屋(みたまや、または、おたまや)と云う。
日本で宗廟と云えば、伊勢神宮と石清水八幡宮の二か所を云い、両宮を併称して二所宗廟と云う。 



伊勢参宮年表  
400頃 この頃、天照大神(内宮)と豊受神(外宮)の祠を伊勢国に立てられる。

670   天武朝の頃、斎宮制度と式年遷宮制度ができる。

849   正史による式年遷宮の最初。

934   神嘗祭あり。参宮人数十万人、貴賎を論ぜず参拝する。

1094  役夫工米の初見、この頃から役夫工米制度が成立。

1116  参宮人殺到し、宮川洪水中に漂流する。

1186  俊乗坊重源ら東大寺衆徒、東大寺再建祈願のため神宮に参詣す、以後貞慶叡尊、忍性、一遍なども参詣

1287  外宮式年遷宮に際し、参宮人幾万人なるを知らずという。

1318  外宮祢宜、美濃・尾張両国の人のために大神宮参詣の精進法を示す。

1393  足利義満、伊勢神宮に参詣す。以後室町将軍の参宮多し。

1407  山科家神明講の初見、以後公家中で神明講が盛んになる。

1434  外宮の遷宮。その後百年ほど中絶。

1462  内宮の遷宮。これ以後中絶。

1464  神宮、新関の撤去を請う。
1487  諸国・洛中群参し、降雨のために宮川橋が落ちて数百人が溺死した。

1538  伊勢国司北畠晴具が参宮のために伊勢国内の関を開いたので京都からの参宮者が押し寄せる。

1551  式年遷宮の勧進のため、清順尼綸旨を受け、慶光院の称を勅許される。

1553  北畠晴具、病気の崇につき、関所撤廃。諸国の参宮人数万人群参すという。

1563  慶光院清順尼の努力により外宮の正遷宮が復活。

1569  信長、宇治郷の濫妨禁制、信長、関所撤廃。

1580  山田奉行設置される。

1605  宇治・山田御師職式目の条々を設ける。

1615  伊勢で風流おどりが流行。

1638  おびただしい数の男女が江戸から伊勢へ向かう。

1650  お蔭参り始まり翌年まで続く。

1662  慶光院の両宮遷宮に関与することを禁ず。

1705  おかげまいり.330~370万人で一日に22-23万人。

1771  おかげまいり200万人(宝暦ばなし)。奈良に一夜で7-8万人が泊まる。

1830  全国的で大規模なもの。江戸時代最後のおかげまいり。御札降りもあった。総勢500万人。南都に10万人。

      丹波市に施行場設置。

1867  ええじゃないか踊り。各地で両神宮のお札が降る。

1868  参宮人は無し。

1867  神仏分離令が出され、宇治と山田では109ヶ寺が廃寺。

1869  明治天皇の神宮参拝。

1871  太政官、神官の世襲制を廃止し新しい職制となる。御師制度を廃止する。

1887  この頃から宇治の館町は撤去されて神苑となる。





伊勢信仰の広がり
                      平成26年2月22日 てくてくてんり 文化歴史探訪 講演会 天理大学教授 吉井敏幸氏 より
 

1 伊勢神宮のはじり

  伊勢神宮の祭神は、内宮(宇治にあり)は天皇家の祖先である天照大神で、外宮(山田にあり)は神饌を司る豊受神で、二宮あわせて

  両所宮ともいう。内宮は垂仁期、外宮は雄略期に鎮座の伝承あり。皇女を神宮に派遣する斎王と斎宮(斎王の宮殿)、式年遷宮制度は

  いずれも7世紀末の天武朝に成立。式年遷宮は20年に一度掘っ立て柱の高床式神殿を造替する。神宮領は古代は神戸、平安時代は

  神郡(神八郡)、鎌倉時代は御厨、御園。遷宮費用は11世紀末から臨時税の役夫工米を全国の公田に賦課する。


2 古代から中世の伊勢参宮

  原則として天皇からの勅許、宣旨で朝廷が幣帛を奉ず(私幣禁断の制)。伊勢神宮の神嘗祭で毎年9月11日に祭使を派遣して幣帛を奉納

  (例幣)、斎王の群行と神宮奉祀。

  平安時代中期から多くの参詣者。承平4(934)年には数十万人参宮の伝。宝治元( 1247)年内宮遷宮に多数の参宮。中心は貴族、武士

  だが、庶民の参詣もあり。重源,叡尊などの僧侶。室町将軍の伊勢参宮。義満は応永年間だけで10回。山伏行者道者が参詣し先達として

  参宮案内。

3 斎宮と式年遷宮

  鎌倉末に斎宮の断絶、戦国時代に式年遷宮の断絶(外宮1434年、内宮1462年)、100年後の1563年に再興、慶光院清順。ただし庶民の

  参宮は盛ん。

4 伊勢御師と伊勢講

  伊勢信仰の地方展開と庶民の参宮は御師の活動と伊勢講の拡大。御師は御祓や大麻、伊勢暦の配布、御師と檀那の結びつき、参宮

  案内と宿の提供。御師は江戸時代では700人。

5 伊勢街道とお陰参り

  大和からの伊勢街道では、伊勢本街道、伊勢別街道、和歌山街道。江戸時代では通常年50万人の参宮者。お陰参りの年は慶安3( 1650)。.

  宝永2(1705)、明和8(1771)、文政13( 1830)でだいたい60年周期の集団参宮。慶応3(1867)はええじゃないか。

  菅笠、柄杓、施行場


6 文政13年のお陰参りと丹波市

  閏3.2に大坂から奈良へは9万人、奈良に宿す3万4千人。丹波市・中町に施行場、施行駕籠100挺。

7 明治以後の伊勢信仰の変化

  明治初年の神宮改革、伊勢?師の廃止、鉄道の発達、神苑の整備、宗教法人伊勢神宮






人々の往来〜古代から中世の足跡〜
                           平成26年2月22日 てくてくてんり 文化歴史探訪 講演会 天理大学名誉教授 近江昌司氏 より

伊勢街道の成立

【7-8世紀の三公道】

  下津道,中津道・上津道

【9世紀以後の三公道】

  下津道は五條一紀伊。中津道は飛鳥ー吉野一大峰。上津道ー一部は山麓、山辺道と重複は初瀬・はせ道… 伊勢に通じる。
  上津道の北半分は、
丘陵横断あるいは山麓に入るので 次第に通行不能になる。やがてその西側に沿う上街道・ はせ道(条理制との重なり)が
  成立しやがて伊勢
詣の発達によって大阪以西の伊勢本街道につながる。


伊勢街道(はせ道)を通った人々

A 古今和歌集 248

  『仁和の帝みこにおはしましける時、布留の滝ご覧ぜむとておはしましける道に、遍照が母の家にやどりたまへりける時に、庭を秋の野に

  つくりて、おほむものがたりのついでに、よみてたてまつりける さとあれて人はふりにし宿なれや 庭もまがきも秋の野らなる』

B 古今和歌集 870
  『石上の並松が宮仕えもせで、いそのかみといふ所にこもりはくりけるを、にはかにかうふりたまはりけれは、よろこひいひつかはすとてよみて

  つかはしける

  日の光やふしわかねば磯の神ふりにし里に花もさきけり

C 相模家集(詞書のみを抽出し並記)

『神奈川はつせに詣るに、稲荷の下のみ社にて御幣たてまつる一?の鳥居一良因といふ寺にて、布留の杜の紅葉をみる一菅田の池にて一

あとむらといふ所に宿りて鹿なく』


D 後撰和歌集(歌詞のみ)

  『はつせへ詣すとて 山辺といふわたりにて詠みはべりける   伊勢』

E 更級日記 永承元(1046)年10月26日

  『翌朝そこをたちて東大寺により拝みたてまつる、石上もまことに古るにける事おもひやられて、むげにあれはてにけり、その夜山辺といふ
  ところ
の寺にやどりて.・・・』


伊勢神宮の成立

1 日本書紀 崇神天皇6年

  『是より先に天照大神・倭大国魂二神を、天皇の大殿の内に並祭る。然してその神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず。故、天照

  大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る」

2 日本書紀 垂仁天皇25年3月

  『天照大神を豊鍬入姫命より離ちまつりて、倭姫命に託けたまふ、爰に倭姫命、大神を鎮め坐さむ処を求めて菟田の篠幡に詣る。
  (此れをば
佐々と云ふ)更に還りて近江国に入りて、東の国美濃を廻りて伊勢国に到る。時に天照大神、倭姫命に誨へて曰はく「この神風
  の伊勢の国
は、常世の浪の重浪よする国なり。この国に居らむと欲ふ」とのたまふ…』


3 日本書紀 景行天皇40年10月

  『日本武尊、発路したまふ。戊午に道をよぎりて伊勢神宮を拝む。・・・.ここに倭姫命、草薙剣を取りて、日本武尊に授けて曰はく「愼め。
  な怠りそ」
とのたまふ』

4 宋書卷97夷蕃伝(倭王武上表文)

  『順帝の昇明2 (478)年使いを遣はして上表して曰く「・・・ 昔より祖濔、躬ら甲冑を鐶ききて山川を跋渉し、寧所に遑あらず、東の毛人を姓す.

  ること55国、西の衆夷を服すること66国・・・」倭王武=雄略天皇


 日本書紀 天武天皇元(672)年6月

  [24日吉野出発して伊勢美濃へ]『26日、旦に朝明郡の迹太川の辺にして、天照大神を望拝みたまふ』


6 万葉集
 199

  『(高市皇子の殯宮で柿本人麻呂作)行く鳥の争ふ間に、度会の

  斎の宮ゆ、神風にい吹き惑はし、天雲を日の目も魅せず、常闇に覆ひ給ひて…』


7 日本書紀 天武天皇2 (673)年4月

  『大来皇女を天照大神宮に遣侍さむとして、泊瀬斎宮に居らしむ。是は先ず身を禊めて、稍に神に近つく所也』


中世伊勢参りの発達

8  伊勢使=神嘗祭一伊勢例幣使・四姓幣使。臨時奉幣使。天皇親拝はなし。

9  国家祭祀から社寺参詣対象へ一貴族・僧侶→庶民。重源・貞慶叡尊・無住・他阿・西行。足利義満・義持・義教

10 経済的疲弊一内宮禰宜荒木田氏・外宮禰宜度会氏の活躍度会神道の成立。

11 『太神宮参詣精進法』 (14世紀成立)


12 通海大神宮参詣記  弘安9 (1286)年

  『内宮は火によりて威を顕し、外宮は水に因りて徳を示す。陰陽はからずと云え共、霊験よしある者歟』火徳・水徳一陰陽五行説

13
 坂十伝大神宮参詣記 康永元(1342)年

  『念珠をも取らず、幣帛もささげず、心に祈る所なき浄地至極(の地)』

14
 山王一実神道 (天海書)

  『真言神道は・・・内宮を金剛界。外宮を胎蔵界に配し、以て両宮の一致を明らかにせんとせり』


15 身自鏡

  『南無天照大神ハ即衆生の父母』

  東国から社寺参詣=駿河江尻ー(船便)-安濃津-伊勢-熊野高野

16 上井覚兼記 天正11年6月3日

   『島津藩家老覚兼の伊勢参詣記述』

17 狂言素襖落

  『伊勢は諸国のつきあい』

18 御師の活躍一度会・多気の神郡-御厨の揄チ、全国に110ヶ所。

  東海関東中心(伊勢37、尾張9、美濃5、三河6、遠江9、駿河5武蔵4、上野6、信濃4)収税激減。

  中級禰宜-先導・宿・お祓祈祷-師檀関係。