大文字地図 

 8月16日午後8時点火される。妙・法は8時10分。船形は8時15分。
左大文字は8時15分。鳥居形は8時20分に逐次点火される。
点火時間は約30分。
大文字送り火  「大」送り火 送り火「い」
 火床について、
大の字の一文字は、金尾(交わるところ)までが8ヶ所、
金尾から10ヶ所。80m。
大のノ字頭(北の流れ)は金尾まで9ヶ所、金尾から20ヶ所。
160m。大の南の流れは27ヶ所の火床がある。120m。
   
金尾 字頭、北の流れ 北の流れ 南の流れ 一文字 一文字
字頭の火床全体で一つ。
 この火床の上に薪を井桁に組んで積み重ねる。
金尾の火床、全体で一つ。
一文字・北・南の流れが
交り合う個所
字頭・金尾以外の火床。
南の流れ、道に沿って27ヶ所
設置してある。このタイプの火
床は合計73ヵ所。
 火床の構造は、自然の山膚(山の斜面)に若干土盛し、大谷石を設置、その上に薪を井桁に組んで積み重ね、
(高さ約1.3m)
その間に松葉を入れる。
 大文字は市内のどこからでも眺望できる位置にあるが、如意ケ獄相国寺の領地であったため、
この寺の方を正面に照らしたともいわれ、
あるいは足利家が最も眺めのよいように一条通りを正面にしたとかまた、
京都御所の池泉にうつるようにしたとの諸説がある。
空海を祀った弘法大師堂

 大の字の三本の線の交点に、お大師さんをまつった小さなお堂が

ある。そのお堂には、一坪ばかりの板敷に畳表をしいたおつとめ

の場所があり、山麓の信者たちが、毎朝かかさず、きれいに掃き

清め、花を供え、手水鉢の水をかえている。

 護摩木が銀閣寺門前で受付られ、
点火資材として運ばれる。
この弘法大師堂でお燈明がともされ、
浄土院住職・参詣者により般若心経があげられる。
その後お燈明を親火に移し、合図によって点火される。 
愛宕山 吉田山 京都御所 鴨川 下鴨神社 上賀茂神社 京都植物園
 如意ヶ岳は大文字山の通称によって広く知られている。

点火の起源

 この送り火が最も良く知られて、いて、『京都の大文字』と言えばこの「東山の大文字」を
イメージされる程で、送り火の代表選手ですから、俗説も一番多く伝承されています。

1)平安時代初期説

 ①延暦の後半13~24年(794~805)、桓武天皇の御代に、鹿ヶ谷霊鑑寺の裏山の峰に、北辰

(北天の星辰=北極星)を祀り、火を焚いて祈ったのが始まり。

 ②.嵯峨天皇の弘仁6年頃(815)飢饉で疫病が流行した時、弘法大師が如意ヶ獄の山中に

鉄輪を置き、これを中心に、左右上下に75ヶ所で生松を燃やし、増益の護摩燈とし、

「王躰安穏·天下泰平・悪気退散」を念じられたのが始まり。

 また、盆の16日は黒月黒日黒刻で全て陰数なので、この加持力を火で御世まで結界さ

れたと言われている。(熊谷直恭氏著「大文字断」より)

 ③後一条天皇の寛仁2年(1018)に、山麓の浄土寺(現在は廃寺)が火災にあった際、本尊

の阿弥陀如来が山上に飛んで行って光明を放った。この霊験を伝える為に、その光明を

かたどって盆に点火していたものを、弘法大師が「大」の字に改めた。

  (安永9年(1780)の書と言われています「都名所図会」より。 下図参照)

 
 大文字送り火風景『都名所図会』 安永9年(1780)より

 ④唐の時代(618~898)に字舞(舞う人が文字の形に並んで舞う雅楽)として、地に火で文

字を顕したものを、弘法大師がまねて東山に大の字を作ったのが始まり。 (確井小三郎

氏著「坊目誌」より)

2).室町時代説(1326~1573)

 ①足利家が隆盛時に遠望遊観のため作らせて点火した(俳諾歳時記「華実年浪草」より)

 ②後土御門天皇の延徳2年(1490)頃に、 将軍足利義政(1436~1490)が亡子義尚の追福を

祈り、相国寺の横川景三(おうせんけいさん)和尚に命じ、和尚は将軍家臣の侍医芳賀掃部と
相談して作った。(「山城名跡巡行志」より)

 ③『……浄土寺には大文字、皆かくの如し。 大文字は三藐院殿(さんみゃくいんでん=近衛
信尹)の筆画にて、切石を立てたりといふ。』のように、三藐院殿(近衛信尹=このえのふただ・
1565~1614) は本阿弥光悦·松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」と言われた当時の能筆家で、
誰かに委託された。

 以上の外にも俗説があるようですが、今迄に見つかっている書物で、送り火に関する

記録は、公家の船橋秀賢が残した日記の「慶長日件録」で、 慶長8年(1603)7月16日の

条に「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、 見物に東河原に出でおわんぬ」とあるの

が初見となっていて、この「山々灯を焼く」 は間違い無く、鴨の河原から見える大文字

をはじめとする山々の送り火である、とされています。

 最近、大文字送り火に関する古文書と、大文字山 (如意ヶ獄) が銀閣寺領であった、

と言う資料が銀閣寺で発見され、これらの記録から、送り火は室町時代中期の足利義政

を創始者とする説が正しいように思う、と地元では言っておられますから、②の信悪性が高く
なったと考えられます。

保存会

 大文字保存 会

 会長

 会員数 52戸

山の位置

 京都市左京区浄士寺七廻り町1 大文字山(如意ヶ獄)

 京の東山36峰の1つ、北の方に一番高い比叡山(848, 3)があり、その右(南)の小高

い山で手前が大文字山、標高466メートルで、奥側が如意ヶ獄、標高472メートル

となっていますが、一般では一緒にされています。 この山の中腹西面に大の字があり、

火床中心の金尾(かなわ)で標高が約330メートルです。登山道は霊鑑寺側もあります。

点火方法

 15日の昼頃より16日の昼頃まで、銀閣寺山門前で先祖供養・家内安全・無病息災

の護摩木(割木)を受付、16日の朝から山に運び上げている割木·松葉・麦藁と一緒に、

火床に積み上げ、点火の準備が行われます。 大の中心は「金尾(かなわ)」と呼ばれていて、

特別大きく割り木が組まれます。

 当日午後7時から山上の弘法大師堂で、お灯明が灯され浄土院(大文字寺)住職、及び

保存会々員による般若心経があげられます。その後、このお灯明明を親火に移して待機、

点火時刻になると、長老の合図で一斉に点火されます。

 江戸時代初期は、杭を打ち、これに松明を縛り付けて点火していたようですが、寛文

(1661~1672)か延宝(1673~1680)の頃より、土を穿って現行のように、薪を井桁に組んで

積み上げて、燃やすやり方に変わったようです。

 昭和44年から、山の斜面に盛り土をして平らにし、大谷石を設置した火床を使用して

おり、松の割木を二重井桁に、高さ1.3m位まで積み重ね、間に松公葉を入れるが、中央は

煙突にするため空けておき、外側の回りを麦藁で囲います。

火床の規模

 火床数…75基

 点火材…松割木 600束 ·松葉 100束 ·麦藁 100束


 
消し炭は厄除け、災難除けのお守り
として玄関先に吊るす

大文字(如意ケ嶽)

午後8時点火

 大文字送り火は従来から護摩木に自分の名前と病名

を書いて火床の割木の上に載せて焚くと、その病が癒

るという信仰があり、又消炭を持ち帰って粉末にし服

すると、持病が癒るともいわれており、15日夜から16

日朝にかけて先祖の霊や生存する人の無事息災が護摩

木に記される。なお15日正午頃から16日昼頃まで銀閣

寺門前で護摩木の受付が行われる。

 この護摩木は送り火の点火資材として当日山上へ運

ばれ、当夜7時から山上の弘法大師堂でお燈明がとも

され、大文字寺(浄土院)住職及び会員並びに参詣者

等の有志により般若心経があげられる。その後このお

燈明を親火に移し、合図により一斉に送り火が点火さ

れる。

 大文字は市内のどこからでも眺望できる位置である

が、如意ケ嶽が、相国寺の領地であったためこの寺の

方を正面に照らしたともいわれ、あるいは足利家が最

も眺めのよいように一条通を正面にしたとか又、京都

御所の池泉にうつるようにしたとの諸説がある。

 火床75,一画の長さ80m,二画160m,三画120mある。

 大文字の火床の構造は、江戸初期には、杭を打ち

その杭に松明を結びつけていたが、寛文・延宝の頃よ

り現行の積木法にかわった。

 自然の山膚(山の斜面)に若干土盛し、大谷石を設置

其の上に薪を井桁に組んで積み重ね、(高さ約1.3m )

その間に松葉を入れる。

 大の中心には金尾と称して特別大きく割木を組んで

入れて点火する。






大文字火床 大文字山 466m 銀閣寺 法然院 銀閣寺山国有林