如意輪堂と呼ばれた本堂(重文)は豊臣秀吉にの願いで再興された。 入母屋造りの厚い屋根は高さ18m。 西国三十三所第1札所。 那智山7堂36坊の大半が壊された明治初期の廃仏毀釈の際も大き過ぎて取り壊しも焼却も移築もできず、山仕事の作業場になっていた。 明治7年(1874)に青岸渡寺として独立して以降は、代々の住職らが往時の姿を取り戻そうと奔走。昭和47年には、中近世に熊野比丘尼らが持ち歩いたとみられる那智参詣曼荼羅の図をもとに、朱塗りの三重塔が300年ぶりに復活した。白い滝や緑濃い原生林と見事なコントラストをみせる。 開祖の裸形上人(らぎょう)は、仏教が伝わる前の仁徳天皇のころインドから熊野に漂着したという伝承もあり、那智大滝を核にした神仏混合の歴史は長い。 |
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熊野比丘尼:熊野信仰の普及と勧進のため、各地で地獄極楽図を絵解きし、護符などを売り歩いた僧形の女性たち。熊野山伏と夫婦の場合も多かったという。 近世の都市部では世俗化して芸能や売色(ばいしょく)で生きる者も現れ、聖俗両面を併せ持った。 |
清少納言、枕草子で奈良を語る | 一條天皇 | 青岸渡 |
花山天皇 |
本堂 |
概要と特徴 室町時代の本堂、堂内に巡礼背板(重文)がある。 境内から三重塔、那智の滝が眺められる。 巡礼に必要なものが整えられる。 |
山門と仁王像、背中合わせの境内側に狛犬 |
水子堂 | 大黒天堂 |
本堂 | 宝篋印塔 | 補陀落や 岸うつ波は 三熊野の 那智御山に 響く滝津瀬 |
タブノキ(犬樟)樹齢700年 |
熊野那智大社地図
熊野那智大社は、もとは那智の大滝近くにあったが、後に大滝を遠望する那智山中腹の現在地に移ったとされる。 主神は熊野夫須美大神(ふすみ)で、礼殿奥の第四殿に鎮座する。丹塗りの社殿群は、かって如意輪堂と呼ばれた三十三所の一番札所 の青岸渡寺に隣接し、明治まで続いた神仏混合の時代をしのばせる。 日本への仏教公伝は、6世紀というのは歴史的な事実だが、その数百年前に、那智の滝行や諸寺の開祖が、インド方面から熊野に漂着 したという伝承が、この地にある。密教の一種として、熊野などに伝わったインド南部や東南アジア系の多神教が、山岳信仰などと結びつき 修験道が生まれたという見方もある。 神は仏の仮の現れとする本地垂迹思想(ほんじすいじゃく)によって神仏混合が進むと、那智山は観音菩薩の補陀落浄土(ふだらく)の 東門と見なされた。神体として崇拝された大滝は、千手観音が仮に現した姿だと考えられ、海のかなたに観音菩薩の浄土があるという 信仰が生まれた。那智の浜は小船で浄土を目指す補陀落渡海の本拠地となり、今は青岸渡寺が管理している那智の浜の補陀落山寺には 復元された渡海船がある。 神仏混合は、神棚と仏壇を苦も無く併存させている我々の暮らしにも残っている。 |
那智の滝地図
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