第7番 高雄山 神護寺地図
高雄は京都の隠れ座敷といった趣が強く、 槙尾、栂尾と共に「三尾」と呼ばれ、 それぞれに神護寺、西明寺、高山寺と 古刹がたたずんでいる。 |
清冽な流れの清滝川 | 高雄橋を渡った先から境内えと通じるが、 橋の左の石碑に「境内女人禁制」とある。 今は、男女共登っている。 |
神護寺のはじまり 平安京造営(七九四)の最高責任者(造宮大夫)であった和気清 麿公が、いまの愛宕神社の前身、愛宕山白雲寺などとともに建てた 愛宕五坊の一つで、「高雄山寺」とよばれたが、天長元年(八二四)、 河内の神願寺(清麿公創建)の地が、よごれた所でふさわしくない という理由から高雄山寺に合併されて、「神護国祚真言寺」と称した のがはじまりでありますが、これより先、和気一族は、叡山の最澄(伝 教大師)や空海(弘法大師)をこの寺に招いて活躍の場とされたため、 時の仏教界に新風を送ることとなり、平安仏教の発祥地となったと ころであります。 ことに弘法大師は唐(中国)より帰朝して、大同四年(八〇九) に入山以来、十四年間住持され、真言宗立教の基礎を築かれたと ころでありまして、のちの東寺や高野山金剛峰寺と並ぶ霊刹であり、 弘法大師を初代としております。 |
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清滝川にかかっている丹塗りの橋をわたると、なにか別世界に来たような感じになる。 あたりにふしぎな霊気が満ちている。 百寺巡礼 五木寛之 より |
ごつごつした急な乱積の石段がある参道。 | 途中茶店がある。 | 硯石 |
弘法大師が在山の時、勅願の依頼を受けられたが、急な雨で橋が流されたため、この石を硯として対岸に立てかけた額に向けて 筆を投げたところ、見事「金剛定寺」の4文字を書かれたといういわれがある。 |
上りつめると二天がある桜門に至る。 |
楼門をくぐったところの境内。 | 大師堂(重文) |
楼門をくぐると、明るくて広い境内が開ける。右側に書院、茶室、宝蔵と続いている。 仁王門を入って突き当りには左前方に五大堂、その左に毘沙門堂があり、その奥に大師堂がある。 ここから右側の石段を登ったところに金堂がある。 |
明王堂 | 正面金堂、右五大堂 金堂には薬師如来立像(木造桧 国宝) 日光・月光菩薩(重文)十二神将が祀られている。 |
五大堂 | |||
平安京造営(延暦13年・794)の最高責任者(造宮大夫)であった和気清麻呂が、いまの愛宕神社の前身、 愛宕山白雲寺などとともに建てた愛宕五坊の一つ。 和気一族は、叡山の最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)をこの寺に招いて活躍の場とされた。 弘法大師は唐より帰朝して、大同4年(809)に入山、以来、14年間住持され、真言宗立教の基礎を築いた。 平安時代に二度の災害、応仁の乱で兵火をうけ、焼失したが、元和9年(1623)楼門、金堂(いまの毘沙門堂)五大堂、鐘楼を再興。 昭和10年、金堂、多宝塔が新築された。 更に⇒⇒⇒
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和気公霊廟 | 毘沙門堂 | 鐘楼 |
かわらけ 境内西南端に地蔵院、かわらけ投げの場所がある。 |
京の禅寺は京都の南北に点在していて、一つの地域として把握するには困難である。その上その一つ一つが、 必ずしも京都らのなかにとけこんでいるとはいえない。そうすると京都のなかには鎌倉時代の足跡は、いがいに乏しい。 ようやくさがしあてたのは、洛西の高雄・栂尾(とがのお)である。ここまでくると、京都のなかにとけけこんだ鎌倉文化がうかがえるのだ。 ・・・ 緑のふかい谷間には朱の橋がかかり、正安元年(1299)造立の下乗石が、どっぢりと腰を下ろしている。 そこから心を新たにして急坂をのぼる。 ・・・ この谷間をこえねばならない神護寺は、いつまでも失われない清浄感と、はるかな異境をたずねる期待感がつきまとう。 やがて乱積の石段の彼方に山門が現れてくる。 京都 林屋辰三郎 より |
文覚上人の再興 平安時代に二度の災害のため、堂塔のほとんどを焼失しましたが一世の豪僧、文覚上人がその荒廃をなげいて、寿永三年(一 一八四) 後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあって往年以上の復興をみました。 現在の盛観 応仁の乱では再び兵火をうけ、焼失しましたが、元和九年(一六二三)龍厳上人のとき、所司代板倉勝重の奉行によって楼門、金堂(い まの毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興、近くは去る昭和十年山口玄洞居士の寄進で、昭和の名作といわれる金堂、多宝塔などが新築されて、 今日の美観を整えております。 弘法大師の宗教 堕落した奈良仏教にあきたらず、入唐求法によって弘法大師が請来,開宗された真言宗は、従来の仏教、すなわち顕教からは 秘密仏教(密教)といわれますが、この真言密教の旨といたしますところは、「真言陀羅尼には神秘の力があり、その一字一句には 百千の義趣を含蔵している。よってこれを念誦し、観修することによって、災を退け、福を招くことなどができるし、凡夫の身で もすみやかに仏になることができる」と、現世において利益をうけることができることを説いているものであります。 平安時代には、当時の権力者であった朝廷や公卿・貴族の信仰が厚かったため、世に貴族仏教のように言われておりますが、そ の本旨とするところはすべての人びとに通じる、最も普遍的な教義であります。 |
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紅葉の神護寺⇒⇒⇒ | |
紅葉の神護寺から嵐山へ⇒⇒⇒ | |
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