阿弥陀如来
阿しゅく如来
五智如来
釈迦如来
大日如来
多宝如来
宝生如来
薬師如来
蘆舎那仏
不空








阿弥陀如来
 

阿弥陀の意味は?

 アミダとは、インドの言葉をそのまま音写したもので「計り知れない限りがない」といった意味

で、無量の光明をあまねく照らすのでアミダ(無量光)といい、限りない生命を与えて下さるのでア

ミダ(無量寿)ということから、別名を無量寿如来·不可思議光如来·尽十方無得光仏とも呼ばれ

ている。阿弥陀三尊でいう脇侍の観音菩薩と勢至著薩は、まさにこの阿弥陀如来の慈悲と智意の

力を助ける役目を担っている。 

 無量寿如来または、無量光如来ともいわれ、大乗仏教の経典に最も多く出てくる仏である。無量寿経に説く「諸仏の中に於いて光明最尊第一にして、この光にあう者をして一切の苦から免れしめる」という。梵音そのままに阿弥陀如来と呼ぶ。

日本でも極楽浄土の思想が普及することにより最も広く盛んに信仰された仏である。この信仰の著しい特徴は釈迦を含めた過去七仏のような過ぎ去った仏でもなく、弥勒仏のような未来仏でもなく、現在もなお西方十万億土を越えた所に極楽浄土を開いて、そこで四十八の本願によって大悲による永遠の救いをしているという点である。特に往生願では念仏を行うもの必ず往生せしめることが約される。

 平安時代になると所謂未法思想が台頭し、阿弥陀如来の信仰がひろまり、その造像は隆盛となった。

阿弥陀如来の印相は大別して次の三つに分けることが出来る。

1、説法相

 右手を挙げ、左手を垂れた施無畏・与願の印か、左手掌を中にむけ、大中指を相捻し、右手掌を外にむけ、大頭指を相捻する転法輪の印相である。

(注)1大(拇)指、2頭(人さし)指、3中指、4無名(薬)指、5小指

2、定印相

 「左の五指をのべて臍輪の前に安、次に右の五指をのべて左掌の上に安」と経巻にある。

3、来迎相

 阿弥陀浄土への来迎引接(らいごういんじよう)の姿をとるもので、浄土来迎思想の隆盛にともない鎌倉時代に多くつくられた。

両手ともに第一指と第二指(又は第三指或いは第四指)とを捻して輪のようににし手の位置で上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)の九種に区別される。即ち、第一指と第二指を捻した時は上品印であり、それが膝の上で組み合わされると上品上生印、胸の前で組み合わされると上品中生印、左右に分かれ右手を上(胸前)に、左手を下に向けると上品下生印である。

 阿弥陀三尊は、観音勢至を両脇侍とする阿弥陀をいう。左の蓮座(向かって右)に観世音菩薩、右の蓮座に勢至菩薩、その宝冠の中に観音は化仏を、勢至は宝瓶をつける。その持物については二脇侍とも蓮華を持つものや手印だけのものもあるが、中古以後観音両手に蓮台を持ち、勢至が合掌している場合が多い(來迎をあらわす)

  三千院 往生極楽院の阿弥陀三尊 

 阿弥陀浄土への來迎引接とは、阿弥陀如来はこの世の念仏行者の臨終の時に、西方十万億土から迎えにくると信仰され、この迎えを來迎印接という。

この時は阿弥陀如来一尊だけの場合もあれば観音、勢至の両菩薩を随える場合、二十五菩薩を連れてくる場合、或いは沢山の仏菩薩を随える場合などがあり、それによって一尊來迎、三尊來迎、二十五菩薩來迎、聖衆(しょうじゅう)來迎などと呼んでいる。また、西の方から高い山を越えて來迎するから山越えの來迎というのもある。

 
 
九品往生】
 浄土教では、生前の行いによって極楽浄土に生まれ変わるとき、九つのパターンがあるといわれ

ています。九つのパターンは、上中下の三品と、上中下の三生の組み合わせで表されます。

 九つのパターンは、極楽浄土から迎えにくる仏さまのメンバーや乗り物などが異なります。表の

右端の列がその乗り物です。

 迎えに来るメンバーは、既に仏に限りなく近い人には、華やかな迎えが来ます。足りないところが

ある人には、相応の修行をするためにインストラクター的な仏さまが実質的に迎えにきます。下品

下生で乗り物だけが配車されるのは、先ずお念仏だけでも唱えないと極楽往生できませんよとい

うことを表しています。

 
 
阿弥陀如来という仏さまについて

 わが国における阿弥陀如来は、大乗仏教の仏として登場する。その信仰は仏教伝来後間もな

い頃には既にあったとされ、その造像も早くから見られた。阿弥陀如来の姿や極楽浄土の様子は

「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」等に詳しく説かれている。その現存する古い像の代表的な
ものとして「法隆寺にある橘夫人念持仏(白鳳時代の最優秀作)」が有名である。

 また、日本の仏教史上、最初に人気を集めたのが阿弥陀の世界が描かれた奈良時代の
嘗麻曼茶羅曼茶羅(たいままんだら)であった。

 そして平安時代の初頭、 弘法大師空海により密教が伝えられると密教の阿弥陀如来像が登場
した。それは現図曼茶羅に表された定印を結ぶ阿弥陀如来である。

 一方、平安時代末になると仏教が衰えるという末法思想(まっぽうしそう)が起こり、阿弥陀に帰依
し生前に功徳を積めば極楽浄土に往生できるという浄土思想が流行した。その時代は「来迎の阿
弥陀」が多数造られ、両手の親指と人差し指をつけた来迎印に特徴がある。

 密教では、現図曼茶羅の姿を基本に仏像は座像で造られることが多いが、浄土系の阿弥陀如来
は立像が多い。それはお釈迦さまが菩提樹の下で禅定され、悟りを開き、歩いて説法に旅立たれた
伝承に由来する。この禅定している姿が座像で、立ち上がり説法をしている姿が立像になった。

●如来(仏)と菩薩

釈迦の教えに従ってすすむ人を菩薩と呼び、

その道程を菩薩道という。

その道の最終目標を、煩悩の河を渡ると考えて向こう岸、彼岸という。彼岸に

まで到達し完成した偉大な人格を如来(仏)という。

その礼拝の対象となる如来像は、装飾もなく大きな徳と次元を超えた知恵を示

す二重の頭(肉髻・にっけい)、彼岸へ到達した象徴の、
指の間の膜(曼網相・まんもうそう)をもち、普通の

眼で届かぬ所を見とおす光を放つ眉間の白毫や、円満な人格の完成をのどの三つ

の輪であらわすなど、いろいろめでたい相(すがた)を持っている。
菩薩は飾りをつけ、肉髻と曼網相を持たない。


●如来の印相

曼網相のある如来の手にはいろいろな形があり、それぞれたいせつな意味を表

わし教えている。中でも三つの基本的な手の形が、”座禅の形” 、胸の前あたりに

両手首のくる”説法印”、一方は指を上に向けもう一方は下に向ける"施無畏・

与願"といわれる印相である。

せっぽういん

せむい

よがん

図のように親指と人指し指などをまるくしているのは阿弥陀如来で、その場合、

座禅――定印は上生印、説法印は中生印、施無畏・.与願を下生印(来迎印)と呼ぶ。

上生とは理想を目指し自ら向上すること、高い次元へ昇ることを、下生とはおく

れたもの、あとになったもの、弱いものをひきあげ、たすける働きをさすことば

である。中生は説法の印で横にみんなとつながり、たいせつな教えを広げていく
ことといえる。

浄瑠璃寺ー小田原説法よりー

五劫思惟阿弥陀如来坐像(ごこうしいあみだにょらい)
 かずも極めて少ない。東大寺の勧進所阿弥陀堂や、同寺北約600mにある末寺五劫院の本尊(重文)が有名で、その心和む姿は仏像愛好家らの敬愛も集めている。
 頭部が不自然に大きい。螺髪(らほつ)が膨らんだアフロヘアのような頭になっている。顔や体形も幼児っぽい。
 五劫思惟は「ごごうしゆい」とも読む。劫は古代インドの長い年数の単位(1劫は43億2千万年)で、思惟は思索、思考と同義。
天文学的歳月をかけて思索にふける様子を可視化した像とされ、伸び放題の螺髪によって時間の長さを表現している。
 阿弥陀如来には釈尊同様に長い修行期があった。浄土教の聖典「無量寿経(むりょうじゅきょう)」には、前身の法蔵菩薩時代に衆生救済のために四十八願を立てて修行、成就の暁に阿弥陀仏になったとある。五劫思惟像はその物語性豊かな姿を信仰の対象にした像である。


阿しゅく如来

金剛界曼陀羅では中心の大日如来を囲んで四体の如来が配されています。五大日と合わせて金剛界五仏です。

北方が不空成就如来、西方が阿弥陀如来、南方が宝生如来、そして東方が阿閦如来です。

 金剛界五仏とは五智如来で仏の五つの智恵を示しています。阿閦如来が示しているのは五智のうちの「大円鏡智」。

これは鏡のようにあらゆる物事をそのままにこだわりなく映すという意味です。大日如来は全ての智恵の体現者ですから、阿閦如来はその四分の一をひきうけている仏といえます。ただし一般の信仰としては、阿閦如来は病気を治すというご利益がクローズアップされていました。これは東に位置することから、同じく東方浄土の教主であり曼陀羅には表現されない薬師如来と同体と考えられたためです。

 像は勿論如来形で、座像なら右手で触地印、左手は着衣の端を握った形。立像は片手をたらし、もう一方の手でやはり着衣の端を握るスタイルが見られます。あまり見かける仏像ではありませんが、片手で着衣の端を握る点がポイントとなります。



五智如来
 密教で、五智(仏の備える五種の智恵)の各々を成就した五如来。
中心に法界体性智(大日)、東に大円鏡智、南に平等性智、西に妙観察智、北に成所作智が配される。


釈迦如来

 釈迦如来(BC566年頃~80才~BC466年頃)

 釈迦の生涯は、生まれてから入滅するまで釈迦八相として、仏伝となって残っている。

釈迦が、兜卒天から人間界に下り、白象に乗って摩耶夫人の胎内に入り、その右脇下から生まれて七歩あゆんで「天上天下唯我独尊」といい、人間の苦悩(生老病死の四苦)を脱するにはどうしたらよいかと出家し苦行の末、悪魔・群獣を退け、遂に覚りを開き、人々にその教えを説き、80才でその生涯を閉じた。

釈迦八相

  入胎・受生・受楽・苦行・成道・転法輪・入涅槃・分舎利

 1、誕生仏 天上天下唯我独尊の形 灌仏会(4月8日)の本尊
 2、樹下思惟像 絵因果経
 3、苦行像

 4、出山像

 5、降魔成道像 降魔印 右手指先伸ばし触地

     成道  禅定印  臘八会(12月8日)

 6、説法像(転法輪像) 施無畏・与願印又は転法印

 7、涅槃像 沙羅双樹の下で北枕・西面脇を下に入涅槃

               涅槃会(陰暦2月15日)新3月15日

 8、金棺出現図 母摩耶夫人の悲しみに対し、金棺を開いて、合掌して立ち、

     説法した再生説法図

仏像の誕生  釈迦如来像

 お釈迦さま(ゴータマ·シッダールタ)は、紀元前5~6世紀頃インドの北部(現在のネパール)の釈迦族の王子として生まれました。

 やがて29歳で出家され、6年間の苦行の後35歳で悟りを開かれ、その後80歳で入滅(お亡くなり)になるまでの45年間、『人はどう生きるべきか」 をそれぞれの人の機根に応じた説法をされ、多くの人たちに生きる勇気をお与えになりました。

仏教は初め偶像崇拝ではなかった

塔の建立

 お釈迦さまが入滅されると、当時のインドの風習として、その遺骸は荼毘に附されます。 火葬の後多くの弟子や信者はその遺骨を分け合い、各々故郷に持ち帰り、 手厚く埋葬し、その墳を拝んだといわれています。

 人々はお釈迦様の遺骨を特に舎利と呼んで尊崇し、またこれを埋めて土を円球型に盛り上げた墳墓を卒塔婆(ストゥーバ)と呼びました。卒塔婆は略して搭婆とも塔ともいいます。 地方によってはパコーダ(バゴダとのいう)といって最も大切なものとして礼拝の対象とされました。

 やがてこの塔が各時代·各所で人智に及ぶ限りに荘厳(装飾的彫刻)され、多くの立派なものが建立されるようになります。

お釈迦さまのシンボルマーク

 このように最初は、 お釈迦さまの姿は一切表すことなく、その代わりに法輪·菩提樹 仏足石などが表され、一種の象徴的なものだけをお釈迦さまのシンボルマークとして崇め奉っていました。
仏像のルーツはガンダーラ

 西暦紀元前324年にアレキサンダー大王が西インドに進軍し、この地方に 多くのギリシア系の芸術家を送って、文化工作するようになります。以来、イン ド·ギリシア芸術がインダス河を中心に発生します。その中心がガンダーラであ り、多くの石造彫刻が発掘されるところから、インド·ギリシア式彫刻を総じて ガンダーラ彫刻と呼びようになりました。

 ここで初めてお釈迦さま(釈迦牟尼仏)の姿が表され、登場するようになります。頭にちじれた髪を結い、髭のある人間的な形姿に造られ、後世のように仏陀としての相好や形式はまだ整っていなかったのですが、とにかく釈迦仏像が作られて拝むようになりました。仏教が偶像崇拝の宗教になったのは、ガンダーラ 彫刻の影響であると考えられます。

 このように原始仏教は仏陀の姿は造らず、世紀前後頃からインダス河付近に釈迦仏の姿が作り出され、やがてこれが全インドに伝播し、さらに中国に伝わります。そして今から1400年以前に我が国に伝来しました。

日本で作られ始めた仏像が釈迦如来像

 我が国に仏教が伝来したのが、欽明天皇13年(552)といわれています。この時以来釈迦如来像が盛んに制作されました。そのなかで有名なのが、飛鳥地方の安居院(あんごいん・飛鳥寺)の本尊です。

 この像は「飛鳥大仏」 として有名ですが、蘇我馬子が聖徳太子と相計って物部守屋を討伐できたら寺を建てようと祈願しました。

推古天皇13年(650)に止利仏師が丈六 (像高275,2cm)の銅造鍍金の大釈迦如来像を造って安置されました。

釈尊の一生を仏像に見る

○ご誕生

 明治11年(1878)に法隆寺から皇室に聖徳太子に関 する宝物を献上したものの中に釈尊(お釈迦さま)が生母摩耶夫人から出生するところを表した銅製鍍金の小さな像があったそうです。

この像は大変珍しいもので、他に全く類例を見ないもので す。臨月の摩耶夫人がある日ルンビニー園を歩き、 無憂樹の下に憩われて右手をあげて花の枝を折ろうとした時に、釈尊は右廠から生まれたと伝わっています。即ち小さな釈尊は、合掌した手を高く頭の上に上げながら、下を向いて母の右袖口から上半身を現したように作られ、3人の采女が香水を入れた水瓶などを持ち、仏の誕生を祝福するところが表された一種の群像です。 制作年代は恐らく飛鳥時代ではないかと考えられていますが、合掌する釈尊の頭は既に後の仏陀と同じ形に造られているところが興味深いところです。

○誕生釈迦仏

 摩耶夫人の右廠から生まれ出た釈尊は、直ちに七歩歩んで、天地を指さして「天上天下唯我独尊」 といわれたと伝わっています。この姿を表したのが、釈迦誕生仏と呼ばれるものです。毎年4月8日の灌仏会の本尊としてまつり、この像に甘茶をかけて祈る儀式が昔から行われています。

 生まれたばかりの釈尊には、すでに人間とは異なる特色を具備していたと説かれています。それを「三十二相八十種好」といいます。三十二相とは、一目でわかる相であり、八十種好は細かい特色のことです。 

東大寺の誕生釈迦仏
 東大寺の誕生釈迦仏は他の誕生仏に比べるときわめて大きく、直径九十センチにも及ぶ大きな灌仏盤の上に、四十七センチ余りのふくよかな姿を見せています。

 大仏殿で四月八日に行われる花祭り、灌仏会の法要では、善男善女が誕生仏に甘茶をかけて釈迦の誕生を喜び祝い、自らの幸福をも祈る光景が見られます。

 釈迦は誕生の直後に東西南北の四方に歩み、そして中央に戻って右手を高々と上げたとされています。上半身は裸でまっすぐに立ち、ふっくらとした頬、笑みをたたえた涼しげな目、おおらかで可愛らしい鼻など、喜びに満ちた表情をしています。純粋無垢で罪や汚れのない、赤子の姿をしているのが誕生仏なのです。

 右手を上げているのは仏の厳しさを表現しています。仏の表現には厳しさとやさしさがありますが、右手を上げているのは「仏を信じなさい」と衆生を諭す厳しい表現です。朝鮮半島などの誕生仏には、左手を上げたやさしい釈迦の表現もあります。

 また、右手の指は五本とも上がっています。これは次のような伝説によるためです。誕生した釈迦を帝釈天が地面に立たせようとしたときに、地面から蓮華が飛び出たのでそこに立たせました。すると、釈迦は東に七歩歩いて「天上天下唯我独尊」といい、次に南、西、北、最後に中央へと歩み、その五か所で五回この言葉を唱えたというのです。その五回目、中央に帰ってきたのが東大寺の誕生釈迦仏で
す。

 ニ千五百年前のこの釈迦誕生の瞬間から、仏の教えの長い歩みが始まりました。仏たちはさまざまに姿·形を変えて、私たち衆生を諭し救ってくれ、またどのように生きていけばよいのか導いてくれています。如来、菩薩、明王、天部などのさまざまな仏たちの教えと導き

の第一歩は、この釈迦の誕生にあるのです。

 

 
誕生釈迦仏(東大寺)国宝
銅造 鍍金 奈良時代 47cm
東大寺

 誕生釈迦仏立像 (奈良時代・銅造国宝)
 東大寺ミュージアムには右手を上げて天を指し、左手は地を指した誕生釈迦仏が

安置されています。 この像は生まれてすぐに 「天上天下唯我独尊」と唱えたという

釈迦降誕をあらわしています。 肉づきのよい豊満な身体や胸や腕にあるくびれ、柔

らかな表情はいかにも幼児らしい姿です。

 4月8日に営まれる花祭り (灌仏会) で用いられたもので、 奈良時代の作と考えられ

る像です。 通常の誕生仏が 10~20cmであるのに対し、 この像は約50cm あり、 大

仏の開眼供養に合わせて特別に作られた可能性が考えられます。


●濯仏会 釈迦が生まれた4月8日を祝う法要。釈迦が誕生したときに、

焚天·帝釈天、あるいは龍が天より 香湯を注いだことが起源とされる。

●天上天下唯我独尊 「世間において私が最もすぐれたものである」と

いう意味。

法隆寺

 金堂釈迦三尊像 (飛鳥時代・銅造・国宝)

 世界最古の木造建築として知られる、 斑鳩町法隆寺の金堂には、 日本の仏像の歴

史を語る上で欠かすことのできない仏像が安置されています。 中央の釈迦三尊像

は光背の銘文によれば、 推古 31 (623)年に聖徳太子とその后の菩提を弔うため

に止利仏師によって作られました。 アーモンド形の眼とアルカイック・スマイルがつ

くる独特な表情は飛鳥大仏に通ずるものです。中国や朝鮮の仏像に学びつつ、日

本独自の工夫も織り交ぜる完成度の高い像として多くの人々を魅了します。

 

室生寺

 釈迦如来坐像 (平安時代初期・木造 国宝)

 釈迦如来坐像は客仏として室生寺弥勒堂に伝わりました。 現在は寶物殿に安置

されています。 一本のカヤの木から彫り出された身体は重厚感があり、存在感に

溢れています。 大小のひだが交互に繰り返される翻波式衣文(ほんばしき)や、穏や
かで美しい表情は魅力的で、 数ある平安初期彫刻の中でも特にすぐれています。

 

常覺寺(じょうかくじ)

 釈迦如来立像 (平安時代後期・木造・重文

 この釈迦如来像は、 五條市黒淵(旧西吉野村) にあった崇福寺の本尊でした

が、現在は常覺寺へ伝わっています。 施無畏印(せむいいん)・与願印(よがんいん)
をつくる一般的な釈迦如来像です。 頬を張る丸い顔や伏目がちの眼、 浅く整った
衣文線は、 平安時代後期の仏像の典型的な特徴です。

常覺寺 地図

◎ 五條市西吉野町黒淵 1321

 

西大寺

 釈迦如来立像 (鎌倉時代・木造・重文)

 この像は、 西大寺の中興開山である興正菩薩叡尊上人の命により、 仏師善春らが

嵯峨清涼寺に赴いて建長元 (1249)年に 摸刻された 「清涼寺式釈迦如来像」

のひとつです。 髪は縄のように巻き、 衣文は何重にも重なります。 像内には多くの結

縁者の交名が納められ、 沢山の人々が釈迦像を信仰していたことが分かります。


金峯山寺

 釈迦如来立像 鎌倉時代・木造・県指定文化財) 蔵王堂には一風変わった釈迦如
来立像が伝わります。 粒の大きい螺髪に長い爪は、当時の中国宋の影響を強く受
けています。 近年の修理の際、 像内に小動物の骨灰が塗られていることが判明しま
した。 あまり類例がなく、 特別な意味があるのかもしれません。

伝香寺

 釈迦如来坐像 (安土桃山時代・木造・市指定文化財)

 伝香寺は、桃山時代に筒井順慶の菩提を弔うためにその母が再興した寺院で

す。 天正十三 (1585)年に建てられた本堂内に安置される本尊釈迦如来像

は、 奈良町地域に今も町名が残る。
下御門周辺で活躍した、 下御門仏師宗の作です。 その端正な作風は奈良の伝統を
受け継ぐものといえるでしょう。


祈りの回廊  2023 3月~9月春夏版より

 


大日如来

 仏教がアジア諸国に広がり、釈迦如来像が造り始められた頃には大乗仏教の時代が始まっていた。

大乗仏教は、自己の覚りを求めるだけでなく、他人をも覚りの道に導かねばならない。所謂「上求菩提、下化衆生(じょうぐぼだい、げげしゅじょう)」である(自利・利他)。下化衆生を行うためには、様々な仏が出現することになってくる。

釈迦の後、この世に生れ衆生を教化する未来仏の弥勒菩薩、死に対し極楽浄土へと來迎する阿弥陀如来、病気から守る力を持つ薬師如来など様々な仏が出現してきた。それらは千仏、三千仏へと広がっていく。

無数の仏が出現し、釈迦と同じように菩提樹下で説法していると考えると、それらの仏を統一する思想が出てきた。その根源の釈迦如来と考えられたのが、廬舎那仏である。

隋って廬舎那仏が三千大世界の教主で、全宇宙を統治する仏である。

釈迦は廬舎那仏の分身であり、その分身があらゆる世界に出現し、説法すると考えられた。この形を表したのが、東大寺大仏殿の廬舎那仏、唐招提寺金堂の本尊像である。「大日経」「金剛頂経」に説いている大日如来は、この思想を展開して成立したものである。

大日如来の梵名を摩訶毘廬舎那仏(まかびるしゃなぶつ)というが、これは大毘廬遮那の意味である。

「大日経」と「金剛頂経」は、同じ場所、同じ人によって書かれたものではないが、中心の本尊を大日如来としているのは同じである。この二つの経典を一つのものとして、両部の経典として教義を展開していったのが、日本の真言密教である。

(廬舎那仏、毘廬舎那仏と使っているが、当て字なので同じ)

毘廬舎那仏を更に展開して、密教で最高至上の絶対的存在としたもので、大光明遍照。その智慧の光明は、昼夜の別のある日の神の威力を遥かに上まわるところから、その意をとって大日如来という。

真言密教の両部の大経、大毘廬舎那仏成仏神変加持経(大日経)と金剛頂経の教主であり、胎蔵界・金剛界両曼荼羅の主尊である。

像は、他の如来とちがい宝冠を戴き紺髪は肩に垂れる。そして瓔珞(ようらく)、環釧(かんせん)、天衣(てんね)をつけた菩薩の姿をとる。

金剛界大日如来は、智拳印(胸の前に挙げてのばした左拳の人差指を右の拳を持って握る)、胎蔵界大日如来は、法界定印(結跏趺座)の膝の上に左掌を仰げて置き、その上に右掌を重ねて(二大指の先を合わせささえる)を結ぶ。なお、左右拳反対の智拳印、左右掌上下逆の法界定印を結ぶ大日も稀にある。胎蔵界大日如来の法界定印は、覚りの境地を象徴するもので、いかなるものにも犯されない覚りの最高の境地を示し、理の世界を表す印相である。

金剛界の智拳印は、考える場合の一動作で、考えを決定し行動に移る直前の動作である。「金剛頂経」の智の世界・働きの世界を表す印相である。



多宝如来


宝生如来


薬師如来

薬師瑠璃光如来と訳し、東方瑠璃光世界の教主であるところから、瑠璃光王といい、大医王尊とも呼ぶ。

日本では仏教伝来後、比較的早くから信仰され盛んに造像された。

それは、薬師が現世来世の福徳を願うもので因位(仏果を得ない菩薩の地位で修行中)にたてた十二の大願(除病安楽、息災離苦、荘具豊満など)が極めて現世利益的な効能が、人々に受けたからである。

しかし後に阿弥陀信仰が盛んになるにつれ、次第に薬師信仰が衰えた。

薬師の十二大願は

1、光明照輝  2、身如瑠璃  3、受用無尽  4、大乗安

5、三衆具足  6、諸根具足  7、衆患悉除  8、転如成男

9、安立正見  10、繋縛解脱  11、飢餓安楽  12、衣服厳具

以上の願で、一切の衆生の病患を救い無明の宿阿(しゅくあ、久しく愈らぬ病気・持病)を治すべき法薬を授くという。特に第七の衆患悉除の願いは、人間の受ける一切の病根を治愈して、病気と共に煩悩を断絶するという。

像は、古くは通仏相で施無為・与願印の姿であったため他の仏と見分けがつかず、銘文で薬師と分けるだけであったが、後に左手に薬壷をのせ、右手を与願印にする姿が行われるようになった。

薬師の脇侍は、日光(にっこう)菩薩・月光(がっこう)菩薩でさらに眷属として十二神将が加えられる。

神護寺 薬師如来立像
 平安時代初期(8世紀末~9世紀前半)のカヤの一木造りの仏像には個性派が多い。
 神護寺の本尊、薬師如来立像はその代表格だ。螺髪(らほつ)に覆われた頭部はうず高く盛り上がり、鋭い目は見る者を威圧する。ずんぐりした体形で、腰から下が太くがっちりしている。優しさより呪術的な神秘性を感じさせる。
 薬師如来は金堂内陣の厨子に安置されている。外陣から少し遠く、単眼鏡が役に立つ。デフォルメのような、部分を誇張した表現が目立つ。両手ともひじから先を前に突出し、右手は「恐れなくてよい」という意味の施無畏印(せむい)をつくり、左手に薬壺(やつこ)を持つ。どちらの手も太くたくましい。救いの手を差し伸べるといった優しい感じではない両腕から垂れる衣のひだが、波のうねりのように揺らいでいる。これも誇張的だが、リズム感がある。
 正面の衣文(えもん)線は腹部では斜めのカーブで、股間でU字形を描いて垂下する。太ももで大きな楕円を描き中は平滑にする。色彩をを抑え、素木(しろき)の美しさを出す。こうした特徴は唐招提寺・新宝蔵の薬師如来と共通し、一木造りの同じ系譜にあることがわかる。

 奈良末期から平安初期は政治が不安定だった。桓武天皇の弟の早良親王は皇太子を廃されて延暦5年(785)に憤死するなど政治事件が多発した。恨みを抱いて死んだ敗者の怨霊は祟りをなすと恐れられ、怨霊を鎮める力を仏教に求められた。一方で災厄を防ぐ強い力をもつと、高雄山寺のような山林修行僧が尊ばれた。神護寺の薬師如来の、拝する人に畏怖の念を起こさせる魁偉(かいい)な容貌はこうした社会的背景があって生まれたのだろう。
 国宝 像高170cm
 2013-7-20 朝日新聞 沖真治 より
 


蘆舎那仏
 唐招提寺の本尊蘆舎那仏は、天平時代末の量感豊かな像であるが、同じ天平の東大寺大仏(いまはない)を想像させてくれる資料である。
 唐招提寺の蘆舎那仏は、瞳は石か焼き物のような硬いものを貼り付け、漆を塗って黒光りさせていること、瞳の奥に直径0.6cm
ほどの珠(たま)が埋め込まれていることが分かった。
 脱活乾漆造。
 光背には、木製の千仏が付けられている。当初は千体あったはずだが、今は864体。ハスの花びら72枚を重ねた台座に座っていて、この蓮弁(れんべん)にも釈迦が墨で描かれていたが、剥落して確認できない。この千体の小さい釈迦像が化仏(けぶつ)としてつけてあるのは、百億の釈迦となって法を説くという。


不空
niyorai

如来
   如来は、修行を終えて完全な真理を悟った仏。そのため、人のようにみえて、普通の人間を超えた特別な存在であることを示す
様々な特徴がある。また、如来だけにみられるいくつかの表現がある。

bosatu
 

菩薩
   すべての人々を救うため、修行の途中の仏である。如来の仕事を補佐する役目も果たす。種類が多く、特徴は変身することである。
様々な方法を駆使して、苦しみ迷える人々を救う。

milyouou
 

明王
   如来から強いパワーを与えられている。如来の命令を受けてどんな悪い人間をも救う役目の仏である。
そのため、明王の仏たちは、こわい顔をしているが、同時にやさしい仏であることも、手や胴体の表現で表している。
tenn  

   もとは古代インドの神様たち。仏教に帰依して、仏法と仏教の信者を守る。また、福をさずける存在である。男女の区別があり、
さまざまな特徴を持った神様がいる。




神護寺

 神護寺は京都の西北、愛宕山系高雄山の中腹にあり、紅葉の名所として知られる。前身の高雄山寺は山林修業の道場として建立された。奈良時代末、道鏡事件や平安遷都の際に活躍した官人、和気清麻呂が創建した神護寺が天長元年(824)に高雄山寺に移って両寺が合併し、神護寺となった。薬師如来は当初は神願寺の本尊だったとする説が有力だが、高雄山寺本尊説もあって、決着していない。 


zilyuudai
十大弟子

須菩提(すぼだい)
 解空(げくう)第一

冨楼那(ふるな)
 説法第一

羅睺羅(らごら)
 釈迦の子で戒律の模範僧される
 蜜行第一

迦旃延(かせんえん)
 論議第一

舎利弗(しゃりほつ)
 知恵第一

目犍連(目連・もくけんれん)
 神業的能力を持つ
 神通第一

摩訶迦葉(」まかかしょう・迦葉・大迦葉ともいう)
 頭陀第一(すだ)

阿那律
 天眼第一(てんげん)

優婆離(うばり)
 持律第一

阿難陀(あなんだ)
 多聞第一 
 紀元前5世紀ごろ、ガンジス川の中流域で悟りを開いたガウ

タマシッダールタ(釈尊)は、ここに仏教教団を発足させた。
そんな釈尊を支えて教団の基礎を築いた仏弟子たちだ。普段
は地味で脇役に徹する彼らだが、 経典に描かれた多彩な
エピソードを反映し、みなそれぞれにキャラがたっている。

 筆頭格の「十大弟子」はいずれも「◯◯第一」という異才の

持ち主ながら、達観した聖者というより、どこか人間くさい。

2大弟子のひとりにも数えられる阿難なんて、釈尊の死に際し

て泣き崩れ、兄弟子に叱責される始末だ。 会場の木造立像
がみせる風貌も、私たちとなんら変わらない。 怖そうだった
り涼しげだったり、はたまた苦虫をつぶしていたりと、実に表
情豊かである。

 それは仏法を後世に伝える役目を託された16人の高弟、
十六羅漢も同じ。悟りに到達しようと努力し、それなりに神通
力もあって寿命をもコントロールできる。なのに妙にユーモラ
スで親しみを覚えてしまう。 釈迦の入滅後に集まった500人
の羅 漢たちも、みな味わい深い。そこが、ありがたいけれど
ちょっびり近寄りがたい菩薩など大乗の仏たちと違うところか。

 在家者だって出家者に負けていない。たとえば、 十大弟子さ

えやり込める知性と弁舌の持ち主、維摩詰(ゆいまきつ)。
釈尊が弟子らに彼を見舞わせようとするものの、みな尻込み
する。そこで白羽の矢が立ったのが知恵者で名高い文殊菩薩
だ。2人の“対決”はいかに。

 釈尊に帰依したのは人間ばかりではなかった。 説法をした

梵天は古代インドの最高神のひとりだし、他人の幼子をさらっ

ては食らっていた鬼子母神も釈尊の導きで悔い改めた。

 かように個性的なブッダの弟子たち。人間から異教の神々

まで貴賤を問わず、鍛冶屋の息子や理髪師もいれば、人殺

しまでいた。悟りを求めて悩み、苦しみ、耐え忍ぶ。

 これは、生まれたばかりの仏教教団が、その存続と拡大に
悪戦苦闘していたころの物語。
  2022-4-20  朝日新聞(編集委員・中村俊介)