栄山寺地図
御霊神社地図
藤原武智麻呂の墓地図

 
 八角円堂  国宝

奈良時代・ 天平宝字(七五七~七六五)

藤原仲麻呂が、父武智麻呂の追善供養のため

建立lたと伝えられる本瓦葺きの八角形の建物

である。

外観は平面八角形であるが、内部の身舎は四

角形であり、須弥檀周囲に立つ四本の八角柱が

構造上の要となってぃる。

本尊は阿弥陀如来である。 

 
 
 正面裏側(北方向)
   
   
八角円堂内陣柱装飾画(重文)
東北柱、西北面 

 
 鐘楼
   
   

道澄寺は、従三位、しゅ
大納言、兼右近衛の大
将、ぎょう、皇太子のふ、藤原の
朝臣(道明)と参議、左大辯、従
四位の上、兼、行、かげゆの
長官、播磨の権の守、橘の朝臣(澄晴)
と、四恩を報じ、六趣をすくわん為に
誠を合わせ、力をあわせて建立する所なり 

藤原家ゆかり 八角堂と焚鐘

 五係市小島町の栄山寺に伝わる国宝の八角堂と焚鐘が、来年の年賀はがき

の県版デザインに選ばれた。地元の郵便局長らが14日、五係市役所で披露し

た。

 藤原不比等の子の武智麻呂が719年(養老3)に創建したと伝わる栄山寺。
八角堂は武智麻呂の子の仲麻呂が760年代前半に父母の供養で建てたとされる。

法隆寺の夢殿に似た、天平期の端正な意匠だ。青銅製の楚鐘は平安時代を
代表する鐘の一つとされる。

 はがきの表裏にイラストレーター、ながたみどりさんが明るいタッチで描いた。
38万6千枚が10月29日に発売される。生駒龍明住職(25)は「全国に郵送さ
れ、多くの方が五條を訪れるきっかけになればうれしい」と話した。
  2020-9-17 朝日新聞 (福田純也)  

梵鐘

高さ  一五七.四cm

材料  青銅製

平安時代.延喜十七年(九一七年)

 四面に菅原道真の撰、小野道風の書と伝えら れる陽鋳の銘文がある。

 銘文によると、藤原道明と叔父の 橘 澄清が京都深草に建立人た道澄寺の
鐘として作られた。

 京都の神護寺鐘と双壁とされ、龍頭(りゅうづ)や撞座(つきざ)の文樣から
大和鋳物師の作と考えられている。

 道澄寺から流出後、当寺へは江户時代の元禄年間までに移入されたとみ
られる。

   
2020-9-17朝日新聞掲載 八角堂と梵鐘がデザインされた令和3年年賀はがき 
   
重要文化財

本堂(藥師堂) 

   
重要文化財

薬師如来

室町時代・,永享三年(一四三一年)

木造寄木造漆箔玉眼彩色

医王仏とも呼ばれ、衆生の病を治し

安楽を与える仏とされる。脇侍に日光

菩薩·月光菩薩十二神将を従える。

当寺の薬師如来坐像(秘仏) は、

寄木造で彩色·金泥仕上げ玉眼嵌入
(ぎょがんかんにゅう)。

定印で薬壷を持ち、帽子をかぶった

ような頭髪部と量感ある体躯になって

いる。 

重要文化財

十二神將 (卯神 麻虎羅大将)

室町時代·享徳三年·康正元年

(一四五四年·一四五五年)

十二神は、薬師如来の眷属で

十二方位を守護する。

当寺の十二神立像は、木造彩色、

玉眼で、頭上に十二支を表し、童子の

ような体型が特色とされる。

六躯の台座の裏に墨書された銘によ

ると、永享三年(一四三一年)の本堂

再建から約二十年後に作られた仏像で

ある。

おり台座は、古式な裳懸座(もかけざ)。 

木造薬師如来坐像

 栄山寺の本尊薬師如来坐像は、木造漆箔、永享3年(1431)作とされます。
寄木造りで、漆の厚みもあり、どっしりとした姿で禅定に結んだ掌に薬壷を
持っています。 秘仏ですが、春と秋に特別に開帳されます。 

木造十二神将立像

 本尊薬師如来を守護する十二神将、この内の6躯が台座裏の銘記により
享徳3年(1454)から翌康正元年(1455)にかけて造立されたことがわかります。
室町時代の基準作例として貴重とされています。 十二体揃っている像の姿
は壮観です。

<一ロメモ〉この十二神将の頭部には干支の動物をあらわしたかざりがされ
ています。  

 

重要文化財

石 燈 篭(本堂前)

高さ二四三cm

石質 花崗岩

鎌倉時代・ 弘安七年(一二四八)

建立当初の姿を良く残しており、

榮山寺形石燈篭とも言われる。

 
栄山寺(語り部)⇒⇒⇒
 
重要文化財

七重石塔

高さ 三六〇cm

石質 凝灰岩

奈良時代

方形の台石の上に建ち、相輪が水煙まで

装飾されているのは、非常に珍しく、もっ

とも古い石造塔の一つである。

動画  栄山寺⇒⇒⇒ 
全動画⇒⇒⇒ 

   

重要文化財

塔之堂(大日堂)

室町時代  

   


御霊神社

   
小島町御霊神社

 村社にして小島一円の氏神 。井上皇后を祀る(嘉禎四年(三三八)閏二月宇智郡霊安寺御霊神社
より分祀)。この社はもと興福寺の治下にあった栄山寺では鎮守の春日神社と称した 。桃山時代に
興福寺の支配を離れると御霊神社と称された 。記録の上でこの鎮守を御霊社と記したのは寛文六年
(一六六六)以降のことで、以後は惣社あるいは春日社と呼んでいる 。彰考館本の栄山寺山林絵図
はこの鎮守を春日明神と記し、陽明文庫蔵の和州栄山寺之図にはこの建物を「鎮守社二間四面 」と
し祭神を「御霊昔者春日之由」と明記している 。町内観音寺裏山には岩上神社(石擬姥命 )及び

その末社、若宮神社(火雷神 )、桜木神社(木花開耶比売大神 ) を合祀してある 。



藤原武智麻呂の墓

 
藤原武智麻呂像(案内板より) 
   
藤原武智麻呂の墓(案内板より) 

 五條市小島町503。 栄山寺背後の山上にある藤原氏南家の始祖贈太政大臣藤原武智磨
が天平9年7月薨去の後点定され、守戸6烟と、丁12人を賜って守護せしめられた墓所で、
延喜式に後阿陀墓とあるものがこれである現今石段の上に元禄6年の建立にかかる墓石がある。

 藤原武智麻呂は天平9年(737)7月に死去 し、奈良の佐保山に火葬され葬られましたが、
仲麻呂が父母追善供養のため八角堂を建立した頃、現在の場所に改葬したといわれて
います。栄山寺(語り部)⇒⇒⇒