栂尾山 高山寺(とがのおこうざんじ)地図
国宝鳥獣人物戯画(鳥獣戯画) かえるがウサギの耳をがぶりとかんで、投げ飛ばす |
奈良時代、光仁天皇の勅願によって開創された古刹で、鎌倉時代に明恵上人が中興開山された。 境内の国宝・石水院は、同上人時代の遺構であり、世界文化遺産ににも登録されている。 縁側からは栂尾(とがのお)の山々が見渡せる。また、鳥獣人物戯画の複製が展示されている。 南面長押の上にある後鳥羽院の勅額「日出先照高山寺」 |
||
石水院 国宝。明恵上人が後鳥羽院より学問所として賜わった建物で、上人時代の唯一の遺構である。 金堂の東の位置にあったものを、明治22年現在地に移した。 簡素な中に優雅さを保ち、きわめて機能的な構造もっている。 |
白雲橋 | 高山寺表参道 | 高山寺境内 | |
後鳥羽上皇の勅願「日出先照高山之山寺」で知られる。 宝亀5年(774)光仁天皇の勅願によって開創された。神願寺都賀尾坊といったが、弘仁5年(814)栂尾十無尽院と改称された。 その後、貞観18年(876)には後の13代天台座主となり、天神縁起絵巻で菅公の怨霊を鎮めたといわれる法性房尊意僧正が、 11才より4年間当山で修行し、大いに法力を得たと伝えられている。 鎌倉時代、明恵上人(成弁、後に高弁と改名)が出て、後鳥羽上皇・近衛・鷹司・西園寺家等の帰依により堂坊を復興し中興開山した。 明恵上人は、後鳥羽上皇の院宣によって南都東大寺の華厳を根本とし戒密禅を兼ねた寺とし、建永元年(1206)に勅願「日出先照高山之寺」 を賜わったので、寺号を「高山寺」と改称した。 その後、仏道実践の霊域として護持され、尊信を受け、特に藤原氏一門には、氏神鎮守春日明神とならび氏寺のごとく保護された。 室町末期の戦乱にまきこまれて堂坊の多くを焼失したが、江戸時代になり、寛永13年(1636)永弁・秀融上人が堂坊の再興にあたり 旧観をやや回復した。明治維新後、寺運の衰えたこともあったが、昭和6年、明恵上人700年御遠忌記念として、茶室遺香庵が建てられた。 |
国宝鳥獣人物戯画(鳥獣戯画)は日本アニメの源流とも称され、擬人化された兎・蛙・猿などの動物たちが、 相撲をとったり遊んだりする様子が描かれた絵巻物。平安時代後期から鎌倉時代に描かれたものと伝えられ るが、甲・乙・丙・丁の4巻。縦31cm前後和紙をつないだ計約44mにのぼる長大な絵巻物であるが、その時 期も作者も明確でなく謎も多い(天台座主もつとめた鳥羽僧正覚獣(1053〜1140)の作ともいわれる)。 まるで人間の世界を風刺したような動物の姿が、墨書きの柔らかな筆づかいでいきいきと描かれており、 漫画の元祖とも言われている日本美術の最高傑作の一つである。 |
|||||
鳥羽僧正は、座主のポストを3日で辞めるなど自由な行動で知られる。 僧正は画才に優れ、多くの絵師を育てたことでも知られるが、作風の特徴などから複数の絵師が描き 継いだとの説もある。 制作の目的は風刺なのか、本当の作者誰なのか。古くから議論が続いている。 こっけいでほほえましい絵は、奈良法隆寺金堂の天井の落書きなどにも見られ、「をこ絵」と呼ばれる。
|
日本最古の茶園の碑 | 遺香庵庭園の茶畑 |
古くから明恵上人は茶祖、栂尾山は茶の発祥地といわれている。 鎌倉初期、栄西禅師が宋に渡り養生の仙薬、延命の妙術としてこれを広めようと 茶種を持って帰国しこれを明恵上人に贈られた。 上人は、栂尾の深瀬三本木にこれを植え、宇治跡影園(あしかげえん)その他の地 にも広く移し植えられた。 鎌倉時代・室町時代を通じて栂尾は茶の本園、その茶は本茶といわれ、 天皇への献茶も毎年行われた。 宇治の茶業家は古くから毎年自家製の新茶を上人の廟前に献供(11月8日) するのを例として今日に至っている。 建仁寺⇒⇒⇒ |
|
庭園は、明恵上人700年遠忌を記念して、昭和6年(1931)に作られた。 |
明恵上人(みょうえ・1193〜1232) 紀州有田郡吉原に生まれ、父は平重国で高倉院の武者所、母は豪族湯浅権守藤原宗重の四女である。8才の時母は病死し、父も頼朝との戦いで戦死して孤児となり、9才の時文覚上人及び叔父上覚上人を頼って高尾山神護寺に入り、仏道修行に努め、さらに東大寺や建仁寺にも学び、華厳・真言・律・禅等の奥義を体得し、東大寺において学頭として華厳学を講じられたこともあった。上人は限られた宗派や説教にとらわれることなく、本師釈迦牟尼世尊に随順し、その教えのままに生き、無我の行者、真の仏弟子として生涯を貫かれた。 上人は北条泰時に政治の肝要として無欲を教え、承久の変の公家方未亡人に、善妙尼寺を造って教化救済をされた。建礼門院が上人によって受戒された。 遺訓に「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)の7字があるが、これは人間日常の簡短にして深奥なる教えである。 |
高山寺を創建した明恵は、60歳の生涯の内40年近くにわたって自分が見た夢を書き留め(夢記・ゆめのき)、死後に弟子がまとめた「行状」や「伝記」にも彼の見た夢想や夢告が記されるなど、夢と深くかかわりをもって生きたひとであった。 |
・