泉涌寺地図
仏殿(重文) |
本尊は釈迦・弥陀・弥勒の三尊 寛文8年(1668)に徳川家綱により再建されたもので、一重もこし付き 入母屋造り本瓦葺き、唐様建築の代表作である。 仏殿は唐様建築の代表作とされる。 大伽藍の多くは応仁の乱(1467~77)で焼失した。その後に再建された 仏殿内陣の「白衣観音像」と天井の「幡龍図((ばんりゅう)」は、 江戸時代狩野探幽(たんゆう)の作である。 |
舎利殿 |
舎利殿には堂内に韋駄天立像があり、謡曲「舎利」では、足疾鬼が舎利殿に 飛び上がり、舎利を奪って虚空に飛び去ったところ、 この寺を守護する韋駄天が、これを追い詰め、仏舎利を取り返すという話になっ ている。 |
謡曲 | 泉涌寺 |
清少納言歌碑 | 泉涌水屋形 |
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よにあふ坂の関はゆるさじ 清少納言の代表的な歌で、 小倉百人一首の採られている。 |
江戸時代に造られた「泉涌水屋形」では 寺名の由来ともなった泉が現在も 枯れることなく涌き続けている。 |
浴室 | 唐門 門の奥に霊明殿があり、その奥が月輪陵となる |
本坊 | 大門(重文) |
御座所(ござしょ・天皇皇后両陛下の安息所)など各建物の釘隠にまで菊の紋章があり、 京都御所から移築された「玉座の間」「侍従の間」「勅使の間」がある。 |
楊貴妃観音堂(重文)昔は秘仏とされていた | 宝物館心照殿 |
楊貴妃は乱によって命を落とした。安禄山が討たれた後、皇帝玄宗は 亡き妃の面影を偲ぶため、香木によってその等身坐像にかたどった聖観音菩薩像を 造ったと伝えられる。 (13世紀、高さ1.14m通称楊貴妃観音、胎内に舎利を入れた高さ3.6cmの 五輪塔が納められていることがX線で確認されている) 建長7年(1255)に中国に渡った湛海(たんかい)は、その像を持ち帰り、 泉涌寺に安置したという。 仏体は寄木造りで、手に極楽の花、宝相華(ほうそうげ) を持ち、宝冠は宝相華唐草の透彫(すかしぼり)、その下に観音の冠を重ねている。 観音の慈悲と楊貴妃の美貌が渾然一体(こんぜんいったい)となっている。 |
観音菩薩坐像木造 (楊貴妃観音) |
玉座 ポスターより |
楊貴妃観音 ポスターより |
月輪陵 |
泉涌寺は泉山と号する真言宗泉涌寺派の大本山であるが、 古くから皇室の香華院として知られ四条天皇の仁治3年、ここに 月輪陵が設けられたのを初とし、後水尾天皇から仁孝天皇にい たるまでの天皇・皇后・親王等25陵5灰塚9御墓の後月輪陵が 営まれている。
|
東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。広く「御寺(みてら)」として 親しまれている当寺は、天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだことに由来する。法輪寺 と名付けられた後、一時仙遊て改称されたが順徳天皇の御世(永久元年・1219)に当寺の 開山と仰ぐ月輪大師(がちりん)・俊芿律師(しゅんじょう)が時の宗の方式を取り入れて、この 地に大伽藍を営む事を志し、寺地の一角より清泉が涌き出ていた祥瑞によって寺号を泉涌寺 と改め、嘉禄2年(1226)には主要な伽藍が完成した。この泉は今も涌き続けている。 月輪大師は若くして仏門に入り、大きな志をもって中国の宗に渡り深く仏法の奥義を究めら れた。帰国後は泉涌寺を創建して戒律の復興を計り、律を基本に天台・真言・禅・浄土の4宗 兼学の寺として大いに隆盛させた。 奈良・西大寺南都の律に対して北京律(ほっきょうりつ)の寺として重きをなした。 後鳥羽・順徳上皇、後高倉院はじめ時の皇室や、北条政子・泰時ら公家や武家からも深く 帰依せられた。仁治3年(1242)に12歳で亡くなった四条天皇の葬儀が営まれが当寺に 葬られた。以来、南北朝~安土桃山時代の緒天皇や、江戸時代には後陽成天皇から幕末 の孝明天皇まで歴代天皇・皇后の葬儀が営まれた。皇室の御香華院(菩提所)として篤い 信仰を集めており、境内の東方に歴代天皇・皇后の陵墓としての月輪陵、後月輪陵が造営 されてきた。この様なことから当寺が御寺と称せられるている。境内には仏殿・舎利殿はじめ、 天智天皇以降の歴代天皇御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍を配し、春の新緑、秋の紅葉に 一段と美しい姿を映えさせている。 |
舎利殿 |