醍醐寺地図

 
金堂(国宝) 
本尊 薬師如来(国宝) 
 この金堂は醍醐天皇の勅願により創建され、延喜4年(904)に竣工、
当時は釈迦堂と称せられていたが、文明年間の兵火により焼失、
慶長5年(1600)太閤秀吉の遺志を継承して秀頼が仁王門とともに
紀伊湯浅の満願寺より移建したもので、藤原時代の代表的な建築である。
京都・世界遺産⇒⇒⇒
 9世紀末、真言宗の僧聖宝(しょうほう・832〜909)が笠取山(醍醐山)の山頂に
草庵を造ったのが始まり。
 聖宝は山中に、醍醐天皇が発願した薬師堂を中心に伽藍(上醍醐)を造営。弟子の
観賢(かんげん)がふもとに伽藍(下醍醐)を広げ、釈迦堂(金堂)や五重塔などが造
られた。
 平安後期の1115年、三宝院が創建され、現在の醍醐寺を構成する主要伽藍が
整った。
 薬師如来はずっと薬師堂の本尊だったが、2001年に脇侍の日光・月光両菩薩と
共に下醍醐の霊宝館に遷座し、公開されている。
 醍醐寺は桜の名所。豊臣秀吉が晩年、贅の限りを尽くして催した「醍醐の花見」は
歴史上名高い。
 醍醐寺は真言密教の一大拠点として発展し、儀式や儀礼の秘伝を伝えてきた。
一方、三宝院は室町時代に兵火で全焼したが、秀吉の花見を機に再興され、修験道
の一派の本拠ともなった。
薬師如来像日光月光四天王像が奉安されている。
五重塔(国宝)
 この五重大塔は、醍醐寺をあつく信仰した醍醐天皇の冥福を祈るために造られ、その第一子皇子朱雀天皇が承平6年(936)起工、
第二子皇子村上天皇の天暦5年(951)に完成したものである。
京都府最古の木造建築。 総高 38.2m。
醍醐寺塔⇒⇒⇒
国宝の仏塔一覧⇒⇒⇒
 京都市内に現存する建造物としては最古のもので、その様式は他に比類のないものである。
1/3ほどを塔上の相輪が占めている点が特徴である。 
 また、内部の板壁画は日本密教絵画の源流をなすものといわれており、
初層には「両界曼荼羅」「真言八祖像」が描かれている。
三宝院唐門(国宝) 豊臣家の紋章と菊の紋章を刻んだ三宝院唐門(勅使門)
 三宝院の唐門は、棟を左右にした平唐門である。西本願寺豊国神社 の唐門、京都御所建春門仁和寺の勅使門が通常である。
 秀吉の援助によって醍醐寺は再興された。当時座主の居住坊であった金剛輪院を復興、由緒ある寺名三宝院に改名した。
 醍醐寺の子院のひとつ。永久3年(1115)に創建された修験道の本山。
 織田信長が倒れて4年目、天正14年(1586)50歳になった羽柴秀吉は、即位まもない後陽成天皇の命により、関白太政大臣、
豊臣秀吉となった。
仁王門
林泉と弁天堂
上醍醐寺⇒⇒⇒
 真言宗醍醐派の総本山。山上を上醍醐、山下を下醍醐と呼ぶ。貞観16年(874)に,弘法大師の孫弟子理源大師・聖宝(りげんだいし・しょくほう)が上醍醐に小堂を営み、准胝(じゅんてい)・如意輪観音をまつったことが起源で、やがて、聖宝を深く崇拝していた醍醐天皇がにより延喜7年(907)には勅願寺となった。
 現在の下醍醐の地には、延長4年(926)に釈迦堂が、天暦5年(951)には五重塔が完成した。そののち寺運が栄え伽藍も充実したが、文明2年(1470)に五重塔など一部の建物をのぞき兵火により焼失した。慶長3年(1598)には豊臣秀吉による醍醐の花見が盛大に行われ、これを契機に再建が進み、現在に至っている。


 醍醐寺というと塔と桜をまず思う。桜は秀吉の有名な醍醐の花見の故事があり、秀吉はこの花見のため七百本も下醍醐から上醍醐に向かう道の両側に植えたり、堂塔の建立を急がせたり、多くの知行を下賜したりして準備おさおさおこたりなかった。北野の大茶会でもそうだが、太閤となってからの秀吉は、何でも大仰に、出来るだけ派手にすることを好んでいた。それは自分は天下一という政治家の地位の誇示であったのだろう。
  ・・・
 豪華な花見の後わずか半歳で死んでいる秀吉は、この醍醐の花見が栄華の頂点であり、同時に運勢の下降の出発時でもあった。

  寂聴の古寺礼讃  瀬戸内寂聴  より
 聖宝は東大寺で学び、同寺に東南院を興し、吉野の金峯山で山岳修行するなど奈良との縁が深い。