父…日本武尊(第二皇子)
母…両道入姫命
誕生…━━
御名・異称…足仲彦尊
皇后…息長足姫命(神功皇后)
立太子…178年(成務天皇48年)3.1
即位…192年(仲哀天皇元年)1.11
在位年数…8年
崩御…200年(仲哀天皇9年)2.6 年令…━━
皇居…角鹿笥飯宮、穴門豊浦宮、橿日宮 年号…━━
○天皇は、父の日本武尊に似て容姿端麗で、身長も高かった。
父が亡くなるとその魂は白鳥となって天に上ったと信じ、これを偲んで父の陵の周囲の池に白鳥を飼い、心を慰めさせようとした。
○皇后とともに徳勒津宮にいる時、熊襲が背いたので、熊襲征伐を話しあったが、皇后に神がかりがあって、熊襲より金銀に富んだ新羅のほうがよいと進言したが、天皇は疑って決行しなかった。そのため神の怒りにふれ、命を落とすことになった。
○天皇の没後、注目されるのは神功皇后の新羅征伐である。皇后にまたも神託があり、神が天上から見下ろしている国を求め征討の旅に出ないのであれば、国を保つ事が出来ないこと、そして身ごもった皇后が神の指示に従えば、皇子は国を得ることができるのであろうことが告げられた。
○皇后は新羅征伐を終え、帰還すると、筑紫で後の応神天皇を生んだ。人々はその産所を宇瀰と呼んだ。皇后は皇子を連れて大和へ向かおうとしたが、その途中、仲哀天皇と大中姫との間に生まれた諸王らが反乱を起こした。しかし武内宿禰らの活躍で乱はまもなく平定された。「紀」はこの年を皇后摂政元年としている。
陵墓…恵我長野西陵(岡ミサンザイ古墳) 前方後円墳
所在地…大阪府藤井寺市藤井寺4丁目
○御陵は、羽曳野丘陵の北端部に位置し、南々西の前方後円墳である。造り出しが片側のみで、前方部幅が後円部径を凌駕する形態で、出土埴輪等から五世紀後半の造営年代が考えられる。また周濠の広いことも特徴である。
○現治定陵は仲哀天皇の実在年代とは相違し、位置、規模、形態、出土品等から現陵の北方約2kmに所在の津堂城山古墳が最もふさわしいと考えられる。つまり、古市古墳群で最も古い巨大前方後円墳で、河内に最初に造営された大王墓が津堂城山古墳であることも理由にあげられる。
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