神功皇后地図
(五社神古墳・ごさし)
神功皇后狭城盾列池上陵(さきのたてなみ)
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神功皇后は仲哀天皇の皇后。 (成務40年〜神功69年・170〜269)) ともに筑紫へ熊襲征伐に向かった夫が急死すると、 神々を祭って朝鮮半島に遠征。 凱旋した畿内で反乱があったが、これも退けた。 前方後円墳、4世紀末〜5世紀初めごろ。 |
仲哀天皇が筑紫で熊襲征伐の時、神の命を請うと、皇后は神懸(かみがか)りして「西の方に、金銀をはじめ宝の沢山ある国 が。われは今その国を帰順させるであろう」と神の言葉を口走り、これを信じなかった天皇は神の怒りにふれて絶命した。 神の意は「汝の御腹にまします御子が、この国の王たるもの」、「神の御魂を船に、海に色々のお供物をして、大海を渡れ」という。 皇后が神々を祭り、軍をととのえ、船を海に乗り出す、魚は船を負い、追風と潮に船は一気に進み、新羅の中央まで押し上がって行った。 新羅王は降伏し、朝貢を誓った。 皇后は筑紫に帰還し、皇子を生んだ。後の応神天皇である。大和へ凱旋にあたり、抵抗した香坂(かごさか)、忍熊(おしくま)の二王は 戦いに敗れ、琵琶湖に身を投じた。太子は穢れを去るため、一時、高志(こしの角鹿(つぬか・敦賀)におり、気比(けひ)の大神に 守られ、後、大和に入った。神功皇后は待酒をつくり、これを太子に奉り、武内宿禰(すくね)はこれをたたえた。 |
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日本書紀 神宮皇后紀3年 因(よ)りて磐余に都をつくる。是をば若桜宮と謂ふ。 磐余の名 |
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神宮皇后を祭る主な神社 住吉大社 香椎宮(かしいぐう・福岡市) 石清水八幡宮 |
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