磐余稚桜神社(いわれわかざくらのみや)地図
稚櫻神社の御祭神 出雲色男命(いずもしこおのみこと) 「新撰姓氏録」によると物部氏の御先祖の饒速日命の三世の子孫が出雲色男命で、 また、櫻の花を探し求めた物部長真胆連(稚櫻部造)の四代前の祖先にもあたります。 「旧時本記」に「出雲色男命は第四代懿徳天皇の御世に大夫(まえつぎみ)となり、 次に大臣(おおまえつぎみ・だいじん)となる。大臣という号は、この時からできた。」 去来穂別命(いざほわけのみこと・履中天皇) 第十六代仁徳天皇の皇太子で「日本書紀」の履中天皇紀に「元年(四00年) 春二月一日皇太子(去来穂別命)は磐余雅櫻宮で即位された。」と記され 池之内に都をつくられたことがわかります。 二年十一月磐余池を作られた。 気長足姫命(神功皇后) 神功皇后は第十四代仲哀天皇の皇后で、天皇が崩れになったので、 天皇にかわって政務をとられる摂政となられた。「日本書紀」神功皇后摂政紀に 「三年春正月三日誉田別皇子(後の第十五代応神天皇・・・ 八幡大神)を立てて そして磐余に都をつくられた。」と記されている。 |
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神社名「稚櫻」の由緒 日本書紀によると「第十七代履中天皇三年(西暦四0二冬十一月六日 天皇が両枝船(ふたまたふね)を磐余の市磯池(いちしの・神社の東側にあった池)に浮 天皇は、大変不思議に思われ、物部長真胆連(ながまいのむらじ)をよんで 「この花は季節外れに珍しく散ってきた。どこからだろうか探してこい。」 といわれた。長真胆連は花を探したづねて、掖上室山(わきがみ・いけのへのむろやま) 天皇はその珍しいことを喜んで宮の名とされた。磐余稚櫻宮の由緒である。 真胆連は本姓(もとかばね)を改めて稚櫻部造(わかざくらべのみやつこ)とし膳臣余磯 |
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井は深さ9尺余、径約2尺2寸円形に積みあげた生れ石は 苔むして1500有余年の昔を物語っている。井水は水豊かで 昔から大和の七ツ井のひとつであった。 この地に稚櫻部氏の祖神を祭る稚櫻神社の北に当たり、 井戸のほとりに桜が植えられていたことから「櫻の井」と呼ばれた。 また、ここは履中天皇の磐余稚櫻宮の跡ともいわれている。 尚、櫻井の地名はこの「櫻の井」からはじまると云われる。 |
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