比売久波神社地図
島の山古墳地図
箕輪寺跡地図
唐院 地図 
浄徳寺地図
面塚地図
糸井神社地図
安養院地図
極楽寺地図
地蔵院地図
都瑠伎神社地図
寺の前古墳地図
法満寺地図


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
比売久波神社
   
 拝殿  本殿
祭神 久波御魂神(くばみたま)、天八千千姫(あまはちち)

 延長5年(927)成立の延喜式人名帳記載の由緒を持つ神社で、本殿は一間社春日造り檜皮葺きで、
春日大社摂社若宮本殿を移築されたと云われ、江戸時代初期の特徴を持つ装飾の少ない簡素なもので形式・手法は
春日大社本殿と一致している。
 社殿建築として、奈良県指定文化財となっている。これ以前にも、応仁期(1467~69)に春日大社本殿
を東院に売却した記録があり、この地が、中世より、興福寺・春日大社の荘園であったことから、歴史的つながりが深い。
 御神体は地元では桑の葉と伝えられ、隣接する糸井神社と共に、この地域が、古代より、蚕産・絹織物の生産に
関わる地域であろう。
 境内には大国主神社(祭神:大物主命)、事代主神社(祭神:事代主命)、春日神社(祭神:天児屋根命)がある。
かっては、比売久波神社の神宮寺である箕輪寺の僧侶が管理していたといわれる。
 拝殿には江戸時代末期から現代までの絵馬が奉納されている。 
 
 本殿

比売久波神社

 この神社の久波御魂神は、 アマハチ姫を祭神と

しています。本殿は、 春日大社摂社若宮神社本殿

を移建したものと伝えられておりリ、装飾の少ない

簡素なもので形式·手法は春日大社本殿と一致し

ており江戸時代初期とされています。

 本殿の右には、大国主神社の境内社かあります、

左には、蛭子神社と春日神社の社殿が並び、さら

に春日神社の西には校倉づくりの宝庫があり興味

をひきます。本殿は、 奈良県指定文化財となって

います。

 1993 (平成5)年4月 川西町教育委員 

   
 拝殿と本殿との間にある踏み石   推定 島の山古墳検出竪穴式石室
 拝殿と本殿の間には、東に隣接する国史跡・島の山古墳から持ち出された竜山石(兵庫県高砂市周辺で産出する
凝灰岩で、古墳時代前期より石室・石棺に使用された。)の天井石3石が踏石として置かれている。
     
 征清従軍記念碑    
     
 比売久波社    式内比売久波神社
 
 
 比売久波神社・箕輪寺跡・箕輪焼き伝説⇒
   
   

唐院音頭

 唐院音頭は、昭和22年(1947年)大和盆踊りコンクール

で発表され好評を博しました。現在も比売久波神社の

秋の大祭には、この唐院音頭が歌い踊られています。

 1つ1つの歌詞には、 この小さな村落(唐院)の歴史、

郷土史がたくさん記されております。

●島の山●焼け地蔵● 飛鳥川●下街道

●ネギにポタンに桑の神 ●箕輪寺● 高瀬の貝

●大和のお江戸●生駒山●音羽山●城の跡

●箕輪陶器の加0藤藤四郎など。

 唐院音頭は17番という長い歌詞ですが、作者はまだ

まだ表現したい村自慢や郷土自慢を歌いたかったものと

思われます。

 唐院音頭が唐院の皆様に、 未長く愛されることを願い

歌碑を建立していただきました。 .

 令和3年12月唐院自治会

一、さてもよいよいよいとさとさ

  とんと唐院それよいところ

  眺めゆたかな烏の山

  お池の鯉や わしの恋

  やれこれどっこい

  とらへにくうて とらへにくうて

  焼地歲

二、とんと唐院それよいとこち

  古い歴史の飛烏川

  つもる思ひに橋かけりや

  やれこれどっこい

  帯もとけたか 帯もとけたか

  下街造

三、とんと唐院それよいとろ

   葱に釦に桑の神

   女神ながらも氏神は

   やれこれどっこい

   護る田畑の護る田畑の

   農の神

四、とんと唐院それよいところ

  大和一番箕輪寺は

  ふだらくあまた慈悲仏

  やれこれどっこい

  どんな願いもどんな願いも
  ききめさる

五、とんと唐院それよいところ

  素焼かまどに火が燃える

  加藤藤四郎今いずこ

  やれこれどっこい

  箕輪陶器の箕輪陶器の

  創め所  

 

六、とんと唐院それよいところ

  君がみ胸に抱かれる

  高瀬の貝のつやのよさ

  やれこれどっこい

  釦どころを釦どころを

  誰も知る

七、とんと唐院それよいところ

  奈良の平野の立真中で

  大和のお江戸と唄われた

  やれこれどっこい

  十七垣内の十七垣内の

  意気のよさ

八、とんと唐院それよいところ

  様に抱かれて寝る夜さに

  立てた屏風にさもにたる

  やれこれどっこい

  山は生駒か山は生駒か

  音羽山

九、とんと唐院それよいところ

  夢もはかない城の跡

  天王塚や箸尾 どんは

  やれこれどっこい

  音恋しい普恋しい

  村自慢

十、とんと唐院それよいところ

  明日もほのぼのあけ染めりや

  希望に踊る平和卿

  やれこれどっこい

  若い心の若い心の

  花が咲く

 


島の山古墳
   
 奈良盆地中央の平坦部、寺川と飛鳥川の間の沖積微高地上に営まれた南南東に前方部を向ける
三段築式の前方後円墳である。
前方部は後円部に比べて低いが、その幅は後円部径近くまで広がっている。
この古墳の南方には、黒田大塚古墳を南限として、全長50m前後の前方後円墳数基を含む
いくつかの古墳が存在する。
本墳はこの式下古墳群の中心的存在として注目される。  
全長    200m、 墳形 前方後円墳
後円部径 113m、 同高 17.4m
前方部幅 103m、 同高 11m 
周濠長   265m、 同幅 175m
築造時期 4世紀末~5世紀初

 島の山古墳は大和盆地中央部に築造された巨大
古墳で、発掘調査で前方部頂に粘土郭を検出し、棺外から
約2500の玉類の他に、緑色凝灰岩製腕輪他が出土した。
墳丘の調査では、円筒埴輪列が出土し三段築成が確認できた他に、
形象埴輪などが出土し、くびれ部東西から造りだしの跡を検出した。 
県立図書館情報館長・千田氏講演 黒田大塚古墳
 
 
西くびれ部発掘調査⇒
西造出発掘調査⇒
前方部頂発掘調査⇒




箕輪寺跡
 
かっては、比売久波神社の神宮寺である箕輪寺の僧侶が管理していたといわれる。  
 
 真言宗豊山派の寺院で円通大士によって開かれたといわれている。
永享2年(1430)に本堂や本尊が焼失したが、再建した本堂に
木造十一面観音立像が本尊として迎えられた。本堂がなくなった現在、
別の寺院で他の像と共に保管されている。



唐院 
 
 唐院は、道陰の庄を音読みしたものであるとも言い、また陶工、加藤籐四郎に
因む陶院に由来するとも言われている。
また唐の国より渡来してきた人々によって、土着したことから唐院と呼ばれるよう
になったのではないかという様々な説が伝わっている。 
箕輪焼の伝説
 東院で踊られている唐院音頭の11番に以下のような歌詞があります。
「とんと唐院、よいところ 素焼きかまどに火が燃える。加藤籐四郎、いまいずこ 
やれこい どっこい 箕輪陶器の創めどころ、
加藤籐四郎といえば、瀬戸焼の開祖として知られている伝説的人物で、加藤景正
の略称です。一般的には、貞応2年(1222)に道元とともに南宋に渡り、5年後に
帰国し、陶器に適した土を探して全国を放浪した後に尾張国の瀬戸で窯を開いたと
されています。 

浄徳寺
 
 



面塚
   
 観世発祥之地  面塚碑

面塚の由来

 能楽は足利義満ら室町将軍家の庇

護を受けて観阿弥·世阿弥父子が猿楽
を幽玄華麗な芸道にまで高めたも

のです。「観世小次郎画像賛」「観世

家譜」等によれば、伊賀国小波多に

座を立てた観阿弥がこの結崎の地に

移住し、ここで世阿弥が生まれたと

いい、「宝生座系図」では観阿弥が観

世家を継ぎ、結崎の地に知行地を得

たといわれています。

 いずれにしても当地には古くから

「翁の面と葱が天から降り、その面を

埋めたのがこの塚である」 という伝

承がありました。そのため昭和十一年

(一九三六)十二月十四日、当時の村役

場が奔走して観世流第二十四世宗家

観世左近(元滋)氏の揮事(きごう)に

よる「観世発祥之地」「面塚」二つの

標石を建立しました。

 現在の面塚の地は、寺川の改修に

より二回移転しており、後に整備さ

れた面塚記念公園とともに、住民憩

いの場としても親しまれています。

川西町教育委員会

観世流第二十四世宗家観世左近師

の筆で「観世発祥之地」と記された石

碑が寺川沿いにある。寺川の改修によ

り二度位置を変えて現在の位置にあ

り、周りを囲む玉垣には全国の観世流

能楽師らの名が刻まれている。

   
 

面塚 観世発祥の地

 いつの世の頃にか、この地に天から「翁の面とねぎ種」が降つて来戸との伝

承があり「面塚」 と称した、 伊賀の国小波多に座を創った観阿弥、世阿弥父子

がこの地に移り、結崎座と称して芸道に精進した本拠の地の跡である。世阿弥

父子はここより南都春日大社、 興福寺の能に参勤し、その後京都今熊野に

於いて室町幕府三代将軍足利義満に見出されその知遇を得て益々円熟の芸
境に到達していくのである。

 大和にはこの結崎座の他に、 円満井 「金春」 外山「宝生」坂戸 「金剛」の三

座があり、いずれもが南都の能にこ参動していた。これらを大和猿楽の四座と
称する。

観世流能楽発祥の地

 観世の発祥は、観阿弥三郎清次が、 大和の国の山田猿楽 (現在の桜井市山田)
から、 大和猿楽四座の一つ 「結崎座」 に加わり、一般大衆の芸を優雅で洗練された
芸能に進化させ、 座名も 「結崎座」から「観世座」 となりました。 その後、 観阿弥

結崎を拠点とし、 世阿弥の出生とともに、 室町将軍の庇護のもと、 不抜の基礎を
築き、 特に世阿弥が天才的な芸風を持ち、 三代将軍義満の寵愛を受けました。
観世座は観阿弥 世阿弥親子二代の出現によって能楽完成に偉大な功績を残し、
現在の繁栄につながっているといえます。
  天理市広報 町から町へ 2023 4月

  奈良盆地を流れる寺川のほとりに「面塚」の石碑と「観世発祥之地」と刻まれた
石碑が建っています。 観世流創始者の観阿弥とゆかりがあり、 翁面とネギが天
から降ってきたとされる伝説の地です。

 春になると桜が見事に咲き乱れ、 町民団体によるさくら祭りなどのイベントやライト
アップが行われます。
 天理市広報 町から町へ 2023 4月 

   
       
 


糸井神社
   

祭神  豊鍬入姫命(トヨスキイリビメノミコト)

本殿   春日造檜皮葺

境内社 春日神社、大国主命神社(事代主命と合祀)、住吉神社、稲荷神社

 延長5年(927)にまとめられた「延喜式神名帳

に記載されている式内社で、本殿も江戸時代に春日大社から移建されたものです。
結崎内の五垣内(市場・中村・井戸・辻・出屋敷)により祀られています。

 每年十月第四土日に秋祭(土曜宵宮、日曜本祭)がおこなわれ、氏子が輪番で
つとめるトウヤ(当屋、頭屋)の行事は当屋相撲など格調高く、大和祭礼の1中で
も注目すべきものです。

   川西町教育委員会 

 
   
 春日神社、大国主命神社(事代主命と合祀)、住吉神社、稲荷神社
 
 この糸井神社から南東へ 200 メートルほど行くと寺川河川敷に、 面塚がある。

面塚は、能楽観世流発祥の地として知られている。この面塚に関し、次のような伝説が

ある。『室町時代のある日のこと、一天俄かにかきくもり空中から異様な怪音と共に寺川

(謡曲でいう糸井川)のほとりに何か落下した。 この落下物は、一個の翁の能面と一東

の葱であった。村人は、能面をその場に葬り(一説にここ糸井神社で保存、その後春日
大社へ奉納されたというが現在は不明)、葱はその地に植えたところ、 みごとに生育し
戦前まで「結崎ネプカ」として名物になった。

何れにしても史実と幻想をおりまぜて伝えられたものといえる。 

   
     
「本殿豊鍬入姫命、同二ノ宮猿田彦命、同三ノ宮綾羽明神、 同四ノ宮呉羽明神」と記

されており、社伝中にも綾羽·呉羽の祭神とあることから、機織の技術集団の神と推察さ

れる。本殿は、春日大社の古殿を移築したと伝えられ、室町期の春日曼荼羅を所蔵し、

興福寺や春日大社との関係も深かったと考えられている。

 拝殿内には、多数の絵馬がある。中でも江戸時代に始まった、民衆が伊勢へ群参し

たおかげ参りに発する「おかげ踊り絵馬(慶応 4年(1868)作)」と江戸時代奈良盆地を中

心に盛んであった雨乞いの踊りの形をあらわした「太鼓踊り絵馬(天保13年(1842)作)」が

あり、何れも県の文化財として指定されている。

大字 結崎の概要

結崎は、寺川の右岸にあり、中村·市場·辻·井戸·出屋敷の五つの垣内からなって

いる。

 中世結崎郷は、結崎大明神 (現糸井神社)を鎮守として、 存在していた。1600年代に

入ると「結崎之枝郷」として結崎市場村・中村·辻村·井戸村·梅戸村の五村となった。

1700 年代の和州御領郷艦の中では「中村·市場村·辻村·井戸村四か村出屋敷与申

付」と記されている。その後、 明治 10 年に四か村と出屋敷方が合併し、 結崎村となっ

た。

 鎮守であった糸井神社は、 延喜式内社。糸井神社の祭神は、 「大和志料」中に

「本殿豊鍛入姫命、同二ノ宮猿田彦命、同三ノ宮綾羽明神、 同四ノ宮具羽明神」と記

されており、社伝中にも綾羽·呉羽の祭神とあることから、 機織の技術集団の神と推察さ
れる。本殿は春日大社の古殿を移築したと伝えられ、室町期の春日曼荼羅を所蔵し、興福寺
や春日大社との関係も深かったと考えられる。

糸井神社の絵馬

 神社の拝殿には様々な絵馬が飾られていますが、 中でも多くの人たちが雨乞い等の願を
掛けるために太鼓踊りをしている様子を描いた天保13年(1842)のものや、おかげ踊りを踊る
様子を描いた慶応4年(1868)のものがひときわ目につき、それぞれ「太鼓踊り絵馬」、「おかげ
踊り絵馬」と呼ばれております。

「太鼓踊り絵馬」の中には西瓜を切り売りしている様子や、僧侶が灯龍に火をともしている様子
などが描かれて、当時の生活や、 神仏習合の一端が垣間見られる良好な資料となっています。

 これら二つの絵馬は奈良県指定文化財に指定されています。

 糸井神社は、その名からして糸に関係するらしく、寺川をはさんで比売久波神社が鎮座する。
比売久波とは蚕桑(ひめくわ)のことであるから、糸井神社をも合わせ考えると、古代の織物
の生産地であったらしい。
 
 おかげ踊り絵馬 太鼓絵馬
   
   
 


安養院
   
   
 


極楽寺
   


地蔵院
   
 


都留伎神社
祭 神  都留伎比古命(ツルギヒコノミコト)

本 殿 春日造銅板葺

祭日  9月21日

 中村大字の垣内の宮として祀られる神社で、創

建は天正年間(1573~92)を下らないと伝えられ

ますが、詳細な記録は散逸したといいます。

 境内に「鶴木」と刻まれた石灯龍があり、領内に

掘られた長田池に功績のあった人物、 あるいは

寺川堤に用水樋通を隣村に無断で伏せた罪を負い

牢死した人物とも言われています。いずれにしても

中村垣内のために尽力したこの人物をいたみ、この

地に祀ったといわれています。

 川西町教育委員会

 
   


寺の前古墳

三宅古墳群 寺の前古墳

 三宅古墳群の中で「前方後円」の墳形が最も整った形で遺されており、墳丘と周濠か明らかで
五世紀代後のものとされている。

 明治初期には石室内に凝灰岩の石棺や多数の須恵器が埋没していたと言われている。

三宅町教育委員会

 だんだん前方部の土取りが進行し、墳形も変貌しつつあるが、周濠と墳丘が明瞭に残存している
前方後円墳である。 
 
 


法満寺
 



茄子塚古墳

 円墳であったのか前方後円墳であったかは判断し難い状況。
出土遺物は須恵器高杯、堤瓶(さげべ)、台付長頸壺等。これらの土器より、古墳時代を推定すると5世紀の終わりから6世紀初頭にかけての古墳といわれている。 









瓢箪山古墳
 墳丘上には祠があり白木大神・白次大神を祀っている。
前方後円墳で、前方部を南西方にむけている。全長約40m、後円部径約25m、前方部幅15m、後円部の高さ約4.5mの規模である。
 6世紀前半に築造されたとみられる。周濠からは犬形埴輪や人物埴輪が出土。犬形埴輪は体長46cm、首まわりに突出があり、
首輪を表現したものとみられる。
 三宅古墳群は三宅町、川西町、田原本町にまたがる古墳群で、17基の古墳が確認されている。
 一帯は古墳時代には穀倉地帯で、ヤマト政権の基盤となった「倭屯倉(みやけ)」と呼ばれる直轄地が広がっていたとみられれ、被葬者
は屯倉を管理していた有力者の可能性がある。








高山古墳

 北辺の道路拡張工事により墳丘北辺が削り取られ、その折、円筒埴輪の破片が出土したといわれ、円筒埴輪列をめぐらしていたと推定される。
この古墳は、三宅町の古墳のなかでは大きい部類に属する。




アンノ山古墳

 全長約40mの前方部を南東側に向けた前方後円墳。墳丘が大きく削平され、現在では畑になっている。





笹桙山古墳