市教委によれば、平野塚穴山古墳は約25~30m四方の二段式の方形の古墳(方墳)とされ、
これまでの調査で身分の高い人に使われる漆塗りの棺「夾紵(きょうちょ)棺」の破片などがみつ
かった。
出土した張り石は辺約15~30cmの方形の凝灰岩で、斜面の一部(2m四方)に残っていた。
少なくとも墳丘上段の表面を張り石で飾っていたとみられる。凝灰岩の石材を墳丘に張り巡らせ
る特徴は、斉明天皇陵との見方が強い同県明日香村の牽牛子塚古墳(国史跡) と、飛鳥時代後
半に律令国家づくりを進めた天武天皇と妻の持統天皇の合葬墓とされる野口墓古墳に限られる。
いずれも7世紀の天皇墓の特徴を示す八角形の古墳(八角墳)とされ、爽紵棺が安置されていた
可能性が高い。市教委は両古墳と共通した特徴から、平野塚穴山古墳の被葬者も天皇の一族
の可能性が高くなったとみる。
一方、古墳内部の石室の調査で、工具を差し入れて石材を動かした痕跡の「てこ穴」が確認さ
れた。てこ穴は奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)やキトラ古墳(同)でも確認
されている。市教委は、平野塚穴山古墳を手がけた石工の流れをくむ技術者が、高松塚などの
造営に関与した可能性が高いとみる。木下正史·東東京学芸大名誉教授(考古学)は「平野塚穴
山古墳が天皇の一族の墓の可能性が高まったことは、高松塚、キトラ両古墳の被葬者を天皇の
一族と考える根拠になるのではないか」と話す。
7世紀、飛鳥時代の天皇陵クラスの古墳だけに見られた凝灰岩の張り石が、政治の中心地だ
った飛鳥(奈良県明日香村など)から約15km離れた同県香芝市の平野塚穴山古墳(国史跡)で
みつかった。「天皇の一族級の墓か」という見方が一気に強まり、特徴が似ている高松塚古墳や
キトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)の被葬者論争にも影響を与えそうな勢いだ。
今回の調査で、古墳内部の埋葬施設にあたる石室の石材に、「てこ穴」があることが確認され
た。重い石を動かす金属のてこ棒をさし込むため、石の一部を削り込んだ穴で、高松塚古墳に
も同じ痕跡があった。奥田尚・奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)特別指導研究員は「てこで
石を1cm単位で調整した跡だ。 同じ系譜の工人が平野塚穴山古墳を原型に、高松塚とキトラを
築いたのだろう」とみる。
一 方、平野塚穴山古墳の被葬者像について、塚口義信・堺女子短大名誉学長(古代史)は「敏
達天皇(6世紀後半に在位)の孫である茅淳王の墓の可能性が高まった」と話す。「茅淳王の墓は
片岡葦田にある」という10世紀の法令集「延喜式」の記述がこの古墳一帯を示す、というのも根
拠のひとつだ。 白石太一郎·大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)も「茅淳王と考えること
もできそうだ」と指摘する。
平野塚穴山古墳の調査成果から、高松塚とキトラ両古墳の被葬者像に迫れないものか。飛鳥
を代表する二つの壁画古墳の被葬者をめぐっては、 皇子クラスの人物、あるいは黄文氏のよう
な渡来系の人物、また重臣級の豪族など諸説があり、決着はついていない。
古代史作品の多い漫画家の里中満智子さんは「天皇一族説の強まった平野塚穴田古墳から
てこ穴が見つかり、同じ特徴の高松塚とキトラも天皇一族説が更に濃厚になった」とし、奈良文化
財研究所の廣瀬覚・主任研究員(同)も「高松塚とキトラは天皇一族の墓と考えてきた。 逆に平野
塚穴山古墳も天皇一族の説が強まったのでは」と話す。
1972年の発掘調査を担当した泉森皎・元橿考研副所長(同)は「墳丘は土を何層にも突き固め
る『版築』工法で仕上げられたもの。天皇陵クラスの墓で、さぞ立派に見えたのでは」と話す。
大阪·奈良府県境の奈良県香芝市北部にある。一辺25~30m、
高さ5.4mで、2段に築かれた方墳と推定される。隣接する古墳
5基(6世紀後半~7世紀後半)とともに「平野古墳群」と呼ばれ、1、
2号墳には大型の横穴式石室が残る。その他3基は壊され、残っ
ていない
2019-6-26 朝日新聞