石上神宮 (いそのかみじんぐう)地図
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「石上 布留の神杉 神さぶる 恋をもわれは 更にするかも」と柿本人麻呂が歌う。布留というのがこのあたりの古い地名であり、 古代人にとって神霊の宿るかのような景色だったのであろう。 布留は神にかかる枕ことばである。この神宮は、石上坐布都御魂神社とも呼ばれ、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を主祭神とし、 累代物部氏が奉祀してきた。 祭神 布都御魂大神 布留御魂大神 布都斯御魂大神 何れも霊剣や神宝である。神名のフツとは物を断ち切る擬声音であることからもフツの神とは霊力のある刀剣の神であった。 古くから春日神社・大神神社・大和神社・飛鳥神社等と共に延喜式名神大社となっていた。 |
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御神体の布都御魂剣はもと建武雷之男神が出雲の国譲りの業を成し遂げられたときに佩(は)かせられた霊剣である。 神武天皇が東征して紀国から熊野に入ろうとしたとき全軍にわかに毒にあたって病み伏してしまった。 このとき建武雷之男神が熊野の土地神の高倉下(たかくらじ)に霊剣の平国之剣(くにむけのたち)を下した。 その結果、天皇、家臣は目覚め、邪霊を倒し、大和に入ることができたという。 天皇が、その霊剣を手にして、一振り、二振りされたときフッと神霊が流れた。 その神霊が布都(ふつ)であり、布留(ふる)の霊威となったという。 布都は、剣を振ったときの擬音フツであり、剣を振ると、異様な霊気が漂い、邪悪なものを打ち倒す霊力が放射される。 これが、布都の御霊と呼ばれる霊剣である。 天皇は深くこの神剣を尊び、都を橿原に定めてから、宮殿内にこれを奉安しておいたが、 崇神天皇のときはじめて祠を建てて祭ったのが当社の起源であるという。古く物部氏がその奉仕者となり、 物部氏は武をつかさどる氏族だったので朝廷の武器庫、天武庫(あめのほくら)もここにあった。 大和中の戦争道具を集めて物部氏という軍隊に守らせておけば、諸豪族の反乱を防ぐことができたのであろう。 |
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石上神宮は布留川の上流に位置し、下流に広がる布留地の水流をつかさどる祭場としてこの場所が選ばれた可能性がきわめて強い。 水流に沿った岸辺に、かなりの規模の祭祀遺跡が存在する。 「石上溝」と推定された溝からは土馬や馬歯など河の神に対しておこなった祭祀の跡も確認されている。 それは、5世紀代の古墳時代にはじまり、飛鳥・奈良時代まで続いている。 石上神宮の祭祀もこうした布留川の可辺の祭場としてはじまったと考えられている。 三輪山の祭祀遺跡が神奈備山、三輪山を信仰の対象としたのに対し、石上神宮にある祭祀は布留川の水の流れを信仰の対象とした。 物部氏と石上神宮の祭祀のかかわりは、日常的な祭祀のなかからは決して生まれてくるものではなかったであろう。 禁足地は石上の祭祀にとって、もともと存在したものではなく、人為的に設けられた囲いの地であった。 |
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楼門より拝殿へ | 拝殿(国宝) |
今も百済王から倭王に送られた七支刀をはじめ、多くの国宝や重要文化財を伝えている。 祟神帝が、兵器庫をたて、各豪族から兵器をさし出させて収納した。その後、兵器がふえ、後世桓武帝の時にこれらを京へ運んでしまったが、そのとき十四万七千の人夫を要したという。 |
昔は本殿がなく、禁足地が礼拝の対象だった。 この奥にある本殿は、石の瑞垣(みずがき)を巡らせた禁足地であり、大正2年拝殿奥の禁足地に造営された。古来、祭祀の中核であった。 神倉はもと拝殿の西側にあったが、本殿完成時に禁足地に移転した。 |
永保元年(1081年)に、白河天皇が鎮魂祭のために宮中の神嘉殿を移したといわれ、現存する拝殿としては、全国で最古の建造物である。入母屋造、檜皮葺、向拝付きの建物である。鎌倉時代に改修を受けている。石上神宮の拝殿は出雲建雄神社拝殿と合わせて 国宝の拝殿が二つあり全国でも珍しい。 奈良朝以前から神宮の号を使ったのは伊勢神宮と石上神宮だけである。 |
楼門(重文) | 出雲建雄神社拝殿(国宝) | 境内 |
1間1戸の門。重層、入母屋造り、桧皮葺。楼門の棟木に文保2年(1318)の墨書銘があり、鎌倉時代末期の建立で、柱はすべて円柱。もとは鐘楼門で、上層に梵鐘を吊るしていたが、明治初年神仏分離令により取り外された。 両脇に回廊が連なり、拝殿の斎庭を囲んでいる。 |
もと内山永久寺の鎮守・住吉神社の拝殿で(四所明神)、大正3年(1914)に移建された。石上神宮の摂社として、楼門前の石段を上がったところにある。 くわしく⇒ 2013−3−9 屋根が葺き替え修理される。檜皮葺きの寿命は一般に30〜40年。2ヵ年計画。 |
布留を拠点とする大豪族物部氏、後裔の石上氏の氏社である。祟神天皇の代に物部氏が神武東征伝説ゆかりの霊剣「布都御霊大神を奉納、祭主となったとされる。 別称に布留大明神、石上振神宮、石上布都御魂大神、などがあるが、一般に布留社、石上社と呼ばれてきた。 |
鏡池 | 大鳥居 |
うっそうとした杉木立にかこまれた鏡池は, 静かに水をたたえる。古くは石上池とよばれていた 鏡池に、奈良県指定天然記念物の淡水魚馬魚 (ワタカ)が 棲息している。 |
深い緑のなか、大鳥居をくぐり東に進む。 |
垂仁天皇の時に五十瓊敷命(いにしきのみこと)が川上宮で一千口の剣を作り、 が当社に納められた時に、春日一族の市河という者が神宝を管掌するようになったとも伝えられる。 市河の子孫は、物部首(おびと)という豪族になり、 後に布留宿禰(ふるのすくね)と改姓した。そして当社の祭祀に関与し続けた。 春日氏が三輪山の祭祀を取り入れるのが四世紀初頭で、春日氏の一族も当社の剣の管理にも携 わるようになったのが四世紀中葉であろう。 |
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物部氏は、500年代後半に、崇仏排仏論争で蘇我氏に敗れたが、物部連としては四家あった。 物部氏族内部においても熾烈な権力争いもあった。 物部 弓削守屋が滅んだことになり、弓削家も完全に滅んではいなかった。法王道鏡はその後裔とも 云われている。 |
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武臣である物部氏が祭祀にかかわるのは、古代の裁判に関係が深い。 古代の罪の裁きは、人が行うのではなく、神が裁く。神裁と呼ぶ。神はものを言わない。神裁を判じ 伝えるのがし祭祀者である。 神裁に服さない者があるとこれを罰しなければならないから、司祭官の物部氏は武力を持った。 司祭官と懲罰官を兼ねたのが古代の物部氏であった。 こうして、物部氏は大王家の祭祀を預かり、大王家の武臣として成長したと考えられている。 |
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1月15日は古神符焼納祭(とんど)は、参拝者が見守る中、宮司ら全員で大祓詞(おおはらえのことば) や、十種祓詞(とくさのはらえことば)が唱えられる。 |
石上布留の神杉神さびし と万葉集にうたわれた森の中にあるこの大社は布都御 魂剣を御神体として祭っています。 この古社は歴代天 皇の崇敬があつく、神庫には多くの武器が収められてい ます。 神功皇后の頃百済から献じられたという七支刀 もその一つで、国宝に指定されています。 |
神宮皇后摂政52年に百済の使者が献じた。 4世紀から5世紀の朝鮮半島の情勢は、高句麗に対抗する勢力として百済・ 伽耶と日本連合が形成されていた。 このような国際情勢が七支刀を日本にもたらしたのである。 |
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七支刀(しちしとう・ななつさやのたち・国宝)長さ74.9cm 剣身から左右にそれぞれ3本の枝を出すように作られた比類ない剣である。 両面にあわせて61文字が金線を埋めて文章を刻んでいる。その大意は369年に 百済の世子(太子)が倭王のためにこの七支刀をつくったと解釈されている。
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本殿の回りを囲む瑞垣(みずがき・瑞牆・水垣)。 石上神宮には、本来本殿がなく、拝殿の奥は足を踏み入れてはいけない「禁足地」であった。 神剣が埋められていると伝わる神域だった。石の水垣に囲まれ、「石上布留高庭」「御本地( ごほんち)」などとたたえられてきた。 |
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楼門に掲げてある木額「萬古猶新(ばんこゆうしん)は、山縣有朋の筆によるもの。 |
石上神宮鏡池ワタカについて。 一説には背中が馬の背に似ているため、 また他説では水草をよく食べるため、「馬魚(ばぎょ)」の名がある。 その他の説として、内山永久寺の池にある伝説⇒⇒⇒ |
東大寺鏡池棲息ワタカについて。 地図 |
古墳ロード・山の辺の道 ラジオウォークに向かう 上野誠・八木早希・青山茂・黛まどか |
石上神宮 |
石上神宮由緒 石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山の 西の麓、布留山(標高二六六メートル)の北西麓の 高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲 まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北 方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として 知られています。 当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟 梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも 特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・,除災招福・ 百事成就の守護神として信仰されてきました。 御祭神は、神武天皇御東征の砌(みぎり)、 布都御魂神社」等と記され、この他「石上社」「布留 社」とも呼ばれていました。蛇⇒⇒⇒ 平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬さ れ、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿を寄 進されたものと伝えています。 中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の 強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布 留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争し ました。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入によ の社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収さ れ衰微していきました。しかし、氏人たちの力強 信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理 が行われるに伴い、明治四年官幣大社に列し、同 十六年には神宮号復称が許されました。 当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の 禁足地を御本地と称し、その中央に主祭神が埋斎 され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治 七年菅政友大宮司により禁足地が発掘され、御 神体の出御を仰ぎ、大正二年御本殿が造営され ました。 禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石 瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。 |
饒速日尊 (にぎはやひ) | ||
天孫降臨の最大の問題 | 実際の神武東征 | 天降る神の原点 |
リョウサンの池 | 高倉下 | 陸の高皇産霊 海の天照 |
降臨 | 石上神宮 | 登弥神社 |
棚倉神社 | 辛国神社 | 石上について |
影媛の悲恋 | 年表前663年 | 影媛の悲恋物語 |
二種の天孫降臨 | 物部氏 古代豪族 | 磐余稚桜神社 |
布都御魂大神 | ふつのみたまのおおかみ | 布都御魂大神は出雲の国譲りの交渉に高天原から派遣された建武雷之男神が帯びていた剣であり、後に神武東征の折、熊野の神の毒気から蘇らせ(神武天皇はその霊剣を一振り、二振りされたときフッと神霊は流れた)、邪気をたいらげる。神武天皇がその功績を称えて 石上神宮の神宝とされる剣。
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布留御魂大神 | ふるのみたまのおおかみ | 天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)に宿られる霊威をたたえて布留御魂大神という。天璽十種瑞宝とは饒速日命が天降るときに持ってきた十種の神宝( 石上神宮は、古文献に振神宮(生命力を振起する)を行ったり、邪霊をはらう、鎮魂の祭(みたしずめ・11/22 17:00)儀が石上神宮の古い信仰の一つであった。
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布都斯御魂大神 | ふつしのみたまのおおかみ | 素戔嗚尊が八俣大蛇を退治したという
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垂仁天皇のとき、皇子イニシキノミコトが剣千口を奉納したのをはじめ、代々武器類の奉納も多く、諸国の武器もここに集められていった。 古来、神宮は物部氏が祭祀した。その氏神である。物部氏によって武器が管理された。 明治7年、禁足地から4世紀中期(弥生時代)にさかのぼる |
神体と祭神は異なる。大神神社では神体として三輪山があり祭神として大物主神が祀られる。 |
石上神宮並びに良因寺絵図 内地附近一帯が境内にて寺領も一町二段(一、二ha)あり 広荘な寺院であった。 僧正遍昭 この寺に一時住持していた遍昭は、桓武天皇の孫 に当り、良峯氏、俗名宗貞といい、時の帝に仕へ要職にあっ たが後、出家して遍昭と名乗る、在俗の時から和歌を好み 流麗歌人として、世に知られ (弘仁七年 八一六年生 寛平二年 八九0 年 没)入寂している 仙の一人である。法師も父去った後、この寺に住持しここ で大往生をとげている。 豊かで、六歌仙の中で唯一人の女性歌人なり。三十歳代の 頃宮仕へをやめた小町は、都より遥々この地、石上寺に詣で 遍昭を訪ね一夜の宿を乞わんとて詠んだロマンチックな歌が 残されている。 後撰和歌集巻十七に 石上という寺に詣でて日の暮れにけれ ば夜あけて罷り帰らむとてとどまりて この寺に遍昭侍りと人に告げ侍りけれ ば物いひ心みむとていで侍りける
いそのかみ旅寝をすればいと寒し 苔の衣をわれに借さなむ 遍昭 世をそむく苔の衣は一重 かさねばうとしいざふたりねむ |
石上神宮は古代から現代に生き る信仰の場である。戦国時代ある いは戦後の混乱期を経てきたが 信仰の地である禁足地は不動であ った。 ここは拝殿と本殿の間にはさま れた地で、中央には直径6mほど の土饅頭があった。明治7年に発 掘がおこなわれ、鉄鉾や剣、勾玉、 管玉などが夥しく出土した。 禁足地から出土した鉄剣こそ神剣 であろうと考えられた。これらは 4〜5世紀の古墳時代に共通する 遺品であり、禁足地の起源、ひい ては石上神宮の成立時期を推定す る有力な歴史資料である。また、 神宮では神庫(ほくら)において伝世 |
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