紀寺跡(きでら)地図
小山廃寺

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伽藍配置比較⇒⇒⇒
伽藍の配置は、二つの門・金堂・講堂が南北一直線に並び、回廊は中門
から講堂に取り付いて、金堂を囲む形となっている。
塔は明治の初めごろまで心礎が残っていたようで、金堂の前面の東側
にあったと考えられる。
このことから大官大寺に似ているが、塔をわざわざ中軸からはずしている
ことから、西側にも塔を建てる計画があったともおもわれる。それであれば、
本薬師寺式になる可能性をも残しているといえよう。
紀寺跡は、藤原京左京八条一坊に位置する。昭和四十年の発掘調査で、
金堂跡、講堂跡、中門跡、南大門跡、回廊跡、東西・東面の大垣、
寺域南側の道路などが確認された。

創建時(七世紀後半期)の瓦は、雷文縁軒丸瓦(らいもんえんのきまるがわら)・
重弧文軒平瓦(じゅうこもんのきへらがわら)で、この組合わせを「紀寺式軒瓦」
と呼んでいる。

飛鳥・藤原の寺⇒⇒⇒
小山廃寺

明日香村小山の古代寺院跡「小山廃寺」は天武天皇時代の官寺(国立寺

院)である大官大寺(高市大寺)だきだった、との説を森郁夫・帝塚山大教授

(帝塚山考古学研究所長)が近刊の東京国博物館研究誌『MUSEUM 』594号
に発表した。小山廃寺は1973年に発掘され、小字名が
「キテラ」だったため、
古代豪族の紀氏の氏寺だったとの説が強いが、明
確な裏付けはない。93年
に紀寺跡として県指定史跡になっている。

 森所長は東京国立博物館が所蔵する小山廃寺出土の軒瓦20点を調べた。

このうち、直径18 . 7cmの軒丸瓦は鋸歯文(のこぎりの歯形の文様)と複
蓮華文(複弁のハスの
花の文様)が施され、藤原宮跡から出土した軒丸瓦と
同じ型から作られて
いた。唐草文の軒平瓦3点も藤原宮跡のと同型だった。

 一方、小山廃寺からは雷文と呼ばれる文様を縁にめぐらせた7世紀後半

の軒瓦も出土。京都府南部の7世紀後半の複数の寺院跡からは、小山廃寺

系の雷文の軒瓦と、官寺である飛鳥の川原寺系の軒瓦が寺ごとに分かれて

出土しており、森所長は「小山廃寺は氏寺ではなく、大きな影響力を持っ
官寺の可能性が高い」
と主張していた。東京国立博物館の所蔵瓦は、小
廃寺が藤原宮の製品を
使える立場にあったことを物語っており、官寺の可能
性はいっそう高まっ
たと指摘する。

 大官大寺は平城京に移って大安寺となる。奈良時代の大安寺資財帳(縁

起と財産目録)によると、最初の官寺だった舒明天皇発願の百済大寺(桜井
市の吉備池廃寺と
される)が673 (天武2)年に高市郡に移って高市大寺となり、
677
(天武6)年に大官大寺(天武朝大官大寺)と号した。さらに7世紀末か
8世紀初めの文武朝時
代に壮大な伽藍が整備されたという。

 一方、小山廃寺の南東約800mにある国史跡・大官大寺跡の発掘では、
文武朝時代の遺構し
か見つからず、天武朝大官大寺がどこにあったの
が問題になった。

 森所長が小山廃寺を天武朝大官大寺とする理由は、出土する軒瓦の年代

が7世紀後半で、川原寺や薬師寺など当時の他の官寺の瓦の様式とは異な

っているためだ。

 だが、小山廃寺の伽藍は中門から講堂にとりつく回廊の中に金堂がある

だけ。大官大寺は「おおきつかさのおおでら」と呼ばれ、文武朝大官大寺
遺構は名前にふさわし
い壮大な伽藍だった。小山廃寺は見劣りするため、
藤原京(694〜7
10)の紀寺説も有力だ。

 森所長は 藤原京の紀寺とすると、雷文の瓦の年代が20年も古く、時代
合わない。小山廃寺は
大官大寺と呼ぶには確かに規模が小さいが、まさ
それが理由となって、
文武朝に新たに大官大寺を建立したのではないか」と
述べている。2005−3−4  朝日新聞