本薬師寺跡 (もとやくしじあと)地図
金堂の礎石が残る。 | ||||||||||
本薬師寺は、「日本書紀」によると、天武九年(680)に天武天皇が皇后(持統天皇)の 病気平癒を祈念して発願された寺です。 寺の建立が開始された時期は不明ですが、完成をみずして6年後の朱鳥元年(686) 天武天皇崩御する。 そのため、かわって天武天皇の追善供養的な性格をもち、持統天皇に引き継がれた。 持統十一年七月には仏像の開眼供養が行われている。 翌年の文武二年(698)に伽藍はほぼ完成したと伝えられています。 そして、完成から20年の後には平城の都に移建された。(2016-12-19 平城京の薬師寺 東塔は年輪年代測定で新築されたことが判明した。 平城京遷都で西の京にあらためて薬師寺を建てたため、本薬師寺と呼ばれるようになった。
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「従来は堂塔の位置関係や、礎石配置が平城の薬師寺と一致することから移建説が 有力視されていましたが、発掘調査により一部の堂塔は移建されないまま、 旧地に残っていた可能性があると判明しました。」 |
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本薬師寺跡の伽藍の特徴は、金堂の前面に塔が東西対称に並び立つ、「双塔式」であ ることで、双塔式の伽藍として、日本で最古級の事例。 金堂跡は、基壇上に礎石が19基残っており、そのうち|4基が元の位置を保っていると考え られている(本来は全体で36基)。花崗岩の礎石は、平面四角形の柱座を彫り出したとても 精巧なもの。 東塔跡には17基中16基の礎石が残されている。中心にある心礎には3段に円形の舎利孔 が彫り込まれている。一方、西塔跡の心礎に舎利孔はなく、礎石の上面には出柄が彫り出 されている。 |
本薬師寺 |
伽藍配置復元図 | ||
本薬師寺の位置 | 伽藍配置比較⇒⇒⇒ | 藤原京に浮かぶ右大官大寺、左本薬師寺。 (橿原市藤原京資料室より) |
伽藍は中心に金堂、その前面、左右対称に東、西塔を配置し、南に中門を開き、その両翼から回廊を巡らせ、 金堂北側の講堂に取付くいわゆる薬師寺式伽藍配置と呼ばれるものです。 金堂、塔の基壇規模やその配置の距離まで平城の薬師寺とおなじで、往時の盛観を想像できる。 |
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「寺域は藤原京右京八条三坊を占めていましたが、平城京遷都に伴い、 養老二年(718)に平城京右京六条二坊に移転されたことが「薬師寺長和縁起」によって知ることができます。 「中右記」によると、寺が移転した後も、平安時代中頃まで伽藍の存在が確認できます。 また、この頃には平城京の薬師寺に対して本薬師寺と呼び、区別するようになりました。」 |
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「発掘調査は、1976年の寺域西南隅での調査に始まり、金堂・東塔・西塔・中門・回廊の一部で行われた。 金堂・東塔・西塔は、基壇等の規模が平城の薬師寺とほぼ同じである一方、中門・回廊は、 規模・構造ともに異なることが明らかになりました。 伽藍の造営は金堂に始まり、続いて東塔・中門・回廊、更に遅れて西塔の順に行われたことが分かりました。」 |
西塔跡 | 東塔跡 |
毎年初夏に本薬師寺跡周辺の休耕田にホテイアオイを植えている。 1.4ヘクタール広さに50万本の数もある。 涼しげな薄紫色の花が広がる時期は、8月下旬から9月上旬にかけて見ごろを迎える。 東西両共塔基壇が残っている。 塔心礎について石光寺⇒ |
西塔跡、奥は畝傍山 | 東塔跡 |
本薬師寺跡、藤原京右京八条三坊発掘調査 現地見学会 令和6年3月2日(土) |
【今回の発掘調査成果】 今回の調査では南門の南東コーナー部を良好な状態で検出することができました。 調査地点ては南門基壇の外周を巡る石敷が直角に屈折しています。石敷の幅は基 壇の東側・南側ともに約 3.3mです。石敷内には幅約60cm•深さ5cmの雨落溝 (建物 の軒先から落ちる雨水を受ける溝)が構築されています。南門南東隅柱から雨落溝ま ての距離は4m近くあり、大型の建物であったことがうかがえます。 南門基壇の南東隅の位置を明確にできたことで、平成30年度調査で確認した南門の 礎石痕は南妻列のものであったことが判明しました。また、南門と中門の間隔が 平城薬師寺よりも約7m狭いことも分かりました。本薬師寺から平城薬師寺への変遷過 程が、またひとつ明らかになったのです。今回の調査によって、本薬師寺についての新 たな知見を得ることが'できました。古代寺院史を研究する上での貴重な成果と言えます。 説明会資料より |
【これまでの調査で明らかになっている本薬師寺の姿】 本薬師寺の伽藍は奈良文化財研究所によって実施された発掘調査によって 多くの成果があがっておリ、その一部を紹介します。金堂や塔からは奈良時代 や平安時代の瓦も出土したことから、修理を行いつつ平安時代まで本薬師寺 に堂塔が残っていたことが明らかとなりました。これにより、平城薬師寺の建物 は本薬師寺から移築したのではなく新たに建てられた可能性が高くなりました。 地下に遺構が残されていた中門および回廊の構造は、平城薬師寺とは異なる ものでした。 これらの伽藍が存在する範囲は、国の特別史跡に指定されています。平成30 年度に史跡指定地の南隣の地点で檀原市が実施した調査では、新たに南門の 存在が確認されました。南門は寺院の正面入口にあたる施設、つまり正門です。 南門の桁行は東西約 I5m(桁行3間•|7尺等間か)と非常に大型で、藤原京以前 の寺院南門としては最大です。南門基壇は東西長 19.8mを測り、基壇の外側 には人頭大程度の河原石を敷き詰めた石敷 (玉石敷)が巡らされています。 本薬師寺の南門は藤原宮の主要門に見られる桁行 17尺等間の構造を採用 した大型の建物です。まさに国家寺院にふさわしい立派な正門です。藤原京の 時代に続く奈良時代には、寺院の南門が大型化していきますが、本薬師寺はそ の先駆け的存在です。 説明会資料より |
発掘現場 奥の山は畝傍山 | 発掘説明現場 |
本殿神社地図
鷺栖神社地図
ひさかたの 天知らしぬる 君ゆえに 日月も知らず 恋ひ渡るかも 今は、薨去(こうきょ)されて天をお治めになって しまった高市皇子であるのに、月目の 流れ去るのも知らす、いつまでも恋い 慕いつづけるわれわれである。 |
反歌に当たる200番歌。 高市皇子の挽歌巻2-199⇒ |
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