文武天皇 大官大寺跡(だいかんだいじ)地図

塔は九重塔
 雷丘の北東およそ600mにある大官大寺では、
平城遷都後にも造営が続けられたが、和銅4年(
711)に焼失した。
 大官大寺の塔は九重で、その高さは100mに及んだ。
九重塔は国内唯一であり、高さも大官大寺の辺りの海抜は
90mあり合計すると180mの高さになる。天香具山が152m
あるが、相輪を差し引いても高さとして並ぶものであった。
 基壇の周囲には外装はなく、多量の焼土や焼けた瓦が
堆積し、塔を飾った風鐸の一部なども出土した。
 塔は、本体がほぼできあがり最後の基壇の外装工事
に入る前に被災した。
九重塔があった寺は、百済大寺高市大寺・大官大寺の三か所。 

 大官大寺の規模は、回廊で囲まれる範囲で示すと、東西144m、

南北195mの大きさになる。
東大寺の創立当初の回廊規模とほぼ同じであり、大官大寺は文

字通り、飛鳥最大の寺院であった。 

 

天をつく九重の巨塔

 大官大寺の塔跡は、九重塔の規模を今に伝える。復原すると高さ

約68m。その姿は、藤原京でひときわ目をひいたことだろう。

大官大寺炎上

 和銅4年(711)、大官大寺が炎上した。『扶桑略記』が伝える不吉

な事件。それが、1300年近くたって発掘によって証明された。焼け

落ちた金堂の屋根が大地に突き刺さった跡が見つかったのだ。轟音

とともに舞い散る火の粉。建立からわずか十年あまり。回廊などは

まだ未完成だった。

 猛火にゆがんだ瓦もみつかった。それは、ただ見つめるしかすべ

のなかった、当時の人々の表情のようだ。

 1300年前の首都 これが藤原京だ
奈良国立文化財研究所 飛鳥藤原京跡発掘調査部より  

 動画   平城宮
 大極殿の風鐸(ふうたく)⇒⇒⇒
 
   
  平城京に造営された大官大寺跡。完成を見ることなく焼失した。
もう一つの大官大寺に就いて⇒
及び百済大寺⇒
史蹟大官大寺阯  藤原京に浮かぶ右大官大寺左本薬師寺
(橿原市藤原京資料室より)
大官大寺塔址地
 大官大寺跡は香久山の真南、田園にある。聖徳太子が平群(へぐり)地に熊凝精舎(くまごりしょうじゃ=学問修行の道場)を建て、舒明天皇のとき、百済川べりに移して百済大寺となり、のちに天武天皇二年(674)ここに移して高市大寺となり、天皇の寺という意味の大官大寺に改称された。
 しかし、発掘調査の結果、文武朝のものであることが確認され、天武朝の高市大寺は別の場所にあったことになる。大官大寺は官寺として威容を誇ったが、平城遷都とともに平城宮に移り、大安寺と改称された。もとの寺は和銅4年(711)藤原京とともに(平城遷都の翌年に)焼失し、現在は塔の土壇を残すのみとなった。
崇仏・排仏 小山廃寺  飛鳥四大寺について 大官大寺  
大官大寺について  東アジア塔の規模  飛鳥以前 百済大寺 
百済   飛鳥の歴史 調査と保護の歩み  藤原京   2つの大官大寺  
地光寺跡        
 礎石も橿原神宮を建てるとき運び去られ、土壇が残る。塔は五間四方、金堂は正面九間の大堂とされる。
伽藍配置は、中門、金堂、講堂が一列にならび、金堂の東南に塔を配置している。中門からでた回廊は塔を囲んで金堂の両翼にとりつくが、講堂にはとりつかず、北面を大きく囲む形態である。また、金堂と講堂は同じ大きさに築かれ、藤原宮や平城宮の大極殿に匹敵する規模であった。
 藤原京遷都直前の持統6年(692)、全国には545ヵ寺があり、もちろん京内にも多くの寺があった。なかでも、大官大寺と薬師寺は国立の大寺院として、左京と右京とに相対して造営された。国立の大寺が京内に計画的に配置されたのは、藤原京が最初である。
 仏教政策が大々的にはじまるのが天武帝(在位672〜686)の御代である。それは帝が大友皇子との争いにおいて、一時、僧になって吉野に身を隠していたことも関係をもつかもしれないが、それ以上に、天武帝の政策が行きすぎた大化改新(645)以後の政策を正常な形に戻そうとしたとこにあったことに原因しているのであろう。
 この天武帝が、誰よりも仏教に着目した。もはや仏教は、日本にとって単なる外来の教えではなく、日本の体質になっている。それゆえ、従来のように政治が仏教にたいして消極的であってはならない。仏教政策を国家政策にとり入れねばならない。こう考えて、天武帝がまずはじめたのが大官大寺の建設であった。
 このことは、従来、蘇我氏の支配下にあった仏教を天皇の手に収めることを意味する。蘇我氏は飛鳥寺を中心として仏教を掌握していた。この飛鳥寺中心の仏教を、大官大寺中心の仏教に切りかえねばならない。そこで登用されたのが、外国留学を終えた僧か、新に外国から来た僧である。
 大官大寺を国家の中心の寺とし、天皇家のもとに仏教を掌握しようとする政策は、順次進展していった。国家が必要と認めた食封が増され、国家が必要と認めなかった寺の食封は減らされる。従来、蘇我氏および蘇我氏の息のかかった天皇によってなされた寺の格づけの再検討である。
 またこの時「諸寺の名を定む」とある。日本の寺は、それまで多くの名で呼ばれていた。飛鳥にあるから飛鳥寺、川原にあるから川原寺、斑鳩にあるから斑鳩寺というふうにである。おそらく、寺の名は大官大寺という官立大寺の成立と共に定められてくるのであろう。そして、国家に定められた名はその寺に国家によって与えられた役割をどこかで示しているのであろう。飛鳥寺が法興寺と名づけられたのもその頃ではないかとおもわれるが、法興寺とはうまく名づけたものでである。法、すなわち仏法を興した寺である。蘇我氏によって仏教は興されたが、今は官の、大官の支配の下に仏教があるというのであろう。
 天武九年四月には詔が出ている。これは、全くはっきりした仏教の国家統制である。ここではっきり、官立の寺と、私立の寺を区別して、私立の寺の食封を三十年に限ろうとしている。三十年というのは、既存の権利を主張する寺院にたいする一種の妥協策であろう。
 
 薬師寺はこのときまだ出来ていなかったと思われるが、飛鳥寺にたいするあつかい方はまことに興味深い。
 飛鳥寺は、本来私寺なのである。本来私立の寺であるべきものが、過去において官立なみの扱いをうけてきた。その上、功があったというのである。功とは、例の蘇我氏討伐のクーデターのとき中大兄皇子がこの寺を根拠地としたことや、壬申の乱に大伴吹負(ふけい)がこの寺によったことを意味するといわれる。それで、本来私立であるべき寺を官寺なみに待遇せよというのであろう。このへんに、天武帝の蘇我仏教にたいする微妙な心づかいがある。本来、官寺は、大官大寺と川原寺のみのはずであるが、ここに凖官寺として、飛鳥寺が同格の扱いをうけることになる。
 天武帝の仏教政策は、はっきりと、従来蘇我氏によって把握されていた仏教を天皇の手にとりもどすことであった。しかしそれは慎重に行われねばならない。そのために、蘇我仏教の中心寺である飛鳥寺にしかるべき礼を尽くして、その権力を大官大寺の方に移譲させねばならないのだ。天武帝の仏教政策の中心は、正にこの点にあったように思われる。

梅原猛 隠された十字架 より
 
 大官大寺は711年、大火災により 金堂、講堂、塔、中門、回廊など主要伽

藍が焼失した。この時点で完成していたのは金堂と講堂のみで、塔、中門は
建設中であった。

 大官大寺は平城遷都とともに三度目の移転が行われ、平城京 大安寺と

して現在も法灯を継いる。聖武天皇によ東大寺が建立されるまで、国家の
筆頭寺院の地位を占めていた。

そびえたつ九重塔

 大官大寺跡には一辺約24mの巨大な塔基壇跡が残されており、高さ80m余り
の九重塔の存在が推定されている。九重塔は北魏永寧寺、百済弥勒寺、
新羅皇龍寺など当時の東アジア諸国の国家寺院に採用された象徴的な建物で
ある。藤原宮大極殿と同規模の巨大な金堂と合わせて、国家鎮護を担った第一
の寺院の偉容を示していた。


































天香具山 耳成山 本薬師寺 大官大寺 藤原宮 天香具山 藤原京