大阪城

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大手口枡形の巨石

枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、

敵の進入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩にとも

なって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口桝形で

は城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をく

ぐって正面に位置する大手見付石【おおてみつけいし】は、表面

積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手

二番石【おおてにばんいし】は約23畳敷(37.90平方メートル)

で第5位、右の大手三番石【おおてさんばんいし】は約22畳敷

(35.82平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の

小豆島【しょうどしま】と推定されている。現存する大阪城の遺

構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約10年

にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を

受けた諸大名が分担して築いた。この個所は当初肥後熊本藩主加

藤忠広【かとうただひろ】が築き、のちに筑後久留米藩主有馬豊

氏【ありまとようじ】が改築した。

 
秀頼 淀殿自刃の地 地図

慶長20年( 1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月

8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸

にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている

それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市

の手によりこの記念碑が建てられた.。  

 

秀頼·・淀殿ら自刃の地

Place where Hideyori Toyotomi and Yodo-dono comitted suicide

慶長20年(元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月

8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸

にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。

秀頼の首塚⇒ 
  動画      大阪城の噴水⇒⇒⇒
大阪城⇒⇒⇒
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野崎観音慈眼禅寺地図
     
     
 
   
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近松門左衛門⇒⇒⇒ 







































お初天神地図
   
 元禄十六年( 一七○三年)四月七日,堂島新地天満屋の遊女「お初」
と内本町平野屋の手代
兵衛」が当社「天神の森」にて情死する事件が起

こった。これを近松門左衛門が『曾根崎心中」として劇化、
大評判になり当社にも参詣回向の老
若男女が大勢押しかけた。
以後、人々は当社を
「お初天神」と通称するようになった。 

 

露天神社由緒略記


少彦名大神  ,水天宮

大己貴大神   金刀比羅宮

天照皇大神   開運稲荷神社

豊受姫大神   (境外地)

菅原道真公   夕日神明社碑


社伝によれば、創建は壱千百有余年を遡り、文徳天皇の御代,嘉祥三

年(850年)に定め給いし「難波八十島祭」の旧蹟にも数えられ、「住吉

住地曽祢神」を祀ると伝えられる。往地此の地は曽根洲と称する孤島に

て、曽根洲、後の曽根崎の地名はこの御神名より起こる。

平安期、渡辺十郎源契来たりて入植せしより,渡辺氏一族を始め移植

の民次第に増し、曽根崎村へと発展し、当社も産主神「曽根崎天神」と

て尊崇された。現在も梅田、曽根崎地区の鎮守として信仰を集めている。

昌泰四年(901年)菅原道真公筑紫に左遷配流の途次,当地を過ぎ

給う砌、境内の草木露深ければ

   
    露と散る 涙に袖は朽ちにけり
    都のことを 想い出づれば

と詠ぜられ,菅公太宰府にて御他界の後、その遺徳を偲び奉り合祀し

右の御歌より「露ノ天神社」と称する。 (社名の由来その他諸説有り)

   
       
 

曾根崎心中ゆかりの碑

此世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふればあだしが原の道の霜一足づつに消えて行く。

夢の夢こそあはれなれ。

あれ敦ふれば暁の。七つの時が六つ鳴りて残るひとつが今生の 鐘のひびきの聞きをさめ。

寂滅為楽とひびくなり。

 中略

誰が告ぐるとは曾根崎の森の下風音に聞え。取伝へ貴賤群集の回向の種。

未来成仏疑ひなき恋の。手本となりにけり。  近松門左衛門作「曾根崎心中」より

元禄十六年四月七日、堂島新地天満屋抱えの「お初」と内本町平野屋手代「徳兵衛」が、当社天神の森にて情死し、

近松門左衛門により「曾根崎心中」として劇化され、歴史に残る大成功をおさめた。

以後当社が「お初天神」と通称されるに至る所以である。


近松の名文により、広く民衆の涙を誘うこの作品は、そ
の後も幾度となく繰返し上演され、今日でも人々の回向が

絶えず、恋の成就を願う若人が数多く参拝される。

此の碑は, 「曾根崎心中 お初 徳兵衛 ゆ リの地」として、恋に殉じた二人を哀れみ、有志により建立されしもの也。  

 
 

かつてお初と徳兵衛の二人が永遠の

愛を誓ったこの地お初天神が、二0一

三年に恋人の聖地に選定されました。

恋天の聖地は、官公庁後援のもと、

NPO法人地域活性化支援センターが、

地域を代表する公共性を有する観光

施設などを中心に,プロポーズにふさ

わしいロマンティックなスポットを

選定しているものです。

全国で123ヶ所(二〇一三年現在)、そ

のうち大阪市内では当所、お初天神の

ほか,同北区「梅田スカイビル/空中

庭園展望台」が選定されています。 

   

<此の世のなごり。夜もなごり。
死にに行く身をたとふ
ればあだしが原の道の霜.一足づつに消えて行く。
夢の夢
こそ哀れなれ>

お初徳兵衛が曽根崎へ向か道行だ。七五調で始まる名文でクライマックスに導く。

現在のJR大阪駅南西にあった堂島新地の遊郭「天満屋」を夜、
抜け出した二人はまず
北に向かい、当時、東西方向に流れていた
蜆川(曽根崎
川)に架かる梅田橋を渡った。

川より南の方には多くの商人が暮らす船場もあり、
夜中
でも人に会う恐れがあった。

お初は下級遊女、徳兵衛も手代に過ぎず、
二人の恋は許さ
れるものではなかったのだ。

対岸から堂島新地を眺めると2階の客と遊女が行灯の影になって揺れて見え、
「明
日は私たちのうわさがされるだろうか」と思い巡らす「近松は実際に歩き、
取材
したのだろう。
この描写の生
々しさが当時の人々に受け、名もない二人の物語が一世を風靡。
後世に残った」と、「な
にわの語りべ」の栗本智代

大阪ガスエネルギー文化研究所主席研究員はいう。
この後のコースについては記述がないが、研究者らは、
田んぼや菜の花畑が広
がる川の北側を東へ進んだと推定する。
そのまま東に行
けば曽根崎の心中現場だが,二人は北側に大きく迂回し、
曽根崎村の集落を避けただろう。

栗本主席研究員は「途中で捕まると心中できなくなる。

来世で結ばれると信じた二人だから、見つかるわけにはいかなかった」
と説明する。

村の東の外れに露天神があり、裏手が天神の森。そこで明け方、
二人はともに死ぬ。

ただどうしてそこを選んだのか,作品は語らない。

「曽根崎心中」のプロログはお初の「大坂三十三番観音廻り」。
最初に訪れるのが
太融寺(大阪市北区)で、ここは露天神に近く、身を隠せ

る森があることを、お初は知ることになったのだろう。

露天神の吉沢克規宮司( 61 )によると江戸時代、
境内の茶
店で休憩する遊女が多く、お初がそんな一人だった可能性もある。

「最期は神仏のそばでという気持ちで、人目につかない天神の森を選んだ」と、
井上
勝志,神戸女子大教授(日本近世文学)は推測する。

二人があの世に旅立った露天神は、いつの頃からか「お初天神」と呼ばれるが、
森は
なくなり、繁華街になった。 

お初について近松門左衛門は、顔佳花(かおよばな)の別名もあるカキツバタに例え、
咲き始めの初花のような
々しさを強調した。徳兵衛も「雛男」,つまりひな人形のように

色白の優男で、しかも世情や人情に通じ、あか抜けた、粋な男として描いた。

お初19歳、徳兵衛25歳の美男美女カップルだ。

しかし作家、水上勉は「弱気者の徳兵衛は主人に返すべき金の才覚もなければ、
九平次に文句をいって奸計を破ってみせる手だて
もない。
現代人から考えると、い
たって善人で、まの抜けた阿呆男の一語につきよう。
そのような男
にお初は惚れたのである」と手厳しい。そのうえで、
「恋に生きる
ためには死にいそがねばならぬという行為の純粋さが心を打つのだ」
(「近松物語の女たち」)と
評価した。

近松作品をモチーフにした作品がある劇作家、わかぎゑふさんは,
「お初には死ぬ必要がなかったのだが、頼んないけどええ男の徳兵衛と幸せに
なるために死を選んだ
のだろう。この心中はお初がリードした
恋した女のパワーはそれ
ほどすごい」とみる。

2015-6-9  読売新聞

近松門左衛門⇒⇒⇒ 
お初と徳兵衛の物語
       
1、

醤油屋の手代 徳兵衛と、遊女のお初は恋し合う仲であった。物語は、徳

兵衛とお初が生玉の社で久しぶりに偶然出会うシーンから始まる。便りの

ないことを責めるお初に、徳兵衛は会えない間に自分は大変な目にあった

のだと語る。

3、

徳兵衛とお初の前に九平次が現れる。同時に、お初は喧嘩に巻き込まれる

のを恐れた客に連れ去られる。徳兵衛は、九平次に返済を迫るが、九平

次は証文まであるものを「借金など知らぬ」と逆に徳兵衛を公衆の面前で詐

欺師呼ばわりしたうえ散々に殴りつけ、面目を失わせる。兄弟と呼べるほ

ど信じていた男の手酷い裏切りであったが、死んで身の証を立てるより他

に身の潔白を証明し名誉を回復する手段が徳兵衛にはなかった。

2、

徳兵衛は、実の叔父の家で丁稚奉公をしてきた。誠実に働くことから信頼

を得て、店主の姪と結婚させて店を持たせようという話が出てきた。徳兵

衛はお初がいるからと断ったが、叔父のほうは徳兵衛が知らないうちに徳

兵衛の継母相手に結納まで済ませてしまう。固辞する徳兵衛に叔父は怒り

とうとう勘当を言い渡す。その中身は商売などさせない、大阪から出て行け、

付け払いで買った服の代金を7日以内に返せというものであった。徳兵衛は

やっとのことで継母から結納金を取り返すが、どうしても金が要るという

友人·九平次に3日限りの約束でその金を貸す。

4、

徳兵衛は覚悟を決め、密かにお初のもとを訪れる。お初は、他の人に見つかっ

ては大変と徳兵衛を縁の下に隠す。そこへ九平次が客としてお初のもとを

訪れるが、素気無くされ徳兵衛の悪口をいいつつ帰る徳兵衛は縁の下で

怒りにこぶしを震わせつつ、お初に死ぬ覚悟を伝える。真夜中、お初と徳

兵衛は手を取り合い、露天神の森へ行く。互いを連理の松の木に縛り覚悟

を確かめ合うと徳兵衛は脇差でお初の命を奪い、自らも命を絶つ。