船岡山地図
山頂からの眺め 大文字・妙法・船形・左大文字が見え、京都の中心街が見渡せる。 |
平安時代には、都の北の守護神「玄武」に擬せられた。 | |
応仁の乱では、戦略上の要衝として陣地が築かれた。 | |
船形山は国指定史跡。名前は、形が舟を伏せた形に似 ていることに由来する。 |
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神が降臨する山として山頂には太古の祭祀遺 跡である巨石磐座がある。 |
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垣武天皇は、この磐座を悪鬼封じのひとつとした。 松木立の美しい船岡山は、平安貴族の遊が場で 「岡は船岡」と清少納言も賞賛した。平安中期 から麓は葬送の場(連合野)となり、保元の乱 (1156)では、源為義、頼仲父子が前首された。 西軍の要塞船岡山 中世の応仁の乱(1467〜77)の基点。山名宗全 の西軍の要塞と化し、戦火は都を焼き尽し、 西陣の名のみ残した。 |
左 「大」文字 |
妙法 | 船形 |
織田信長を祀った建勲神社から山頂へ入る |
史跡 船岡山 船岡山は標高112m、面積2万5千坪の優美な小山である。今より1200年の昔、京都に都が定められる際、船岡山が北の基点となり、この山の真南が、大極殿・朱雀大路となった。 これは、陰陽五行思想・風水思想に基づいて、船岡山は大地の気が溢れ出る弦武の小山であるとされたためである。 平安京建設に当たって、その中心線となる朱雀大路が船岡山と甘南備山を結ぶ線上に決められたとつたえられている。経度では船岡山から甘南山はほぼ真南に位置し、三角点の約50m東下に白石があり、この石の太陽の光の反射によって目印となった。 船岡山 三角点 北緯 35°02′08″.756 東経 135°44′40″.417 甘南備山 三角点 北緯 34°48′44″.273 東経 135°44′26″.029 |
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平安朝の昔には、清少納言が枕草子で「岡は船岡・・・」と讃え、又、清原元輔・藤原俊成等、多くの和歌が残されている。 船岡山は平安京の人々が若菜摘み、わらび採りに興じるまさに、清遊の地であった。 源平の戦いのさきがけともなった保元の乱(保元元年1156、京都に起こった内乱。後白河天皇と崇徳上皇の争い)は、この船岡山に源義朝兄弟の悲劇の物語をのこしている。平清盛とともに天皇制に加わった義朝が、崇徳上皇に味方した父為義を討ち、4人の弟をここで切ったのである。 戦国時代の応仁の乱の際、この船岡山が西軍の陣地になり、船岡山周辺一帯はその後、。西陣の名で呼ばれている。 この戦国の世を統一して太平の世を開いた織田信長が本能寺の変で没すると、豊臣秀吉は時の正親町天皇の勅許を得て、主君信長公の御魂を、この船岡山に祀ろうとした。 以来船岡山は、信長公の大切な地として伝えられ、明治2年、明治天皇がここに建勲神社を創建された。 |
平安期にもステイホーム |