紫雲山 葛井寺(ふじい)地図
辛国神社(からくに)地図
野中寺(やちゅう)地図
アイセルシュラホール地図

 
 葛井寺は、7世紀代に葛井氏の氏寺として建立されたと考えられる。
その後、荒廃した時期もあったが、何度か修理や改築を経て現在に至っている。
 当寺所蔵する室町時代の「葛井寺参詣曼陀羅」には堂塔は、
薬師寺式伽藍配置として描かれており、
創建時にも同様の伽藍配置を取っていたものと推定される。境内に残された、
塔心礎をはじめとしたいくつかの礎石に当時の名残をとどめている。
 本尊は脱活乾漆造りの本尊十一面千手観音菩薩坐像(国宝)で芸術的にも優れ、
天平時代の代表的な仏像である。
 氏寺は、豪族の衰退と共に荒廃し廃寺となっていくのが一般的であが、
十一面千手観音菩薩坐像のような素晴らしい仏像を所蔵したことによって、
信仰が生まれ、信仰心の力によって寺が存続し、今日に至っている。
 非常時に於ける十一面千手観音菩薩坐像の持ち出しは、
代々どの部分を持ち出すか各家毎に決まっていた。
この代々非常時持ち出し制度によって、何度かの焼失から免れることができた。
 寺が焼失した時に十一面千手観音菩薩坐像の保管場所に困ることになるが、
逆手に取って、台八車に乗せて全国を巡回し資金を集め、寺の再興を図った。
 現在は国の関与により、保管にも一定の決まりがあるところであるが、
非常時に持ち出しできる脱出戸はなく、それに伴い持ち出し制度もなくなった。
今日まで受け継いだ1300年の実績、今後とも無事に存続することを願うばかりである。 
 拝観の手引き⇒⇒⇒
本堂
概要と特徴
 稽文会・稽首勲の父子によって刻まれた本尊は実際に千本の手があり、
天平時代の乾漆造りで国宝。毎月18日開帳。 
   
 大師堂と修行大師像  
四脚門(西門・重文)
楼門(南門)
 河内の王朝(近つ飛鳥)は渡来者らによって発展し当寺の歴史も百済の王族・王仁氏の渡来が始まりである。
王仁の子孫・辰孫王・・・王味沙の系統により継がれ、王味沙が白猪連と改姓(欽明天皇30年570)更に葛井と改姓
(養老4年720)する。
この一族は新しい文化をもたらし、その実績が認められ広大な地を賜り、その地に寺の建立が始まった。
一方、6、7、8世紀には一族から遣新羅、遣隋、遣唐使として活躍した人物を十数名程輩出した。
鐘楼

西国三十三所霊場 第五番札所



辛国神社

469年雄略天皇の御代に物部目大連が、その祖神「饒速日命」を祀って創建した物部神社で

餌香長野邑·神殿(現在の藤井寺駅の北西の恵美坂)にあったが、室町時代に春日山(現在地)に春日社(祭神「天

児屋根命のが造営されたときに、現在地に移設·合祀された

その後、明治41年、葛井寺の境内にあった長野神社の祭神「素戔鳴命」を合祀した.

大阪みどりの百選に認定されている。 




野中寺

:7世紀前葉聖徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられ「中の太子」と呼ばれている。(上の太子は

太子町の「叡福寺」、下の太子は八尾の「勝軍寺亅)

創建当時は、野中寺独特の伽藍配置で、竹之内街道に面して南大門をおく大寺院でした。

境内には、塔跡や金堂跡などの飛鳥時代の伽藍の一部が残っている。

重要文化財には、白鳳期の弥勒菩薩像、鎌倉時代の地蔵菩薩像のほか、ヒチンジョ池西古墳石棺や お染·久松

の墓、樹齢400年の山茶花などがある。

また、野中寺の東方に広がる野々上遺跡では、大型の建物群の跡が発見され、野中寺の造営や維持管理 に携

わった有力氏族が居住していたところと推定されています。
近松門左衛門⇒⇒⇒

 




アイセルシュラホール

平成6年に外観は船形埴輪と修羅をモチーフにして建築された生涯学習センター。

古代の生活状況や古墳よりの出土品·重文水鳥埴輪、11領の甲冑等鉄製品の他、遣唐留学生「井真成」の墓誌のレ

プリカを展示している。

遣唐使⇒⇒⇒