磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや)地図
御厨子神社地図
御厨子観音地図

   
 北東に位置する三輪山 南西(右端)に位置する香具山
 堤の上から見る池は景観的にも優れており、観賞や遊宴用としての役割があった事が推測されます。
また、池は奈良盆地東南部の中でも水を供給し易い高所に立地しており、灌漑用の池として理にかなった
ところに築かれていると言えます。
 現地見学資料より
 磐余池(いわれ)の推定地とされる池の堤とみられる跡が見つかった。
谷の出口を塞ぐように堤が築かれ、池の範囲が東西約700m、南北600mと推定される。
 ダム式の古代ため池の発掘事例では最古。堤の上には建物群跡があり、用明天皇の宮殿に関連する施設との見方
もある。
   
 
 5世紀前半、池を造った履中天皇らが舟遊びを楽しんでいた時、季節外れの桜の花びらが
舞い込んだ吉事を記した日本書紀の一節の舞台とされる。
 

:  2011年、磐余池の堤の可能性がある遺構が発見されました。日本書紀によると、磐余池は履中天皇が5世紀前

に築造、聖徳太子の父·用明天皇が磐余(いわれ)池の畔に「池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)』を造営したと

される重要な地です。

磐余池推定地(池之内説)  河嶋皇子の悩み  磐余甕栗宮、御厨子神社 
 十一月に、磐余池作る。
 三年の冬十一月の六日に、天皇、両枝船を磐余市磯池に泛べたまふ。皇妃と各分ち乗りて遊宴
びたまふ。膳臣余磯、酒献る。時に桜の花、御盞に落れり。天皇、異びたまひて、即ち物部長真胆
連を召して、詔して日はく、「是の花、非時にして来たれり。其れ何処の花らむ。汝、自ら求むべし」
とのたまふ。是に、長真胆連、独花尋ねて、腋上室山に獲て、献る。
天皇、其の希有しことを歓びて、即ち宮の名としたまふ。故、磐余稚桜と謂す。其れ此の縁なり。
 「磐余」を冠する宮居には、
 履中天皇 二つの稚桜宮稚桜宮
 神功皇后 磐余若桜宮
 清寧天皇 磐余甕栗宮
 継体天皇 磐余玉穂宮
 敏達天皇 訳語田幸玉宮(磐余地方)
 用明天皇 磐余池辺双槻宮  
磐余池
 日本書紀万葉集にその名を見る磐余池。近年、橿原市と桜井市にまたがる
東池尻・池之内遺跡で堤が見っかり、「ついにその場所が」と古代史ファンの話題をさらいま
した。大津皇子が涙ながらに「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」
の歌を残したとされる磐余池の堤。父である天武天皇の死から1ヶ月も経たないうちに謀反の
罪で処刑された悲劇の皇子に、遠く想いを馳せ、涙を禁じえない万葉故地です 。
磐余池::2011年、磐余池の堤の可能性がある遺構が発見されました。日本書紀によると、
磐余池は履中天皇が5世紀前半に築造、聖徳太子の父・用明天皇が磐余(いわれ)池の畔に
「池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)」を造営したとされる重要な地です。 

 
昔の池をはさんで(池の西側)に
歌碑が設置してある。こちら側には
御厨子観音、御厨子神社がある。

大津皇子、被死(みまか)らしめらゆる時、磐余の池の
陂(つつみ)にして
涕(なみだ)を流して作りよしし御歌一首


万葉集巻3-416 大津皇子 
 百(もも)伝(づた)ふ磐余の池に鳴く鴨を
今日のみみてや雲隠りなむ

 磐余の池に鳴く鴨を見ることも今日限りで、
私は雲の彼方に去ってしまうのだろうか。

 大津皇子が謀反のかどで訳語田の家に連れられると
き、磐余池の陂で涕してよんだ歌。
 天武天皇の死のわずか1ヵ月後、磐余れ
池近くにあったとされる訳語田(おさだ)の
自邸で死を賜わった。
御厨子神社


  
 
   吉備真備 
清寧天皇磐余甕栗宮 下御霊神社 井真成 遣唐使 
八阪神社 王権を確立した崇神天皇 道鏡について  八所御霊神社  
法華寺十一面観音   大唐文化  藤原広嗣の乱 聖武天皇 重ねた遷都  
上御霊神社   橘諸兄(葛城王)  栄山寺(語り部)   

 奈良時代、遣唐使として2回も唐に渡り、日本史の教科書にも登場する吉備真

備が、留学中に書いたとみられる墓誌がみつかった。わずか7文字から、知られ

ざる日中交流史の一場面が浮かび上がってきた。
 奈良時代に遣唐使船で留学生
として唐に渡り、帰国後、日本の政権中枢で活
躍した吉備真備
(695~775)が筆をとったとみられる墓誌(死者の簡単な伝記)が、
中国でみつかった。 所
蔵する博物館などが25日、北京で発表した。 8世紀前半
に留学
生として中国滞在に書かれた可能性が高いとされ、真備の書とすれば国
内外で初めて確認さ
れたことになる。

 中国人の墓誌の銘文を、日本人が書いたことが確認されたのも初めて。これま
で真備の留学
生活を探る史料は乏しく、 古代東アジア関係の実像を伝える貴
な史料として注目される。

 墓誌は、広東省にある民間の博物館が2013年に入手。長さ35cm、幅36cm、
厚さ8.9cmの石に計19行、328字が楷書で刻まれていた。唐王朝で外国使節
の接待などを
つかさどる「鴻蘆寺(こうろじ)」という役所の中級官僚だった李訓の
墓誌
で、開元22(734)年6月20日に死去し、同年6月5日に洛陽の郊外に葬られた
と記される。

 末尾の1行に「秘費丞褚(じょうちょ)思光文」と「日本国朝臣備書」とあり、文章を
考案したのが中国人
の褚思光で、実際に書いたのが「備」と呼ばれる日本人と読
取れる。所蔵者らによれば、中国の文化財当局などの研究機関が墓誌を鑑定し、
日中の複数の
研究者が留学期間や用語の使い方、字体などから総合的に検証し、
真備が書いた可能性が高い
と判断した。

 吉備真備は、のちの菅原道真と並ぶ学者政治家で、儒教や兵法などに通じてい
たとされる。
右大臣となり、81歳で死去した。

 気賀保規·明治大学東アジア石刻文物研究所長(中国史)は「真備が書いた墓誌と
みて間
違いない。日中関係史を考えるうえでの貴重な史料だ」と話す。

(北京=高田正幸)

 この墓誌は、都の長安で外国使節の接待などにあたる鴻蘆寺という役所の役人
だった李訓のためにつくられた。 734年6月に病気で死去し、洛陽郊外に葬られた。
中国人の官僚の墓誌を、日中両国
の文化人が共同で作成した異例の記録でもある。
2004年に西安で発表された
日本人留学生「井真成」の墓誌に書かれた文字数は171
字。李訓墓誌の情報量
は圧倒的に多い。 井真成の死去も同じ734年の正月だった。

 真備の留学期間は717年から20年近くに及んだ。 中国の歴史書によれば、真
は鴻蘆寺に招かれた教師から儒教や歴
史などを教わったとみられる。墓誌がつくら
れたのと同じ年の10月に帰国船に乗
ったとされ、真備が帰路に洛陽に立ち寄ったと
みても矛盾はない。東野治之,武
田科学振興財団杏雨書屋館長(日本古代史)は「鴻
蘆寺で勉強した真備が李訓か
らお世話になった可能性があり、その訃報に接し、ゆ
かりのある真備が筆をとっ
たのかもしれない」とみる。

 奈良時代の基本史料「続日本紀」は「わが国の学生で唐国に名前をあげたの
真備と阿倍仲麻呂の2人だけ」と伝え
る。東野さんは「真備の唐での実績は詳しくは
分からなかったが、墓誌を書くの
に選ばれるほど評判になっていたのでは」と話す。
字体や書きぶりが、初唐の
三大書家の一人、褚遂良(596~658)に似ているとの見
方もある。真備が
椿遂良の書を学んだ可能性も指摘され、書道関係者からも注目
されそうだ。

 今回の発表は、 公的機関が調査や発表の主体となったのではない。 気賀澤保規

·明治大東アジア石刻文物研究所長が4年前から情報を集め、墓誌を所蔵してい
博物館をつくった実業家に接
触し、熱心に共同研究を呼びかけるなど民間交流の
成果でもあった。
  2019-12-26 朝日新聞
 (塚本和人)

墓誌

 有力者が亡くなったときに姓名や先祖、位階、官職、事績などの情報

を石などに記した墓の埋納品。中国では唐代(618~907)に盛んにつく

られた。来世での身分証明書という 宗教的な性格とともに、盗掘されて

も被葬者が特定できる目的もあった とされる。近年、西安や洛陽などで

開発が進むに伴って発見が相次いで いる。日本でも7~8世紀の墓誌が

みつかっている.。 

 現在のところ、日本最古の年紀をもつ墓誌は、戊辰ぼしん・(668)年と記
された船首王後(ふねのおびとおうご)の墓誌である。丁丑 (ていちゅう・677)
年と記す小野毛人(えみし)墓誌と同じく、死後しばらく経った後に製作され
たと考えられるものの、導入期の墓誌であることに違いはなく、これらはす
でに中国とは異なる短冊形の形態をとっている。この短冊形の慕誌の流
れを追っていくと、文様などがなく、表裏両面に刻字するものから、片面のみ
に刻字した文祢麻呂墓誌(ふみのねまろ・707年)を経て、罫線を伴う
太安萬侶墓誌(723年)に引き継がれる。その後は、山代真作是誌(やましろ
のまさか・728年)、小治田安萬侶墓誌(729年)のように、周縁の装飾や、
副板を伴うなと\新たな要素が加わる。これら墓誌は、のちに天平尺と呼ば
れる大尺(だいしゃく)の一尺(29.6 cm)を前後する長さであり、規格性が高い。
 一方、美努岡萬基誌(みののおかまろ・730年)は、長さ一尺前後ではあるが、
それらに比べ幅広な点に違いが認められ、より中国の墓誌との類似性が高い。
こうした幅広の形態は、8世紀後半の高屋牧人墓誌(たかやのひらひと)や
紀吉継言継墓誌といった石製・塼による墓誌にも共通する特徴である。
 墓誌とは、葬られる者の名前や生前の地位、経歴などを金属板、塼、骨蔵器
などに記したものである。日本古代の墓誌は、後漢に始まるとされる中国の墓誌
に淵源(えんげん)をもつものだが、その形態や内容が、同時代のものと比べて
大きく異なることはよく知られている。そのことは、持統天皇、文武天皇、
元明天皇の代へと薄葬の風が強まりをみせることと無関係ではなく、日本におけ
る内的な要因が、より簡素で独自の墓誌文化を生んだ。
 日本の墓誌は、飛鳥時代の終わりごろに端を発し、奈良時代に一定の上位階
層の人々の間で採用される。太安萬侶墓誌のような金属板の墓誌の主は、基本
的に四位以下の官人で占められる。つまり、それら墓誌は、天皇を頂点とする
律令期の墓制の中に位置づけられたものであった。一方の天皇を含む最上位層
の人々は墓碑を立てていたと考えられる。
 
 以上奈良県立橿原考古学研究所展示パネルより
井真成  太安万侶墓  書紀の編纂
井真成  太安万侶  氷室神社  
多神社  多神社  行基
律令制と天皇  飛鳥の古墳  遣唐使 
飛鳥の古墳  佐紀古墳  アイセルシュラホール 
古事記  白村江の戦い  小野神社 
小治田安萬侶     
 日本古代の墓誌(現存するもの)
 

吉備真備をめぐる年表

695年 下級役人の下道(しもつみち)朝臣国勝の子に生まれ

710年 平城京へ遷都

717年 遣唐使の留学生として入唐

734年 李訓墓誌を書く。帰国へ

738年 橘諸兄が右大臣に。政権内で活躍

741年 のちの孝謙(称徳)天皇の教育係に

746年 「吉備朝臣」の姓を賜る

750年 筑前(現.福岡県)守に左遷

752年 遣唐副使として再び入唐

754年 大宰府へ左遷

756年 筑前に怡土(いと)城を築く(768年に完成)

760年 藤原仲麻呂、太政大臣とな

764年 恵美押勝の乱

766年 称徳天皇,道鏡政権下で右大臣に

775年 81歳で死去  

 弘法大師を宋祖とし高野山金剛峯寺を総本山とする。
当山の観音様は、吉備真備公が唐に留学するに当たり、航海の安全と学問の成就を守った。 

御厨子山 妙 法 寺(御厨子観音)

 当寺院は霊亀二年(西暦七ー六)右大臣吉備真備発願の寺

にして入唐留学無事帰朝の願いがかなえられた謝恩の為

天平七年(西暦七三五)その子善覚律師に観音堂を創建

せしめたものである。

北室院・南室院等の寺院跡が残りこの附近の地名「大門」は

当山の山門跡である。

御厨子神社は当山の鎮守八幡大明神を合祀し、ニ十二代
清寧天皇の磐余甕栗の宮は、この山にあったと推定される。

当本堂より東を見下ろした低地は磐余池のあった所である。

日本書紀:履中天皇が5世紀前半に磐余池を造って船遊びをした。
清少納言 枕草子:池の例として磐余池を挙げる
天皇と宮の名  河嶋皇子の悩み    




上之宮遺跡 地図
 
 桜井南部特定土地区画整理事業にともない、

昭和六十一年から平成二年までの、五次の発

掘調査によって発見された、古墳時代後期か

ら飛鳥時代にかけての集落遺跡である。

 特に、第四期とよばれる時期の遺構は、上

図のように、四面庇建物を中心とする掘立柱

建物群と、それを囲む溝や柵が、東・南側に

作られている。西側には、半円形の排水溝を

ともなう、方形石組遺構を中心とした園池遺

構が作られている。 一辺が約百メートルの方

形区画の中に収まってしまうところから、古

墳時代末期から飛鳥時代初期の豪族居館と考

えることができる。

 この場所で復元した方形石組遺構の中から

は、木簡・琴柱・ベッコウ・刀子形や鳥形木

製品などと共に、モモ・スモモ・ナツメ・カ

キ・クリ・ナシ・ベニバナなどの果実の種子

や花粉が出土しており、邸宅内でのくらしぶ

りがうかがわれる。

 地名や建物の時期、貴重な出土品などから、

聖徳太子の上宮(かみつみや)の可能性もある。

 桜井市教育委員会  

 
一辺50m以上の柵や溝に囲まれた方形の区画の中に
建物がはいちされており、西側から苑池遺構が出土。
地名から聖徳太子が20年間居所した宮跡と推定される。 
 


天満神社 地図
   
   
   
 
 稲荷神社 厳島神社


桜井 春日神社 地図
   
 
 
 宝塔  稲荷大明神
石造宝塔 (国指定重要美術品)

 花崗岩造り。この宝塔は無銘であるが、暦応四年

(一三四一)の銘がある浅古宝塔と、規模・制作年

代も大して差の無い出来ばえであり、作者も同じ人

かと考えられる。

   
 金比羅大権現  愛宕大権現
 


磐余玉穂宮 地図
 

(続桜井町史) 玉穂の宮は稚桜神社の西南三町程、俗に「おやしき」と呼んでいる

所という。「上の段・前田・花枝 田」などの地名も残る。その近く

に「向い山 」「天皇塚」があり・・・・ 

継体天皇は、即位して20年後に大和に都を移し、磐余玉穂宮に入る。現在の
桜井市池ノ内に推定される。
継体天皇は507年に即位し、樟葉宮筒城宮弟国宮と転々と都を移した後、
多くの天皇都を置いた磐余に移った。
 天皇と宮の名⇒

磐余遺跡群の城郭 (15世紀後半) (桜井市大字池之内)

 池之内地区の圃場整備に伴う発掘調査により、小字オヤシキ

所在の小丘陵全体が、15世紀後半に築造された中世城郭であ

ることが判明した。城郭は、丘陵上を三面の平場に造成し、 内堀

外堀 土塁 橋脚などの諸施設を設ける。周囲より一段高くなっ

た中央の平場が主郭と推定され、礎石建物の存在が想定される。

城郭の廃絶時期については、天正八年(1580年) 大和一国破

城命令が契機となった可能性が考えられ、 内堀からは一括投棄

された16世紀後半の多量の土器類が出土している。

  磐余の遺跡探訪 桜井市立埋蔵文化財センター 

継体天皇母方の墓  今城塚古墳(大船団列島支配へ)