第2番 磯長山 叡福寺地図
南大門 | ||
左右に金剛力士を安置している。一直線上に御廟が見える。 |
二天門・二天が祀られている。 |
聖徳太子御廟(三骨一廟) | |||||||
太子の母穴穂部間人皇后、妃の膳朗女の三人が葬られている聖徳太子が自ら廟地と定められ、 建立された磯長廟は、叡福寺境内の北側にある。 「竹之内街道」は難波と奈良をむすぶ街道である。その街道沿いに聖徳太子ゆかりの叡福寺があることは、 遣隋使として小野妹子を派遣し、対隋外交をひらき、大陸文化の導入をはかった聖徳太子の姿にふさわしい。 |
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敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の四天皇陵がここ太子町にある。 鎌倉時代には太子を守るお墓ということもあって東西両院を構えた広大な寺院に発展した。 僧兵を抱えたのが災いし、天正2年(1574)織田信長が焼き払った。 現在の境内は西院に相当し、江戸期に200年ほどかけて再建された。 |
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被葬者:三骨一廟 奥:穴穂部間人皇后(石棺)。 前面左:膳菩岐阜々美郎女(夾紵棺) 前面右:聖 徳 太 子(夾紵棺) 『書紀』推古天皇29年2月条に「上宮太子を磯長陵に葬る」。 叡福寺の伽藍北側にある南北に伸びる丘陵端に位置し、 墳丘は丘陵端部を切断した形の自然地形を利用。 現在:墳丘裾は、「結界石」と称する二重の石柵列により 保護されている。内側の石柵列は「空海作」と伝えられ、 高さ80cm、幅30cm・厚さ 20cmの凝灰岩製。 碑面上部に「 梵字」を配する。 外側石柵は、享保 19年(1734)寄進され、「梵字一字」及び「浄土三部経」を彫刻する。 |
多宝塔(重文) | 金堂 |
承応元年(1652)、 江戸の三谷三九郎の再建。 本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、 西面に金剛界の大日如来を安置し、 4本の柱には四天王寺の像が描かれている。 |
享保17年(1732)に再建。 本尊は高さ90cmの如意輪観音坐像。 脇侍は不動明王と愛染明王。 |
浄土堂 | |
慶長2年(1597)、 伊藤加賀守秀盛の再建。 本尊は阿弥陀如来、観音菩薩、 勢至菩薩の三尊 |
叡福寺は聖徳太子墓所に営まれた寺院で磯長山(しながさん)と号する。この寺は戦後単立寺院となったが、もとは古儀真言宗金剛峯寺(こぎ)の末寺で、所在地であるかっての郡名や地名に因んで石川寺・磯長寺などと称されていた。また、聖徳太子の磯長墓を祭祀守護する性格の寺院であるところから太子寺・御廟寺・聖霊院の号もあり、四天王寺・法隆寺とならんで太子信仰の中核をなした寺院である。なお、一連の太子建立伝説をもつ八尾市大聖勝軍寺の「下の太子」、羽曳野市野中寺の「中の太子」に対し、「上の太子」と称され親しまれている。 寺院の創立は明らかではないが、寺伝によると推古天皇30年(622)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当寺はじまりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって伽藍を造営されたといわれ、もとは法隆寺のように東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺と称したと伝えられている。 現在の伽藍は天正2年(1574)織田信長の兵火で焼失したあと相前後して再建されたもので広大な境内には金堂、聖霊殿(しょうりょう)、宝塔などの堂塔が建ちならび由緒ある寺院としての風格を保っている。 また、境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古天皇29年(621)崩御の聖徳太子の生母穴穂間人皇后、翌年2月大和斑鳩の宮において、時同じくして亡くなられた聖徳太子、同妃膳部大郎女の三人が一所に葬られているところから、三骨一廟とよばれ、この基前には空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮の諸賢聖のほか、名僧知識の参籠が多く、現在も太子に会わんがために善男善女の参詣が多い。 |
鐘楼 | 弘法大師像 | 大師堂 本尊の弘法大師像は、 自ら三結をもって刻まれたと伝えられる。 |
松井塚古墳石棺 |
西方院地図
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