近江遷都

  遷都ということは朝臣たちにも、民の男女たちにも決して好ましいことではなかった。生活の形を根もとから揺すぶり変えることでもあったし、そのために租税も重くなるに違いなかった。税ばかりでなく、また何年かの長きにわたって、民の男女は新しい都造りのために徴せられなければならぬ。

 三月にはいって数日経った時、遷都の日の発表があった。政府機関が新都へ引き移って行く日は、十日ほどの先であった。この十日ほどの先きに迫った慌しい遷都は、誰の心をも驚天させた。殆ど信じられぬことが発表になったのである。
 この発表のあった日から、都は混乱した。都や都付近に居を構えている民たちが蜂の巣をつついたように右往左往しだしたのは勿論であるが、それよりも、この発表と同時に、政府機関の一部が新都へ移って行き、それに伴う人々の移動が開始され始めたからである。大和から近江へ向う街道は忽ちにして兵団で埋められた。

  騒ぎが都中をひっくり返していた。商人たちは廃墟になる都に留まっていても始まらなかった。住む家があろうとなかろうと、新しい都へ移って行かねばならなかった。
額田は住み慣れた美しい大和と別れなければならぬ民の悲しみが、そっくり自分の物として感じられた。額田もまた、この美しい都から離れて行くことは悲しかった。やがて別れていかねばならぬ大和のなだらかな丘々を、そこを埋めている小松の林を、空を、雲を、水を、額田は堪え難いほどの悲しみの思いで眺めた。この日は、額田にとっても、大和の自然との飛鳥の都との別れの日であった。大和三山とも飛鳥川とも別れなければならなかった。

  額田は都大路を歩いていた。日が暮れても、まだ館に引き返そうとはしなかった。中大兄皇子に代わって、神の声を聞き、大和と別れる歌を詠わなければならなかったからである。
  近江に都を遷す日は来た。三月十九日である。その前夜からその翌暁にかけて、主だった朝臣という朝臣、武臣という武臣は尽く王宮内に詰めかけていた。いざ都を引き揚げて行くとなると、為さねばならぬ仕事がたくさなった。遷都のことが一年も二年も前から決まっていればこれに対する準備のしようもあったが、遷都の期日の発表があってからまだ何日も経っていないのである。準備という点から言えば、もともと無理な遷都であった。無理なことは承知の上での遷都の強行であったのである。打ち棄てていく都の最後の夜を朝臣、武臣とも、だれも眠らなかった。仮眠すらとっている暇はなかったのである。やがて19日の夜が白んで来た。朝の空気もゆるんでいる春の曙であった。曙の光が微かに漂い始めた頃はうっすらと霧が流れていたが、夜が白んで行くにつれ、薄紙をはがして行くように霧は霽れた。しかし、雲が一面に空を覆っている。
王宮の広場には都と別れて行くために宴席が作られてあった。

  神に捧げる楽の音が流れ出す頃、時折薄陽は照ったが、すぐにまた翳り、人々はこの日が曇った薄ら寒い日であることも知らねばならなかった。都を取り巻く山々こそ曇天の下にその姿を見せているが、その奈良の山々に重なっている三輪の山は、すっぽりと雲の中に姿を匿している筈であった。

  神事が一応終わると、土器の盃が配られて、神酒が配られて、神酒が注がれた。この頃から列席の者たちの心に、しみじみとした思いが流れ始めた。もう何刻も経たずして、この都を離れて行かねばならないのである。翁ともでも言いたい老いた朝臣の一人は、都を棄てる悲しさをはっきりとその面に現していた。翁は絶えず口の中でぼそぼそ呟いていた。周囲の誰にも、この老人が都を離れることを死ぬほど辛がっていることが判った。
その時、再び楽の音が流れだした。その楽の音が終わると、それを待っていたかのように、澄んだ高い声が替わった。誰も、その方へ顔を向けなくても、その声を発している主が誰であるか知っていた。額田女王であった。

   味酒 三輪の山
   あをによし 奈良の山の
   山の際に い隠るまで
   道の隈 い積るまでに
   つばらにも 見つつ行かむを
   しばしばも 見抜けむ山を
   情なく 雲の 隠さふべしや
                      歌碑30⇒⇒⇒
                      歌碑11⇒⇒⇒
 歌は二回繰り返して詠われた。
 ああ、美しく尊い三輪の山よ、毎日のようにこの都で仰ぎ親しんで来た神います、三輪の山よ。その三輪の山が、美しい奈良の都を取り囲んでいた山々のあたりに隠れてしまうまで、これから新都へ向う途中の道の曲がり曲がりで、何回でも、よく見て行きましょう。遠くに眺めて行きましょう。これほどまでに別れを惜しんでいる三輪の山を、どうして雲が隠すようなことがありましょう。
 老朝臣は手を眼に当てたまま、そこから離さなかった。額田の歌の心が老朝臣にはまるで自分のいまの思いのように聞きとれたのである。自分もまた、そのようにして、この都を離れ、新都へ向うであろうと思った。
 しかし、額田の歌の心を、己が心として受けとったのは、この老朝臣ばかりではなかった。一座はしんとした不思議な静まり方をした。
 すると、再び、額田の声が響いて来た。

   三輪山を
   しかも隠すか
   雲だにも
   情(こころ)あらなも
   隠さふべしや
                     歌碑13⇒⇒⇒
 雲よ、なぜ三輪山をそのように隠すのであるか。せめて雲だけにも、思いやりのこころは持って貰いたい。どうしてそのように隠すのですか。
 こんどの額田の歌声は前より烈しい調子で聞こえた。都と別れる悲しい心、三輪山と別れれる悲しい心は、急にその都を覆っている雲に対して、三輪山の姿を隠している雲に対して、まるでその雲を霽らさずにはおかぬといった烈しい調子に変わった。
 人々ははっとした。そしてそうした烈しさが、いつか自分の気持ちの中にはいり込んでいるのを感じた。確かに三輪山は雲に隠されているに違いなかった。
 ―――しかし、やがて、必ず雲は霽れるに違いない。
 隊列が都を突って行く頃から、陽が当たり始めた。いつか一点の雲もなく、空は晴れ渡つていた。額田が念じたように雲もまた、情を持ったのに違いなかった。
 列隊は奈良坂で進行を停めた。ここで人々は大和の都と三輪山に本当の別れをした。もはや三輪山のあたりには雲はなかった。

井上靖  額田女王(ぬかだのおおきみ)より 
 中大兄皇子は人心の一新を図るため住み慣れた大和の地をあとに、近江遷都を断行した。時に天智六年(667)である。翌年42歳の皇子は、天智天皇に即位した。それから壬申のらんが起こるまでの5年余り、この地に大津宮が営まれた。
壬申の乱の後、この都は徹底的に破壊された模様で、柱を引き抜いて持ち去った跡も検出されている。

 西日本に、幾つか正体不明の朝鮮式山城の遺跡が残されている。これらが、その当時、防衛上築かれたものかどうかは不明であるが、日本書紀天智天皇六年(667)の条には、対馬と讃岐と大和に、それぞれ山城を築いたと記録されている。
香川県高松市屋島の西海岸、浦生(うろ)の地には、その山城の跡と推定される石垣がわずかに残っている。城は瀬戸内海を見下ろし、西の海からの侵入に備えた絶好の位置を占める。
このように、西日本の各地に城を築き、また大宰府の防衛を固めるなどして、唐・新羅の連合軍に対する防衛体制を進めるさなか、都が大和から近江へ遷されたのであるが、この遷都に対しては、反対する声も多かったという。

 近江という狭い土地に、なぜ都を遷したかというと、いざと言う時に船で脱出するのに便利であった。恐怖感は、はかりしれないものがあったと思われる。

日本探訪史(3)より
 雲よなぜ、三輪山を隠すのか。せめて雲だけでも情があってほしい。いつまでも見せないでよいのか。

 667年、天智天皇は都を飛鳥から近江に移しました。
 折しも日本は海外の戦争でたくさんの軍隊を失い、今後にそなえて各地に城を築いて、国防を固めている時でした。
 大きな緊張が日本じゅうをおおっていました。都を移すことも、国防のための一つで、だれひとり好んでいたわけではないのです。
 都移りの日がきました。作者は天皇の命令をうけて、今まで飛鳥の都を守ってくれていた三輪山に別れを告げます。大事な儀礼でした。
 しかし折あしく悪天候、雲が全山をおおって、山の神は姿を見せてくれません。作者は山に訴えかけて、最後の日の守護を願いました。歌は短くことばを切って、ゆっくりと歌われていきました。

 2011−2−5 朝日新聞 夕刊 ナカニシ先生の万葉こども塾 より
白村江⇒⇒⇒
近江大津宮⇒⇒⇒
うま酒三輪の山⇒⇒⇒
額田王⇒⇒⇒