扶余・白村江・落花岩地図
白村江に浮かぶ船 | 静かに流れる白村江 | |
7世紀前半の朝鮮半島は北部に高句麗、南東部に新羅、南西部に百済が並び立つ三国時代だった。 百済から攻め込まれていた新羅は唐と手を結び、百済を攻撃する。 百済は斎明天皇6年(660)、唐・新羅連合軍に滅ぼされた。 国を復興させたい百済は日本に助けを求めた。 |
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日本軍は、滅亡した百済の復興に介入することを決め、斎明天皇7年(661)斎明天皇や 中大兄皇子自身が兵を率いて、九州の朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)まで出兵する。 斎明天皇は九州で亡くなった。 天智2年(663)8月、朝鮮半島の錦江の河口の白村江で、日本国水軍・百済と唐・新羅とが戦い、日本軍の兵力は船1千艘、 兵万余とも称される大軍であったが大敗し、戦力の4割を失い百済は滅亡した。 この敗戦処理が大きな課題となり、唐からの使節があいついで難波津に来朝した。 天智6年(667)、中大兄皇子は、再び飛鳥の地を離れ、近江大津に遷都することにした。中大兄皇子は即位して天智天皇となり、 中央管制や地方行政組織の整備を図り、対馬、壱岐、筑紫国などに防人を配備し、のろし台を設け、筑紫に水城を設置し、さらに、 大和と河内の境に高安城を築き、唐・新羅の来攻に備えた。 |
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ところが、唐・新羅の矛先は、まず高句麗に向かい、天智7年(668)に高句麗が滅亡した後には、朝鮮半島の支配をめぐり唐と 新羅が対抗したことから、日本国侵攻の危機は回避された。 |
落花岩 | 百花亭の前にある落花岩の碑 |
百済滅亡のとき、3000人もの女官が飛び降りたとされています。
飛び降りる時に恐怖のため、スカートたくしあげて顔を覆って 飛び降りるものの、途中風力でスカートは一斉に手から離れ、 花が咲くようにパッと開き、赤・黄・紫の花が入り乱れ散っていく状況は、 はかなく強烈な思いがします。 |
皐蘭寺は扶蘇山の北側(扶除の市街地の反対側)にある尼寺で、百済時代に ていた女性たちが、唐 新羅連合軍に追い詰められて、崖(落花岩)から飛び降りる(花が落ちる)という悲惨な光景が生々しく描かれる。 |
皐蘭寺(コランてら) |
落花岩から身を投げた数多くの 百済の女官達の悲しい魂を慰める ために高麗初期に建てられたという 説もある。皐蘭(コラン)という寺の 名称は寺の後の岩壁で生えている 皐蘭草(コランそう)からきたものである。 この寺の周辺は、美しい景色を始め、 落花岩に関わる伝説として険しくて 奇異な岩、そして皐蘭草で大変有名 である。 |
百花亭 | 百花亭の近くの岩 | 岩の上から白村江を望む |
扶蘇山城の北、河岸の険しい岩の上に建てられた六角形の亭である。 百済滅亡の際に3000人もの女官達がこの絶壁から身を投げたという 伝説が伝わっている。ここから身を投げた女官達を追悼するために1929年 に建てられた。床を地盤よりも高くして南側に木の階段をつけて出入りできる ようになっている。木の床の周辺には簡単な欄干があり、天井にはいろいあろな 蓮の花が描かれている |
扶蘇山・白馬江の図 |
扶蘇山門 | 扶蘇山門 | ||||||||||||||||
扶余官北里百済の遺跡。百済の泗沘(サビ)時代538年~660年の王宮址。 この城は百済時代の首都であった泗沘の中心となった山城で、都城を防御する 核心施設であり、百済に泗沘に都を定めた538年以前既に築造されたものと推定 される。 扶蘇山(プソサン)は海抜106mで、面積960、828㎡の山である。北側には 白馬江(白村江)が包むように流れ、天然的な地勢をなしているので外敵から攻防 の防御するのに有利で、南側は緩かな丘陵地で形成されており、ここに山城を築 いて百済の王宮と都城を防御する役割を果たした。 扶蘇山城は山峰を鉢巻をしたように築いた方法と、谷と稜線を包みながら築いた 2、495mの包谷式山城が混合された百済独特の複合式山城である。 山城内には軍糧米を保存した軍倉址と東・西・南・北の方向に四つの門址、 百済の王と貴族達が朝日を迎えながら国政を計画した迎日楼、白馬江に沈 む月を見ながら国政を整理した送月台に建てた泗沘楼、百済時代の軍人 穴蔵である竪穴兵営址、望楼と推定される半月楼、百済敗亡の時、数多く の女官が身を投げた落花岩、彼女達の魂を慰めるために高麗時代に建てた皐蘭寺がある。 |
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