飛鳥川地図

 剣の池(石川池)のほうに出て、それから藁(わら)塚のあちこちに堆(うずたか)く積まれている苅田(かりた)のなかを、香具山耳成山をたえず目にしながら歩いているうちに、いつか飛鳥川のまえに出てしまいました。ここいらへんはまだいかにも田舎じみた小川です。が、すこしそれに沿って歩いていますと、すぐもう川の向こうに(いかずち)の村が見えてきました。土橋があって、ちょっといい川原になっています。僕はそこまで下りて、小さな石に腰かけながら浅いながれに目をそそいでいました。なんだかセキレイでもぴょんぴょん跳ねてていたら似合うだろうとおもうような、なんでもない風景です。それから僕は飛鳥の村のほうへ行く道をとらずに、甘樫の丘の縁(ふち)を縫いながら、川ぞいに歩いてゆきました。
  堀 辰雄  大和路・信濃路  より

 源は竜門・高取あたりから、栢森(かやのもり)・稲淵の谷あいをくだり、祝戸(いわいど)で多武峰からくる冬野川(細川)をあわせ、飛鳥の中心部から藤原京をななめによこぎって、寺川曽我川の間を北流、大和川にそそぐ。

 飛鳥川は山川。上流の森と玉藻橋では、標高差約100mもある。そのため急流であり、上流では絶えず川底が削られて、土砂を川下に流す。雷丘から下流では、上流から運れてきた土砂が堆積するため、川底がが高くなって天井川となり、洪水が繰り返されてきた。
 飛鳥地域では耕作面よりも下を飛鳥川が流れている。それで水田に水を引こうとすると、上流に井堰を設けて分水し、水を延々と引いてくる必要があった。
 五世紀後半から、飛鳥とその周辺地域の開発が始まる。開発に従事したのは、朝鮮半島南部の伽耶(かや)から列島に渡来した、高度の土木技術をもつ人々だった。五世紀初頭前後に檜隈を本拠とした倭漢氏がおり勢力を有していた。この新しく渡来した人々は、倭漢氏の支配下に置かれ、「今来漢人」と称された。

 神奈備(かむなび)は、神座となる山や森いう。飛鳥の神奈備や竜田のものがある。





 飛鳥川の飛石⇒⇒⇒
 寺川と飛鳥川流域⇒⇒⇒


.
.
.











.