寂光院地図

 天台宗尼寺で、山号は清香山(せいこうざん)、寺号は玉泉寺(ぎょくせんじ)という。推古2年(594)に、聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられる。初代住職は、聖徳太子の御乳人(めのと)であった玉照姫(たまてるひめ)で、その後、代々貴族の姫君らが法燈を伝えてきた。
 文治元年(1185)9月、平清盛の息女、高倉天皇の皇后である建礼門院徳子は壇ノ浦の戦いで、浪間に消えた安徳天皇を追っていったんは入水しながら生きながらえてしまった。建礼門院は、壇ノ浦で滅亡した平家一門と子・安徳天皇の菩提を弔うため出家、入寺し、終生をこの寺で過ごした。それ以来、御閑居御所(ごかんきょ)、また高倉大原宮(ぐう)とも称されている。翌文治2年(1186)、後白河法皇が御幸したことは、平家物語や謡曲で有名な大原御幸(おおはらごこう)として知られている。謡曲⇒⇒⇒
 旧本堂は、内陣及び柱が飛鳥様式、藤原時代及び平家物語当時の様式、また外陣は桃山様式で、慶長8年(1603)に豊臣秀頼が修理したという歴史的に貴重なものであったが、平成12年(2000)5月9日の出火により全焼し、その姿は永遠に惜しまれるものとなった。現在の本堂及び本尊は平成17年(2005)6月に焼損前のものを基に忠実に復元されたものである。 
寂光院の花鳥図⇒
正面門 本堂

寂光院は三千院より西へ約一.二km、翠黛山(小塩山)

の麓、大原草生町にある。天台宗延暦寺に属し、『平家物語』

がつたえる大原御幸・建礼門院ゆかりの地として知られ、今

なお多くの人々の訪れる洛北屈指の名刹である。

寺伝によれば、当院は推古天皇二年(五九四)聖徳太子

用明天皇の菩提を弔うために建立され、太子の乳母玉照姫

初代の住職をつとめたとつたえる。第二代は藤原信西の息女

の阿波内侍である。崇徳天皇の寵愛をつけた女官であった

が、出家のあと永万元年( 一 一六五)に入寺し、証道比丘尼

と称した。出家以前は宮中にあった建礼門院徳子に仕えてい

た。第三代の建礼門院徳子は、文治元年(一一八五)年九月

に入寺し真如覚比丘尼と称した。源平の合戦に敗れ長門国壇

ノ浦で滅亡した平家一門と、息子安徳天皇の菩提を弔いなが

ら、この地に侍女たちとともに閑居して終生を過した。

現在の本堂は平成十七年(二〇〇五)の再建であるが、旧

本堂は慶長四年(一五九九)豊臣秀頼の母淀君によって改修

され、同八年(一六○三)には寺領三十石が寄進されている。

現在の堂内には本尊地蔵菩薩立像や女院像・阿波内侍の像を

安置している。旧本尊像内や内陣壁面におびただしい地蔵菩

薩の小僧を安置するのは、当寺がはじめ地蔵信仰とむすびつ

いた寺であったことを想像させる。

旧本尊地蔵尊菩薩立像(重要文化財)

当初の本尊は、聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊で

あった。鎌倉時代に制作された旧本尊(重要文化財)は、平

成十二年(二〇〇〇)五月九日未明に発生した不慮の放火に

より焼損したため、文化庁の指導を受けて財団法人美術院に

よって修復されたものである。現在は地蔵菩薩小像などの像

内納入品とともに、境内奥の収蔵庫に安置されている。


本尊 地蔵尊菩薩立像
国宝修理所の小野寺久幸仏師によって、形,大きさともに

元通りに復元された新たな地蔵菩薩立像が安置され、落慶式

と同時に、魂入れの儀式として入仏式が厳修された。鎌倉時

代の制作当時そのままの美しい彩色である。

地蔵菩薩の本願は、抜苦与楽で、それは慈悲の心を表わす。

人間の苦しみや辛さ、思い通りにならない現実を救い抜

け出させて頂き、願いを叶えて頂ける諸願成就のご利益があ

るということである。

建礼門院御庵室跡

文治元年(一一八五)長門壇ノ浦の合戦で平家が敗れたあ

と、建礼門院はひとり助けられて京都に連れ戻され、その年

の九月都を遠く離れた洛北の地大原寂光院に閑居した。本

堂の北奥に女院が隠棲していたと伝えられている。

寂光院につどう京都画壇の作家たち

明治四十二年(一九〇九)に、三宅呉暁・谷口香嶠・都路

華香・今尾景年・山本春挙・原在泉ら当寺の京都画壇を代表

する日本画家たちによって、寂光院の旧書院に平家物語にち

なんだ四十四面の襖絵が描かれた。このほか寂光院にはこれ

らの画家をはじめ明治から昭和戦前にかけて、京都画壇の画

家たちによる多くの絵画が伝来している。


拝観の手引き より






















寂光院の花鳥図

比叡山のふもと、大原(京都市左京区)には明治・大正期の京都には画壇を代表する画家たちの作品が多数伝わります。寂光院は平家滅亡後,清盛の娘、建礼門院徳子が

余生を過ごした天台宗の尼寺ですが、彼らが描いた「平家物語」にちなんだふすま絵や掛け軸が残ります。

ホトトギスが舞い、ツツジや力キツパタ、フジの花が咲く情景を描いたこの「花鳥図」もその一つ。平家物語にある、後白河法皇が隠棲中の建礼門院を訪ねた大原御幸。その際の晩春の寂光院のイメージを三宅庵合、谷口香曉丶都路華香、今尾景年の4人が描きました。谷口と都路 は、竹内栖鳳、菊池芳文と並び、円山四条派の名手,幸野楳嶺門下の「楳嶺四天王」に数えられます。

大原を代表する天台宗の門跡寺院・三千院でも、画家たちがふすま絵を競作しています。竹内栖鳳の「御殿場暮景図」は、欧州視察旅行から帰国した栖鳳が、富士の裾野の実景を描いたとされ、かすみにけぶる杉林の情景を、墨の濃淡で見事に表現しています。

2017-4-7 朝日新聞 
















愛之助パワーを感じる上賀茂神社

 

世界遺産の京都・上賀茂神社は縁結びの神もまつる。創建には「逢う日」の神話が伝わる。賀茂一族の姫が小川で身を清めていると、川上から朱塗りの矢が流れてきた。その矢を枕元まつって休むと身ごもった。生まれた子がご祭神の賀茂別雷大神とされる。神社の紋は葵。古くは「あふひ (=逢う日)と読み、神と逢うことを意味した。こうした由来から良縁にあやかり、多くのカップルが結婚式を挙げる。歌舞伎役者の片岡愛之助( 45 )も,その一人。境内に入ると「気」が違うと感じる。自然のパワーをもらい歩いているだけで元気になってくる。去年の秋、妻で女優の藤原紀香( 45 )と鳥居をくぐり、国宝の本殿で式を挙げた。「一歩一歩踏みしめるたび、人生の節目節目が思い出されました」
人生の節目を振り返ると、いつも京都があった。歌舞伎の家に生まれたわけではない。父は大阪・堺で船のスクリュープロペラの工場を営み、母は専業主婦。敷地内にはダンプカーが走り、長男の愛之

助は妹と家の中で遊んでいた。友だちをつくって欲しいと願った父の勧めで、5歳で子役のオ-ディションに合格した。歌舞伎役者としてのスタートは9歳。京都・南座の顔見世行だった。十三代目片岡仁左衛門の本名千代之助から2字をもらい、千代丸を名乗って初舞台を踏んだ。「愛之助という歌舞伎役者が産声をあげたのは京都です。京都は原点なんです」嵯峨にある仁左衛門の自宅も印象深い。養父の二代目片岡秀太郎( 75 )ら松嶋屋一門が正月に集まる。そこで出される白みそのお雑煮には,巨大な頭芋が丸まるまる一つ入っていた。食べれば頭になれるという京都ならではの縁起物をおいしく食べた。

映画や舞台、テレビなど活動の幅を広げている。4年前にはTBSドラマ「半沢直樹」、昨年はNHK大河ドラマ「真田丸」に出演。ドラマに出るのも歌舞伎を知ってもらうためという。「師匠たちが命をかけて上方歌舞伎を支えて下さった。僕は今、歌舞伎の広報マンです」結婚式の少し前、妻と2人で東京から新幹線に乗り、上賀茂神社の田中安比呂宮司( 75 )にあいさつに行った。東京で開いた披露宴にも田中を招待した。「愛之助さんは,普通の家から歌舞伎の世界に入り、大変な努力をしてきたからこそ、誠実で気配りができるのでしょう」

結婚式から3カ月後の去年の年の瀬、夫婦そろって上賀茂神社に参拝した。「新たな人生のスタート地点であり、ぼくらの心のふるさとなんです」。上方歌舞伎の発展を祈った。

=敬称略(岡田匠)
2017-4-6  朝日新聞


























阿弥陀寺地図

 
 本堂 開山弾誓佛立像
開山弾誓佛立像 

江戸時代初期 身丈七四,二四㎝

木製。全体が墨色に塗られている。頭部には彈誓上人の頭

髪が植え付けられたと伝えられているが、現在頭髪は、ほぼ

全てが風化、或は抜け落ちてしまったために両もみあげ部分

が僅かに確認できるだけとなっている現在、当寺の本尊佛

として祀られている

『絵詞伝』 では「植髪の尊像'」、「古知谷弾誓上人 絵詞伝

翼賛』(以下『伝翼賛』)では 開山自作肖像」として存在が

記されている。「又上人手づから自身の肖像を彫刻し給ふ。

植髪の尊像と号す。今現にあり。此像古今種々の霊験あり。」

(『絵詞伝』)とあり、彈誓上人の作とされる。

     
 本堂  扁額法国院  
 慶長十四年(一六〇九)彈誓上人が開基なされたお寺 です。「一心帰命決定光明山阿彌陀寺」と号し,どの宗派にも

属さない彈誓上人( たんぜい)独自の教えの基に建立されましたが、江戸時代の宗教統制を経て、現在は浄土宗知恩院派に編入され,

「光明山法国院阿彌陀寺」と号します。一般には地名をとって「古知谷阿弥陀寺」と呼ばれております。『彈誓上人絵詞

伝』(以下『絵詞伝』)によりますと、彈誓上人が諸国行脚の途中に京に登り、五條の橋の上から彼方此方を眺めますと北

の方角に紫雲がたなびき仄かに佛影が現れている所がありました。さては霊地に違いないと上人が分け入った場所、それ

が古知谷であります。

諸国行脚を終えられ再び古知谷へと分け入られた上人は、松の木陰を庵にして、所持していた鉦鼓を枝に掛け、苔むす

岩の上に坐り、西の山合に打向い、明け暮れ念佛されていました。弟子達が上人の跡を慕い集まり共に念佛し、そのこと

を聞き伝えて多くの貴賤の群衆が念佛を授かり、名号を受ける為に訪れるようになり,終に佛閣僧舎が建立されました。

それが当寺の起こりとなります。

当寺は、皇族諸家と御縁故が深く、安永年間(一七七二八0)、入江御所より紺地金襴の掛幡と赤地緞子の打掛とを、

閑院宮より緋大紋綸子の掛幡と御追資料とを御寄進賜ったことをはじめとして、その後も度々金品の御下賜,更には御参

拝の栄誉に浴しております。各宮家からの尊牌の御奉納、ま南院宮ならびに有栖川宮御両家からは御祈願所の御沙汰を

頂いております。

     
 感得阿弥陀如来立像
(特別公開ポスターより)
地蔵菩薩坐像 
(拝観の手引より)
 開山作鎌佛弥陀立像
(拝観の手引より)
感得阿弥陀如来立像

平安時代~室町時代 身丈七二,七三cm

木製(材質は桜と思われる)。全体が墨色に塗られている。

本職の仏師の手によるものではなく、僧が霊木を前に霊感を

得て彫ったものではないかと思わせる荒さが窺われる。平安

時代の仏像の特徴が多く見られるが、平安時代に見られない

特徴もあること、また,本職の仏師の作でないことから製作

年代ははっきりとしない。後背・台座は江戸時代の作であ

り、本来阿弥陀如来に用いられるものではない。何らかの理

由で、別の仏像の後背と台座を本仏像の後背と台座にしたと

思われる

『絵詞伝』では「感得本尊」,『伝翼賛』では「本尊阿弥陀如

来開山上人於當山感得」として存在が記されている。「終に佛

閣僧舎の栄構に及びぬ。よって上人これを名付けて一心帰命決

定光明山阿弥陀寺と号せらる。時に本尊を持ばやと思しけるに、

何こともなく老翁一人来り弥陀尊を授けて去る。則ち感得本尊是な

り。」(『絵詞色)-とあり、当寺創建時の本尊佛であったと思われる

 地蔵菩薩坐像
 鎌倉時代身丈三三,三三㎝

木製。制作者不明。補修のためか手が加えられた部分があるが
本体は鎌倉時代の作。今回の調査で価値のあるものと判
明。
衣に顔料で
模様が盛られているなど丁寧に作られている

虫食い、顔料の剥離など損傷が激しい

開山作鎌佛弥陀立像
 江戸時代初期 像高九·七0㎝

木製。全体が赤茶色に塗られている。本体正面には「南無

阿弥陀佛(花押)」と見得る墨書きがある。厨子本体は、安

永六年(一七七七)に『絵詞伝』の編者である宅亮(安蓮誓

信阿宅亮)が、彼の母の五十回忌を弔って造立したもの。

『絵詞伝』『伝翼賛』共に「鎌佛」として存在が記されてい

る。「又、近きあたりの樵夫或時巌窟に詣ければ、持ちたる

鎌にて弥陀の像を作りて与え給ふ。これを鎌佛といふ。近在

の民家往々にこれあり 当山にも或人の許より寄附したるあ

り。

これ又質素の古風なり。」(『絵詞伝』)とあり、厨子の裏書

にも「開祖法國光明佛弾誓上人真作」と記されるように彈誓

上人の作とされる。

       
     

古知谷のカエデ

阿弥陀寺は、慶長十四年(一六〇九)に弾

誓上人により創建されたが、寺の伝えによれ

ば、このカエデ(タカオカエデ)はその時、

既に古木であったという。

タカオカエデはイロハモミジともいわれ,

本州(福島県以西) ·四国·九州の山の谷間

によく見られる落葉高木で、春の若葉、秋の

、秋の

紅葉はことに美しい。阿弥陀寺周辺の古知

谷は、紅葉の名所として知られるが,ごのカ

エデは古知谷の数あるカエデの中で最大のも

のであり、幹に多数の支根がからみつく特異

な形状とあわせて古木の風格を感じさせる。

昭和五十八年六月一日京都市指定天然記念

物に指定された。

 
 
崇神天皇陵 櫛山古墳 アンド山古墳 南アンド山古墳
 動画    新緑の阿弥陀寺⇒⇒⇒
  全動画⇒⇒⇒ 































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