第31代 用明天皇(ようめい)地図

欽明天皇(第四皇子)
蘇我堅塩媛
誕生…540年(欽明天皇元年)
御名・異称…大兄・橘豊日尊
皇后穂部間人皇女(あなほべはしひと)
立太子━━
即位…582年(敏逹天皇14年)9.5  在位年数…2
崩御…587年(用明天皇2年)4.9  年令…48才
皇居…磐余池辺双槻宮(いわれいけべのなみつき)  年号…━━

用明天皇は異母妹である穴穂部間人皇女を皇后とし、四人の男が生まれた。長男が厩戸皇子(聖徳太子)で、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子である。
○欽明天皇の皇子の穴穂部皇子が、敏逹天皇の喪に服して殯宮にいた敏逹天皇の皇后炊屋姫皇后を奸(おか)そうとして、無理に入ろうとしたところ、敏逹天皇寵臣三輪逆(みわのきみさかわ)がどうしても入れてくれないので、殯宮の中を見たいだけなのに中に入れてくれないので殺したいと蘇我馬子と物部守屋に告げ、了解をとりつけ、行動に移そうとした。穴穂部皇子はいさめられてやめたのであるが、守屋が逆を斬殺してしまった。これを知った馬子は、いたく悲しみ、人情も何もない世の中になったというと、守屋は馬子のことをさげすんで「小臣」の知らないことだといい、ついに馬子と守屋の間に大きな亀裂が入ることになり、一触即発の形態となった。
○天皇は病弱であったらしく、仏教に帰依して逃れようとしたが、これに守屋大連と中臣勝海連が、国つ神にそむいて、なぜ他神を敬うのかといって従わず、自宅に兵を集めて対抗しようとしたが、勝海は斬殺された。
鞍作多須奈(くらつくりたすな)は病気の天皇のために出家し、南淵にある坂田寺の木製の丈六仏像と脇侍菩薩を作ったという。鞍作氏が、仏像製作に関与した例である。
天皇と宮の名⇒⇒⇒
寺川と飛鳥川流域⇒⇒⇒
竹ノ内街道⇒⇒⇒
陵墓陵(かわちしながのはらのみささぎ 春日向山古墳)  方墳
所在地大阪府南河内郡太子町大字春日字向山
○聖徳太子墓のある福寺の東南に位置し、周湟(しゅうろう)を有する方墳である。一辺約50mの規模で段築が認められる,飛鳥の石舞台古墳と類似する古墳で、上円下方墳の平面形をとる可能性が強い。主体部は、巨石を使った横穴式石室と推測される。最初に方墳を採用した天皇陵である。
○周濠の外側に外堤を築き生垣に囲まれているが、これが近世の修陵の際の築堤が造営当初からのものかは未詳である。しかし、周辺地形をよく観察すると、御陵の北・西側に一定の幅を有する凹みが認められ、これが外湟痕跡ではないかとも考えられる。さらに外側に外堤の存在も推定できる。
○用明天皇は当初大和の磐余池上の故陵に葬られたが、後に現陵に改葬された。