方広寺地図

 秀頼の大仏再建で大仏はほとんど完成したが、慶長19年(1614)、
家康が突如開眼供養の延期を命じた。
これが世にいう「鐘銘事件(しょうめいじけん)」の発端である。

江戸の栄華と、明治の反動⇒⇒⇒
日本三大梵鐘の一つ(知恩院東大寺)重文
 鐘銘事件とは、豊臣秀頼が大仏再建の際に鋳造した釣鐘の銘のうち
「国家安康」の部分が家康の胴を切るものだとして家康が難癖をつけ、
これをきっかけに大坂の陣が開戦した事件である。
 豊臣家滅亡後も鐘は残され、方広寺に現存している。
「君臣豊楽(左上)」「国家安康(右下)」
本堂
天台宗
開基 木喰応其上人(もくじきおうご)
方広寺大仏殿正面
 天正14年(1585)、豊臣秀吉は洛東阿弥陀ガ峰の下に、奈良の大仏に匹敵する大仏を建立することを計画、高さ6丈3尺(約19m)の木製金漆塗坐像大仏を造営した。(東大寺より一回り大きい) 尺貫法⇒⇒⇒
 大仏殿は西向きに建てられ、境内は、現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の三ヶ所を含む広大なものであった。
 南北88m、東西54m、高さ50mとされ、木造建築では世界最大。
 方広寺は大仏殿を管理する寺として豊臣秀吉に創建された。現在は鐘楼と鐘が残り、本堂には大仏眉間仏や十分の一に縮小した大仏(阿弥陀如来像)が安置されている。方広寺追加⇒⇒⇒
 大仏は落成をいそいで木像とし、金漆を塗り五彩をほどこしたものであったというが、完成翌年の慶長元年(1595)の大地震でつぶれたまま、再建のできないうちに秀吉が没したので、徳川家康は淀君と秀頼にすすめて再興させた。慶長17年(1612)春、仏殿・殿堂などが完成し、大仏は木造仏を改めて金銅仏とし、高さ19mあったという。(50年後地震で壊れた。木像の3代目は1798年に落雷で灰燼に帰した。1843年に寄進された木像半身像も1973年に焼失した)同19年3月秀頼は下野国佐野郷天明里(てんみょう)の鋳工に大鐘を鋳造させ、南禅寺の清韓に命じて銘をつくらせた。そして、同年8月まさに落慶供養(らくぎょうくよう)を行なおうとしたとき徳川家康は鐘銘中の「国家安康」の一句に言いがかりをつけて法会を中止させ、ついに大阪夏冬の陣を生じ、豊臣氏の滅亡を招くにいたったことは有名な話である。消えた大仏とは対照的に、長く京の町を見守ってきた。いまこの鐘は豊国神社北門前の鐘楼にかかっている。
 東大寺の大仏をしのぐ規模だったとされる。安土桃山時代を代表する宗印の作。