南禅寺地図
境内にれんが造りの水路閣 | 若王子から銀閣寺までの「哲学の道」にも通じている水路閣 | ||||||
明治の半ば(明治18年起工、23年竣工)、琵琶湖から水を引き、発電し市電を動かし、疏水の舟運で使われたインクライン(傾斜鉄道)等 の水の利用等と、京都の街を発展させようと「琵琶湖疏水」が計画された。 時代の流れからつくられたとはいえ、寺院の境内にれんが造りの建物を通すという、今の時代では考えられないちぐはぐなことをよく成し遂げた。 然し、今やれんがも時を重ねて落ち着き、桜や紅葉と調和するこの風景は、周囲にすっかりなじんでいる。 江戸の栄華と、明治の反動⇒⇒⇒
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全長93m、高さ5〜8m、幅4m、のアーチ橋。水路の高さを維持するために水道橋が築かれた。今でも毎秒150リットルの水が流れる。 | |||||||
当初は、永観堂側(南)は若王子山中から南禅寺(北)は山の中へ水路を掘る予定であったが、着工寸前に南禅寺側の中に亀山天皇の 分骨場があることが判明した。この事によって現在の南禅寺の境内に水路橋が建設されることになった。 |
京都のほかの川と逆行し、北上する分線は、高低差を探るように、山際のルートが 決まった。 南禅寺に、橋上に水を流す水路閣を建設した理由は、亀山法皇の御廟の地下に水路 を掘る不敬は、許されなかった。 |
上御霊神社 |
臨済宗南禅寺派の大本山。山号:瑞龍山(ずいりょうざん) 正しくは、太平興国南禅寺。 本尊:釈迦牟尼仏 前身は、亀山天皇が1264年に大宮院(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮・禅林寺殿(どの) 開山:無関普門 1334年、京都五山の一位となった。その後、1386年足利義満によって、五山の上とされ興盛した。 離宮禅林寺殿に夜な夜な物の怪が現れ、故なくして戸障子があき、人の気配が感じたりしたので、仕えていた延臣・女官 たちが悩まされた。 亀山法皇は、この物の怪に対し、時の高僧妖怪退治で有名な西大寺の叡尊に加持祈祷を行わせたが効果はなかった。 そこで、中国より帰朝して名声の高かった東福寺第三世無関普門を招いて物の怪の排除を依頼した。 禅師は直ちに東福寺より弟子20人を率いて禅林寺殿に参じ、規律に乗っ取り、二時の食事、四回の座禅、作務をするだけだった。 ただ通常の行事を行うだけで物の怪はおさまった。 禅宗の宗旨の簡明さと禅師の徳とに深く帰依され、以後師事した。亀山法皇の発願によって、禅寺の龍安寺禅林禅寺(りょうあん) としたのが南禅寺のはじまり。 |
太平興国南禅寺,臨済宗南禅寺派大本山
この地は摂政関白に昇った九条道家の子で,三井寺の「駒の僧正」 とよばれた道智が最勝光院を建てて住んだ所である。 亀山天皇がここを離宮としたが, 1291 (正応4) 年に離官を 改めて禅林禅寺とし,これが南禅寺の起源とい う。 |
三門(重文) 京都三大門の一つ | |
三門の由来 この三門は、伊勢伊賀の領主藤堂高虎公が大坂夏の陣で戦没した藩士の霊を弔うため、寛永5年(1628)に藤堂高虎が建立寄進 され禅宗式大楼門で、また天下竜門という。 楼上には宝冠釈迦如来坐像を本尊として、その脇には、月蓋長者、善財童子、左右に十六羅漢を配置、本光国師、徳川家康公、 藤堂高虎公の木像を中心として一門の重臣の位牌、戦没藩士の位牌等が安置されており毎年法要が行われる。 |
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五右衛門の舞台では三門のまわりは桜の花盛りだが、ここの松や桜の木は年輪をかさねていない。それは、歌舞伎に刺激されてあとで植えられたのではないかと言われている。
石川五右衛門の死後30年の建造で,五右衛門が楼上で「絶景かな」と称賛したというのは俗説である。 |
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三門 | |
三解脱門 左から空門、無相門、無作門とそれぞれ解脱を志す人によって門を入る場所が異なる。 | |
5間 3戸 2階 二重門 入母屋造り 本瓦 両側に山廊。 | |
上楼を五鳳楼と呼び、内部は極彩色で狩野守信、絵所土佐法眼徳悦の絵で飾らている。 家康・高虎の木像および藤堂家累代その家臣の霊牌がある。 |
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三門は石川五右衛門が「絶景かな絶景かな。春の詠(なが)めは価(あたい)千金とは小さなたとえ、 この五右衛門が目からは万両・・・」と見得を切るという歌舞伎の場面でしられている。 しかし、この話は完全なフィクションであって、三門ができたのは五右衛門の死後であるらしい。 入母屋造・本瓦葺で、、五鳳楼と呼ばれる上楼の天井画はは狩野探幽筆の「天人・鳳凰図」である。 |
法堂(はっとう) | |
正応4年(1291)に亀山法皇がみずからの離宮を寺に改め創建した。臨済宗南禅寺派の大本山であり、 室町時代には京都五山の上の格を与えられ、禅宗諸寺院の中で寺勢を誇った。 豊臣秀吉の寄進した法堂は明治28年焼失して、同年42年現在の物が建立された。 天井の龍図は今尾景年畢生の大作。 |
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後醍醐天皇による臨済宗寺院の五山制度の設定。 至徳3年(1386)足利義満によって京都・鎌倉両五山の上に位置する五山の上位として、室町期禅宗界の最上位に位置付けられた。 |
方丈 大方丈と小方丈からなる。慶長16年(1611)に内裏の建築物を 移築されたもの。 |
六道庭 |
方丈庭園 | |
庭は俗に虎の子わたしと呼ばれる。塀の東南隅に主石を置き、さらに塀に沿って段々と小さい石を配す。 塀際に松・椿・楓・サツキなどの樹木を植える。それ以外は白砂を敷いている。もとは竜安寺制定と同じく 砂と石だけの庭園であったらしい。小堀遠州作と伝えられている。 |
東照宮(重文) | 金地院 |
金地院祟傳長老が徳川家康公の遺命に依り 寛永5年創建し、公の遺髪と念持仏とを奉祭す。 建築様式は本殿・石之間・拝殿からなり 所謂権現造り様式である。 |
南禅寺塔頭の金地院は、 徳川家康に重用された金地院崇伝により 江戸時代初期に整備された。 |
金地院は南禅寺三門の南西にある。もとは南 帰依をうけて応永年間(1394 (慶長10)年頃現在地に移し再建した。崇伝は幕政に参画して絶大な勢力をもち,寺領1900石, |
金地院庭園 |
三門の入り口通常の出入りはこの状態。住職が代わり新しい住職の時に横木は外される。 |
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東洋一の灯籠 佐久間勝之 高さ6m 日本三大石灯籠 上野東照宮 熱田神宮 |
勅使門(重文) 三門の正面に立つ総ケヤキ造りの四脚門。切妻造り 檜皮葺き。 |
寛永18年(1641)御所の日の御門(ひのごもん)と築地 とともに明正天皇より拝領。 正背面の上部の虹梁や扉の上には、龍・麒麟・孔雀・鶏などの動物 や、松・牡丹・雲・波などの彫刻を装飾性豊かに飾られている。 |
南禅寺の財政的な基盤は、亀山法皇の開創当初から磐石だった。 この寺は皇室とともにあると述べ、寺領を寄進した。 寺の住持というのは師匠のあとを弟子が継ぐが、亀山法皇は、全国から募ることを決めた。その決まりごとを十方住持制という。 このことは、つねに優れた逸材が座りつづけるということと、どの寺の末寺にもならなくてすんだ。 財政的にも人材の面でも磐石だったのに加え、政治的にも強力な後ろ盾があった。後宇多天皇や後醍醐天皇など、亀山法皇からはじまる大覚寺統の天皇が南禅寺をささえていたからだ。 後醍醐天皇は、建武の中興ののちに南禅寺を大徳寺と並ぶ、五山の第一としたという。 しかし、建武の中興はわずか二年半で足利尊氏につぶされてしまい、天皇はやむなく吉野に遷幸して南朝をたてた。こうなると、南禅寺と大覚寺統との縁は切れてしまうことになる。 このとき、南禅寺の苦境を救ったのが十方住持制だった。この制度によって、後醍醐天皇が関東から夢窓疎石を呼んで南禅寺九世の住持とした。これが幸運につながる。足利尊氏の深い帰依を受けることになったからだ。 尊氏が政権を掌握すると、武士創建の鎌倉寺院を中心とした序列とした。こうなると、亀山法王からはじまる南禅寺は不利である。 ところが、南禅寺の地位は五山の第一のままで、まったく揺るがなかった。それは、、尊氏が夢窓疎石に帰依していたからである。 |
南禅院 水路閣を潜って石段の上にある。 応仁の乱後久しく荒廃していたが、元禄16年(1703)徳川綱吉の母桂昌院らの寄進により再建された。 方丈中央には南北朝時代の作とみられる亀山法皇の御木像(重文)が安置されている。襖絵は狩野常信とその子 如川、随山の作である。池泉廻游式庭園。 |
懸魚(げきょ)
三花 | 梅鉢 | 蕪(かぶら) | 猪目(いのめ) |
南禅寺の懸魚は五山の第一ということで、異なる種類のものがある。 |
南禅寺の近くにある湯豆腐発祥の料理店 |