若狭神宮寺地図
若狭彦神社地図
若狭姫神社地図

 お水送りは、若狭彦神社と若狭姫神社と密接なつながりを持つ若狭神宮寺が担っている。
3月2日は午前中から行事があり、日が暮れると若狭神宮寺で法要や大たいまつを振る達陀(だったん)の行が続く。
午前8時過ぎ、境内の大護摩に火がつけられる。参拝者は手たいまつに炎を移し、山伏姿の行者や白装束の僧侶を
先頭に、遠敷川上流の鵜の瀬まで 約1.8kmを歩く。鵜の瀬に着くと、ほら貝が響く。炎が川に映る。
住職が送水文という祝詞(のりと)を読み上げる。刀を振って邪気を祓い、寺の井戸でくんで竹筒に入れた香水を川に
注ぐ。
 お水取りを創始した奈良時代の僧・実忠和尚が若狭神宮寺に身を寄せていたこともある。
  笠置寺⇒
 752年から途切れずに続くお水取りと違い、お水送りの始まりは判然としない。室町時代に始まったという伝承もある。
1961年に講社を結成して大々的に営むようになった。地下水脈の伝説は地域に根付いている。
 お水送りは東大寺修二会に組み込まれた公認行事ではないが、祭りが縁で奈良市と小浜市は1971年に姉妹都市に
なった。
   
 鵜の瀬
地図 
 鵜の瀬 
  閼伽井戸からくみ取られた水を鵜の瀬の穴に注ぎ込むと、奈良東大寺
若狭井に通じる。
 穴は写真中央にあり、竿を差し入れても、どこまでも入っていく。

お水送り⇒⇒⇒
 
 霊域 鵜の瀬
 若狭一宮 彦の神 姫の神 降臨の地

若狭彦神社
若狭姫神社 飛地境内 
遠敷川 鵜の瀬 鵜の瀬
3月2日お水送りの神事
 天下太平と五穀豊穣を祈願する「山八神事」が始まり、夜、神宮寺から松明行
列が出る。
ほら貝を手にした山吹姿の男性を先頭に1.8km上流の遠敷川鵜の瀬に向かう。
三角頭巾・白装束の僧侶らがかがり火を焚き、河岸に立つ。神宮寺の住職が「
送水文」を奏上、竹筒に入ったお香水を清流に注ぎ、来る春を呼ぶ行事を終える。
 天平の昔、若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれたインド僧実忠和尚が大仏開眼
供養を指導の后天平勝宝4年(753)に2月堂を創建し修二会を始められ、すべての神々が参列さ
れたのに若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず、ようやく2月12日(旧暦)夜中1時過ぎに参列さ
れた。それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊への

お香水の閼伽水(あかみず)を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび
出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井の名付けその水を汲む行事が始まり、それが有名な「お
水取り」である。その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐって
いったと伝える。この伝説信仰から地元では毎年3月2日夜この淵へ根来八幡の神人と神宮寺僧が
神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。
 仏が神を守るという神宮寺が神社の境内や近くに建てられた。第1号は藤原武智麻呂が福井県
に715年、創建したとされる気比神宮寺。以後、全国各地で神護寺、護国寺などの名でも造営さ
れた。
 祭神を仏教の如来などにあてはめる。
 古来神々とともに生きる日本列島の人々には仏教は異教であった。受け入れるまでには苦難が
あったが、蘇我氏などの尽力で飛鳥に仏教文化が開けた。国教となった奈良時代に仏と神は一心
同体という共存と融合がなされた。
神宮寺 本堂 お水送堂
地図
閼伽井戸
天台宗
本堂
 入母屋造 檜皮葺 室町時代末期
神宮寺 
 当寺は元明天皇の和銅7年(714)若狭彦神の祝部和朝臣赤麿の開創にかかる。
神仏両道の寺で、最初赤麿公岳崇拝によって神鈴天降る長尾明神と祀り山麓に寺を
開き鈴応神願寺と称し元正天皇の勅願所となった。その秋白石に天降られた若狭彦姫神
を不動坊の森に迎え本地垂迹の神仏を安置し鎌倉時代に至り若狭彦神社の別当寺と
なって根本神宮寺と改め号することになった。当時鎌倉将軍祈願寺の七大寺に加えられた。
  東大寺二月堂へ水を送る(3月2日)水源の井戸。
 ここで汲まれた水を鵜の瀬に運ばれる。
 
 戦国時代末山内桜本坊に若狭守護職武田元明をかくまって秀吉に寺領奪われて衰微
し更に明治維新廃仏毀釈によって神社を撤去させられ現在はわずかに本堂・遠敷明神社・
開山堂・北門(仁王門)・大師堂・大膳院を残すのみである。 
 
 閼伽井戸




若狭彦神社
 多田ケ岳山麓にあり、上社(若狭彦神社)と下社(若狭姫神社)からなる。総称して「若狭彦神社」または、「上下宮(じょうげぐう)」とよばれている。
 若狭彦(山幸彦)と若狭姫(豊玉姫命)は遠敷郡下根来村白石の里(おにゅうぐん、しもねごろむら)に示現(じげん)したといい、その姿は唐人
のようであったという。
 和銅7年(714)9月10日に両神の示現した白石の里に上社が創建され、翌年の9月10日に現在地に遷座したという。
 神の紋は、「宝珠(ほうしゅ)に波」の紋である。これは山幸彦が海神(かいじん)の御殿(龍宮)で手に入れた二つの珠、「潮盈珠(しおみつたま・
潮満玉)」と「潮乾珠(しおふるたま・潮干珠)に因んでいる。
若狭彦神社上社
地図
若狭彦神社上社 
若狭国一宮 延喜式明神大社
若狭彦神社上社 二の鳥居
 若狭彦神社は若狭彦神社(上社)と若狭へ眼神社(下社)の二社に分かれているが、当神社は上社として
奈良時代の霊亀元年(715)に鎮座された。
一の宮

祭神 若狭彦大神(彦火火出見尊)
 下社を併せて若狭彦神社とも上下宮ともいう。
 海幸山幸の神話の彦火火出見尊を若狭彦大神とたたえて奉祀する。

 参道に聳える二本の大杉は二の鳥居と考えられる。

 ここより北方1500mの遠敷(おにう)の里に下社がある。当神社より6年の後養老5年に鎮座され
豊玉姫命
を若狭姫神としてたたえて祀る。
 両社を併せて上下宮(じぉゆげぐう)とも若狭一宮とも総称されるが、平安時代の延喜式にも明神大社
として記載された若狭の国きっての格式の高い古社でる。 
 
 夫婦杉


若狭姫神社
 東大寺から真北へ90kmのところにある。若狭姫神社が遠敷明神と呼ばれていた。
若狭彦神社とともに若狭一の宮 と称される。
、若狭姫神社(若狭一宮下社)
地図
楼門 子種石
祭神 若狭姫大神(豊玉姫命

延喜式明神大社
 海幸山幸の神話で名高い。豊玉姫命がお祀りしてある。祭神彦火火出見尊との間に、
鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)とたたえる御子神がある。(若狭一宮上社の境内社に奉仕)
   また、若狭姫神社、遠敷神社とも称し、上社を併せて若狭彦神社とも、上下宮とも称えられる。  
  この陰陽石に祈れば、子宝に恵まれ、女性に恋と安産を授けられる。  
   
見返り鳥居