泊瀬朝倉宮

白山神社 地図

     
 白山神社という小さなお宮があり、その玉垣の内側に泊瀬朝倉宮伝承地(はつせのあさくらのみや)の立札が立てられている。
雄略天皇は、晋書、宋書など古代中国の史書にみえる倭五王(わのごおう)、讃、珍、済、興、武の、武王にあたるといわれており、
書紀では大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)と呼ばれている。

 
     
万葉集の最初の歌、萬葉集發燿讃仰碑(まんようしゅうはつようさんごうのひ)
 
籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み堀串持(みぶくし)ち この岡に 
菜採(なつ)ます児 家聞かな告(の)らさね そらみつ 大和国は おしなべて 
われこそおれ しきなべて われこそませ われこそは 告らめ 家をも名をも
 巻1−1 雄略天皇
万葉集⇒⇒⇒
 籠を持ち、堀り串(へら)を持ってこの岡に菜をつんでいらっしやるむすめさんよ。
お家はどこですか。名をおっしゃい。この大和の国はすべてわたしの治めている家だ。
私にこそおっしゃい。家をも名をも。


黒崎天の森  地図
   
途中泊瀬朝倉宮跡伝称地 の碑がある。さらに奥まったところに
下の写真の所に至る。
   
 上の写真から更に登っていくと石で囲ったところに伝承地碑が立っている。文字はほとんど消えて判読できないが、
泊瀬、宮跡らしき文字が残っている。
   
  隠口(こくもり)の初瀬の谷のなかで、周りは雑草で視界は悪いが、これらの雑草を刈り取ると 、右の写真の連山が開ける。
高台にあり見晴らしはよいが、宮となる土地が狭いので、実際の宮はもう少し下の方、白山神社辺りから脇本遺跡に
かけてあったのではないかと思われていた。



脇本遺跡地図

 奈良県桜井市の脇本遺跡で、5世紀後半(古墳時代中期)に築かれたとみられる池状の遺構と大規模な石積の
護岸が見つかった。(2012−9−24)
 約100m北東では雄略天皇の宮殿「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」とみられる同時期の大型建物が確認
されており、宮殿の周囲に巡らされた堀だった可能性が指摘されている。
 2012−9−25 朝日新聞
   
脇本遺跡第18調査現地説明会より
 脇本遺跡は奈良盆地東南部、外鎌屋山(とがまやま)と三輪山に挟まれた初瀬谷の入口に立地する。この地は、
雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)の推定地である。今回検出された池状遺構と石積遺構は、
宮に関連する施設の可能性がある。
 出土した土器の年代から、5世紀後半に築造され、6世紀後半に廃絶したと考えられている。 
 脇本遺跡では、磯城・磐余の諸宮調査会による第1次調査から第5次調査において、
100m四方に造成された平面図上で、5世紀後半・6世紀後半・7世紀後半の3期にわたる大型建物や柵が検出されている。
この内、正方位に並ぶ柱穴は7世紀後半とされ、天武天皇の皇女である大来皇女(おおくのひめみこ)が伊勢神宮に奉仕するため
、泊瀬斎宮(はつせいつきのみや)で心身を清めたという日本書紀にみえる記録との関連が注目される。

日本書紀 天武天皇紀2年
 夏四月の丙辰の朔己巳に、大来皇女を天照太神宮に遣侍さむとして、泊瀬斎宮に居らしむ。是は先ず身を清めて、稍に
神に近づく所なり。
       
石積遺構の一番下には、基底石(きていせき)という他の石よりも大きな石を横置きしている。 
石を積み上げる際には、まず基準となる石を先に並べた。
 
     
 溝  竪穴建物 竪穴建物