第29代 欽明天皇(きんめい)地図

 
欽明天皇のころには、百済から仏教が正式に伝わるなど、後に開花する
飛鳥文化の源ともなる時代であった。
 
父…継体天皇(第四皇子) 
母…手白髪郎女
誕生…509年(継体天皇3年)
御名・異称…天国排開広庭尊尊
皇后…石姫皇女、
皇妃…蘇我堅塩媛、蘇我小姉君

立太子…━━
即位…539(宣化天皇4)12.5  在位年数…32
崩御…571(欽明天皇32)4.15  年令…63才 
皇居…磯城島金刺宮  年号…━━
〇安閑・宣化両天皇の同母弟である。
〇仏教伝来が特記され、「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺縁起」によると戌午年に百済の聖明王が仏像と経 論を朝廷に贈り、仏教が公伝されたことを記している。
〇朝鮮半島の経営と文物の導入にも力を注いでいる。例えば、百済に兵1000人、馬100匹、船40隻を贈り、倭・百済と共同で新羅と戦い、百済聖明王の戦死を伝えている百済から医、易、暦博士の来朝も伝え、遠くは扶南の財物も献られている。このように外国との外交も頻繁であったので、館舎を用意していたことも見える。
天皇と宮の名⇒⇒⇒
陵墓…檜隈坂合陵 (平田梅山古墳)   前方後円墳
所在地…奈良県高市郡明日香村大字平田
〇西面し、丘陵の南斜面を利用して造営されている。周濠を有し、全長138m、前方部幅108m、後円部径73m、の規模で、その比は1対1.5となり、明らかに古墳時代後期の産物である。

〇推古天皇28年に「砂礫を以て檜隈陵の上に葺き、域外に土を積みて山を作り、氏毎に課して大柱を土山の上に建てしむ、時に坂上直が樹つる所の柱、勝れて高し、時に直を呼びて大柱直と曰う」とあり、この時点で墳丘にかなりの修陵が加えられたと思われる。⇒近くに大柱があった痕跡がある。
〇元は南側の池田の地にあった猿石を陵上に移し、現在陵西の堤上にある古備姫檜隈墓に樹立して保存されている。

〇「日本書紀」や「延喜式」の記載内容とほぼ一致し、南側は二重濠であったことから現陵を肯定する説と、元は双円墳であったものが1861~1864年(文久年間)の修陵に際して、前方後円形にしたからという否定説がある。天皇陵の改造⇒⇒⇒
古墳⇒⇒⇒
寺川と飛鳥川流域⇒⇒⇒
 「日本書紀」によれば、欽明天皇の妃で、推古天皇の母,堅塩媛(きたしひめ)を推古20年(612)に合葬し、
28年(620)10月には砂礫を檜隈陵の上に葺き、土を積みて山を成し、氏ごとに大柱を土の上に建てさせるという記事が見える。
 この事の解釈は、丸山古墳被葬者にも関わってくる。丸山古墳を稲目の墓と考えた場合、石棺の年代からみて、稲目に相応しいのは
前棺である。すると、前棺よりも新しい奥棺が娘の堅塩媛が葬られた可能性が考えられる。そして推古20年に軽で盛大な儀式
を行った後に檜隈の欽明陵へ改葬されたと考えることができる。
 一方で、丸山古墳を欽明陵とみる説に立てば、堅塩媛は最初の埋葬地から軽へ送られて儀式が行われ、丸山古墳に追葬されたと
考えることが出来る。石棺の新旧関係からみると、先に埋葬されていた欽明の棺を前にだし、堅塩媛のために棺をわざわざ玄室奥へ
納めたことになる。
⇒葺石はあった。丸山古墳には葺石はない。
  候補古墳 
稲目  都塚古墳/丸山古墳 
馬子  石舞台古墳 
蝦夷・入鹿  五条野宮ケ原1号/五条野宮ケ原2号墳/菖蒲池古墳 


「今昔物語」によれば、元明天皇陵(欽明の間違い)のまわりに石の鬼形(猿)がある。一旦別に移され現在は吉備吉備姫墓にある。

堅塩媛⇒ 父稲目、弟?馬子、子推古











天皇陵の改造
 安政の大獄のあと、国内では幕府に対する批判の声が強くなり勤皇運動が盛んになった。幕府は朝廷への忠誠の証をしめすため、文久3年(1863)宇都宮の大名の弟、勤皇家でもある戸田大和守を山陵奉行を任命した。戸田大和守は蒲生君平が書いた「山陵志」参考に熱意をもって御陵を修善した。欽明天皇の御陵は円墳であった。欽明天皇は仏教伝来時代の天皇で、日本歴史のうえでだいじな存在である。その御陵が小さな円墳では恐れ多いことと思い横にあったもう一つの円墳をつなげてしまった。従来、この御陵が一番新しい前方後円墳だといわれていた。少なくとも6世紀の終わりまで前方後円墳があったという説もあった。しかし、戸田大和守の日記にはつくったと書いてある。


がもうくんぺい がまふ—「蒲生君平」人
(1768〜1813)江戸後期の尊王論者。名は秀実。宇都宮の人。藤田幽谷と交わり,水戸学の影響を受けた。著書「山陵志」は幕末尊王論の先駆。林子平・高山彦九郎と並んで寛政の三奇人とされる。
大辞林 第三版
 近鉄吉野線飛鳥駅から北東 へ約500 m、明日香村平

田に梅山古墳があります。宮内庁は第29代欽明天皇の

坂合陵として管理しています。墳長142m 、前方部を

西に向けた前方後円墳です。

葺石が備わり、北側が狭く南側に広い盾形周濠がめぐり

ます。段築は南が3段、北が2段になるとみられています。

飛鳥めぐりの散策路が、墳丘を南から見るように通って

います。小字名をツクエと呼ぶ東西に細長い地割が、道に

沿って続きます。自転車では、気づかないうちに通過し

てしまうかもしれませんがツクエは梅山古墳の南側外堤

にあたります。

前方部側の拝所手前から脇道に入ると猿石があります。

謎の石造物として親しまれています。訪れた方も多いでし

ょう。

航空写真を見ると、古墳を囲む丘陵の南側が途切れてコ

の字になっているのがよくわかりぼす。墳丘はそのなかに

造られていほす。飛鳥時代の古墳の特徴で、三方山囲みと

いいます。北方約800mには、五条野丸山古墳の周濠が

見えます。

条野丸山古墳の被葬者が欽明大王(天皇)ならば、梅山古

墳は現在の治定と異なる人物が葬られているということに

なります。

そこで、注目されるのが「日本書紀」の記述です。日

本書紀には欽明天皇陵として、檜隈坂合陵、檜隈大陵

檜隈陵の三つの陵名が登場します。これらがひとつの古墳

であることを疑う人がいます。私もその一人です。

檜隈坂合陵は欽明32 (571)年の欽明大王の葬送記事

に出てくる陵名です。檜隈大陵は推古20 (612)年に欽明

大王の妃、堅塩媛(きたしひめ・蘇我稲目の子)を改葬(追葬)した際

の陵名です。

このとき、軽の術(ちまた)で大規模な誄(しのびごと)

が催されました。誄というのは、故人を偲び語る儀礼

です。軽の術は、南北の道と東西の阿部山田道が出合

うところ、現在の近鉄橿原神宮前駅東出口から国道169

号の丈六の交差点の一帯にあたります。そこからは、五条

野丸山古墳が間近に見えたことでしょう。「大陵」は五条

野丸山古墳のことではないでしょうか。

一方、檜隈陵は推古28 (620)年の記事に出てきま

す。砂礫を葺き、陵域外に土を積んで山を造り、豪族たち

がその上に大きな柱を立てることを競ったとあります。葺

石がある梅山古墳の特徴にふさわしい記事です。

梅山古墳は、南虎定面とした大規模造成で、墳丘の外表

面を石材で飾っています。これらは終末期古墳につながる

特徴です。また、その後に東へつづく飛鳥の王墓群の起点

となる位置にあります。自然地形をそのまほ利用し、盆地

の奥まった場所にある五条野丸山古墳とでは、築造方法

や、葬地に選んだ理由が異なるのではないでしょうか。

私はこの違いを築造時期の差ととらえています。日本書

紀の記述や両者の特徴から、欽明大王の墓は二つあり、7

世紀初めに五条野丸山古墳から梅山古墳に改葬されたと考

えています。

日本書紀に欽明大王の改葬が記されていないので、反

対意見もありほす。しかし、複数の陵名が出てくること

や、奈良·大阪で最終末の前方後円墳が飛鳥地域に2基も

存在する事実の理由を解くには、多くの試案が出されるこ

とが心要ではないでしょうか。
2017-11-3 朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)


天皇陵古墳に限らず、周濠のある古墳では、中にたまる

水の波で墳丘裾が洗われ、長い年月のうちに傷んできま

す。文化財の保全という観点からも課題です。

明日香村平田の梅山古墳では、南側を中心に墳丘裾への

護岸工事が計画されました。

その事前資料を得ることを目的に、宮内庁が1997年、

梅山古墳の発掘調査をしています。全部で18カ所の調査区

が設けられました。調査によって明らかになったことがあ

ります。

前方部前面では、基底部分が良好に残る葺石がみつかり
ました。タイルやレンガの継ぎ目を目地といいますが、

考古学では、葺石を積み上げるときの区切りとなる石材の

並びも目地と呼んでいます。

前方部の南西側の隅の調査区です。
方向の目地があります。それより奥側の半分は楕円形の石

材が使われたのに対して,手前側には厚みのない板石が使

われました。はじめから作業に区別があったのでしょう。

調査中に考古学や歴史学の学会関係者への限定公開があ

りました。板石による施工部は、石舞台古墳の墳丘や外

堤の表面を滑らかに飾る貼石を彷彿とさせるものでした。

飛鳥時代の古墳の特色のひとつが部分的とはいえ、梅山古

墳には認められます。

前方部前面でみつかった葺石の最下段(基底石)をつな

ぐと一直線になります。ただ直線に仕上げただけでなく、

正確に南北方向を指すことが明らかになりました。飛鳥時

代の寺院や道路、宮殿では、方位を正しくすることに配慮

して造られた例が多くあります。古墳としては、ひときわ

早い例です。

南側のくびれ部には、周濠に向かって長さ約7m分が突

き出た造り出しが備わります。上面の幅約11m、高さ1.5 m。
上面にはこぶし大の
円形の石が敷かれていたと推

測されています。

古墳時代後期後葉から末葉(6世紀後半)の須恵器の

杯、高杯、甕(かめ)が出土しています。
造り出しで行われたなん
らかの祭祀に用いられたもの

でしょうか。埴輪と考えられる小さな破片の出土もありま

した。でも、埴輪列となって墳丘全体をめぐるような状態

ではありません。

元の地形を知る手がかりもありました。東側の後円部か

らくびれ部までの調査区では、本来の丘陵尾根の基盤層

山が確認されました。

一方、西側は前方部に向かって基盤層が下がるため大規模

に盛土されています。

2010年には県立橿原考古学研究所が西側の丘陵先端

を発掘調査しています。現在の地表面の下に大規模な盛土

が確認されました。厚さは約2.5m以上あり、宮内庁の

調査所見にも合致すると考えます。

古墳の周辺を含む大規模な土地造成も飛鳥時代(7世

紀)の終末期古墳の特色です。しかし、造り出しの存在

やそこでの祭祀,埴輪の存在、また須恵器などが示す年

代観は、古墳時代後期に築造の一端があることを示してい

ます。完成や葬送に時間を費やした可能性も考えられま

す。梅山古墳は、後期古墳と終末期古墳の双方の特色を持

っています。時代の転換点に築かれたということでしょう。
  2017-11-10  朝日新聞
 
(関西大非常勤講師今尾文昭)








































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