在原神社地図

在原業平河内通いの恋道出発の地八里
←伊豆七條←北標生←鉾立←在原
←法隆寺門前←今国府←馬司
←信貴山←龍田←並松←大和高安
河内高安←十三峠
祭神 阿保親王 在原業平
 在原神社が鎮座するこの地には、明治9年(1876)まで在原寺という寺院があり、本堂・庫裏・楼門等が並んでいた。
在原寺の創立は承和2年(835)とも元慶4年(880)とも言われ、後者の説を採る「寛文寺社記」には在原業平の病没
後に其の邸を寺としたとの記述がる。
 在原寺の井筒を「伊勢物語」にみえる「筒井筒」の挿話の舞台とする伝承もここから生まれたと考えられる。
在原業平(825〜880)は平安前期を代表する歌人で、六歌仙にも選ばれている。
従四位下右近衛権中将まで進み、在五中将とも呼ばれていた。
 古今和歌集仮名序に「その心あまりてことばたらず」とあり情熱的な和歌を得意とした一方、漢詩文は不得手だったよう
である。
阿保親王は平城天皇の皇子で業平の父親にあたり、承和2年創立説では在原寺の創立者ともされる。
 現在の社殿は大正9年に改築されたものであるが、もとは紀州徳川家が寄進した立派なものだったといわれ、遅くとも
江戸時代には寺と神社が共存していたようである。
 在原業平が紀有常の娘と居を構えた地と伝えられる。元は在原寺と業平神社があつた。在原寺の創建は平安時代
の初め(9世紀)、在原寺は明治初年まで本堂、庫裏、楼門などがあった。境内には業平が幼少期に妻と遊んだとされる
井戸(筒井筒)がある。在原神社の西には業平が高安の地に住む女性のもとへかよった際に通ったとされる業平道
(竜田道)が伸びている。
 標石の表に在原寺、裏に在原神社と彫ってある。
 寺は明治維新で廃寺となった。江戸時代までは、本堂、庫裏、楼門などがあり、在原千軒といわれるほど人家が建ち
並んでいたといわれている。

在原寺跡:在原氏の氏寺

和州在原寺の縁起では、東の平尾山には光明皇后が

開かれた補陀落山観音院本光明寺(現在の姫丸神社近辺)があり(本尊・聖武天皇

御縁仏の十一面観音) 、阿保親王(第51代平城天皇の子)はこの観音を信心した

おかげで在原業平が生れたと信じ、承和2(835)年、光明寺をこの地に移して、

本光明山補陀落院在原寺と称した。その後に書かれた「寛文寺社記」には、元慶4(880)に業平が病没し、

邸を寺にしたとある。天文23(1554)年の『吉野詣記』や、延宝9(1681)年の『和州旧跡幽考』には、

寺領は僅かに五石だが、本堂、庫裡、楼門などがあり、近在は在原千軒と呼ばれるほど人家が建ち並ぶと

記す。その後、在原寺は廃寺となり、本堂は明治初年に大和郡山市若槻の西融寺に移されたが廃寺となる

境内では今も、業平の作と伝わる伊勢物語に歌われた

「筒井筒ゐづつにかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹

見ざるまに」の歌や、伊勢物語をヒントに作られた謡曲「井筒」にちなむ「筒井筒」「一むらの薄」の石標、

松尾芭蕉の句碑などを見ることが出来る。

また、業平が河内の高安まで通ったという「業平道」の

一部が今も神社の西の方に残る。社殿大正9年修理改築、遅くとも江戸時代には寺と神社が共存していた。

謡曲「井筒」と在原寺
 在原業平は兄の行平と共に在原姓を名のって巨籍に入っている。
女性遍歴も多彩で「伊勢物語」のヒーローとされている。その業平と昔契った井筒の女(実は紀有常の娘)が現れ、
業平との在りし日の交情を物語るのが謡曲「井筒」である。
 謡曲の舞台となっている大和国石上の在原の旧跡が当所だといわれ、曲にゆかりの深い井筒の井の跡もかす
かに残っている。
 曲名の井筒の井は井戸の地上の部分を木や石で囲んだもののことで、本来は円形であるが方形のものもある。
紀有常の娘が幼時、背丈をこの井筒で業平と計りあったといわれる。
百人一首⇒⇒⇒
人物⇒⇒⇒
業平道 一部⇒⇒⇒ 天理櫟本の自宅から河内高安の姫の元へ通った道。
謡曲⇒⇒⇒