本堂(重文) | 南門(重文) | 鐘楼(重文) | 護摩堂 | ||||||||||||||||||||
光明宗・総国分尼寺 本尊 十一面観音立像 国宝・木造、平安時代初期(9世紀前半) 光明皇后をモデルにしたと伝えられる。本堂厨司に安置されている。 木彫維摩居士坐像(国宝) 伝梵天像頭部(重文) 阿弥陀三尊(国宝) 童子像(国宝) |
木造十一面観音立像 (佐保路の秘仏と寺宝展 ポスターより) |
||||||||||||||||||||||
藤原不比等の居宅であったが、光明皇后(701〜760)が伽藍を建てて法華滅罪之寺と称し、 総国分尼寺として墾田一千町をたまわった。 平安遷都とともに衰えたが、豊臣秀頼の再興によって結構を保った。 しかし、堂塔境内は縮小されたが、いまも女人修養の道場の品格をそなえている。 中宮寺、円照寺と並ぶ大和三門跡寺院の一つである。 |
|||||||||||||||||||||||
木彫維摩居士坐像(国宝)について 麻布と漆を貼り重ねた乾漆像とされていたが、]線CT撮影で木彫像と判明した。 奈良時代の姿をよくとどめた像と評価されている。 高さ90.8cm眉をよせ、言葉を発する瞬間をとらえ、威厳に満ちた顔つきをしている。 奈良時代の特徴である写実性と、平安前期につながる力強さ兼ね備えた天平彫刻の名品と されている。
|
保良宮を出て出家した孝謙天皇は法華寺に入った。 称徳天皇と道鏡@⇒ |
東方面に若草山を望む | 赤門 |
光月亭 | 浴室(からふろ・重文) | 蓮池 |
華楽園 東屋・蓮池を擁し、1年を通し四季おりおりの花を鑑賞できる。 光月亭 奈良県月ヶ瀬村の民家を昭和46年移築したもの。18世紀のものと推定される。根太天井であるが、 土間ぶでは丸竹天井となっている。 浴室 光明皇后が薬草を煎じその蒸気で多くの難病者を救済された。建物は室町時代後期に改築され たが、敷石の一部は天平時代のものが残されている。 光明皇后 : 藤原不比等の娘(701〜760)首皇子(おびと、のちの聖武天皇)の后(きさき)。 天平時代 : 文化史上の時代区分。天平年間を中心に、広くは奈良時代(710〜794)をさす。 |
||
聖武天皇の即位後、たびたび飢饉が起き、天平9年(737)には天然痘が大流行した。 聖武天皇と光明皇后は仏教の力で国を治める鎮護国家を実現するため、全国に国分寺、国分尼寺を建立 するとともに、東大寺を建立し、大仏を造立する一大事業に着手した。 東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、総国分尼寺といちづけられる。 |
||
光明皇后は、初めて皇室以外から迎えられた皇后だった。仏教をあつく信じ、 皇后になった翌年の天平2年(730)には平城京に病人や孤児を救済する施設の悲田院(ひでん)、 薬草などによる治療所の施薬院(せやく)を置いた。 |
||
東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、総国分尼寺と位置づけられ、法華滅罪之寺と呼ばれた。 |
万葉歌碑 いにしえの古き堤は年(とし)ふかみ 池の渚に水草(みくさ)生(お)ひけり 山部赤人 巻3 378 久我高照 書 |
光明皇后陵
佐保山東陵・天平応真仁正皇太后(佐保山南陵は聖武天皇陵) |