宇治天皇墓地図

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   莵道雅郎子尊宇治墓(うじのわきいらつこみこと)
(宇遅能和紀郎子うぢのわきいらつこ)
仁徳天皇  宇治上神社  仁徳天皇と兄弟  
 
   
   
 15代応神天皇は、3人の有力皇子のうちの最年少者を次の天皇に指名し、崩御 した。2人の
兄はその後、 対照的な行動を取った。

 後に16代仁徳天皇となる次兄の大雀命は弟を立てたが、長兄の大山守命は弟を殺して天下を
得ようとしたのである。 

 「この時代、皇位継承の資格には確たる順位はなかったようです。実際、皇位をめぐる抗争の
中で多くの皇子が命を落としました」著『皇位継承』などがある法政大の春名宏昭兼任講師は、
そう指摘したうえでこう話す。

 「3人それぞれに(皇族や豪族の) 支持者がいて主導権を争っていたのだと思います。母親が違
う異母兄弟ですから」

 古事記によると、天皇には26人の御子がいた。子だくさんがゆえに、後継指名が実行されない
のも古代天皇の実態だった。 

 「大雀命は、兄が軍備をしていると聞き、弟に知らせた。知らせを聞いた宇遅能和紀郎子は、
宇治川の岸辺に偽の御座所をつくり、 自らは船頭になりすまして大山守命を舟に乗せた。 そし

て、頃合いを見て舟を傾けて水中に落とし、潜ませていた兵士たちの弓矢で上陸 を阻んだ。
大山守命はついに溺死する。古事記は、応神天皇が選んだ宇遅能和紀郎子が軍略と勇気に富
んでいることを詳述する 。

 宇遅能和紀郎子は「徳」 も見せる。 兄である大雀命に譲ろうとして皇位に就かず、それがため
に献上品が兄弟の間で右往左往した。」

 「宇遅能和紀郎子は聡明で、百済からの渡来人の王仁博士に儒教を学んだとされます。その
教えから年長の兄が皇位を継ぐべきだと考えられたのでしょう」

 宇遅能和紀郎子を祭る宇治神社(京都府宇治市)の花房正典禰宜はそう話す。

社伝によると、兄弟が互いに譲り合って空位が続いたため、皇位を早く定めて天下の煩いをなく
そうとして宇遅能和紀郎子は自害した。大雀命は弟の死を嘆き悲しんで、神霊を同地に祭ったと
いう。

 「お二人は仲が良かったと思います。(応神天皇が)年少の方を皇太子とされたのも古来の慣例
で、若い者に継がせた方が一代の活躍期間も長くなります。国が長く繁栄する可能性を考えた選
択ではないでしょうか」

 古事記は、皇位の譲り合いの結果をこう書く。

《宇遅能和紀郎子は早く崩りましぬ。故大雀命、天の下治らしめしき≫

「聖帝」の治世の始まり である。
  2019−11−19 産経新聞