第35代 皇極天皇 第37代 斉明天皇地図


茅淳王(敏逹天皇の曽孫の押坂彦人大兄皇子の孫)の女
吉備姫王(欽明天皇の孫)
誕生594年(推古天皇2年)
御名・異称宝・大豊財重日足姫尊
崩御661年(斉明天皇7年)7.24  年令68才
(皇極天皇)
立太子━━
即位642年(皇極天皇元年)1.15  在位年数3
退位645年(皇極天皇4年)6.14
皇居飛鳥板蓋宮  年号━━
(斉明天皇皇極天皇重祚)
立太子━━
即位
655年(斉明天皇元年)1.3  在位年数6
退位
661年(斉明天皇7年)7.24
皇居飛鳥板蓋宮・飛鳥川原宮後飛鳥岡本宮  年号━━
(皇極天皇時代)
皇極天皇の治世中には朝鮮諸国との往来が頻繁であり、土木事業もさかんに行われた。天皇は大臣に詔して、百済大寺を建立させたり、諸国に命じて船舶を建造させた。また、板蓋宮を造営させた
一方、蘇我氏の横暴ぶりも目に余るものがあった。蘇我蝦夷は自家の祖廟を葛城の高宮にもうけ、中国では天子にのみゆるされるやつらの舞を行わしめた。国中から180余の部曲を召し出させて、双墓を今来(いきた)に築造した。このうち一方を大陵といって蝦夷の墓とし、他方を小陵といって入鹿の墓とした。

○入鹿は独断専行して上宮の王、すなわち山背大兄王を廃して古人大兄皇子を天皇に擁立しようと謀った。入鹿は巨勢
(こせのとこだ)、土師娑婆(はじのさば)連に命じて班鳩にある山背大兄王を急襲した。結果、山背大兄王は子弟妃妾らとともに自決して果てた。聖徳太子の子孫が絶えることになった。入鹿の所業に蝦夷は嘆いて入鹿の身の危険をひどく憂いたとされている。
○中大兄皇子、中臣鎌足らが、大極殿において、疑い深い蘇我入鹿をだまして暗殺する。また、蘇我蝦夷も自殺したのであるが、墓に葬ることを許されている。大極殿でのクーデターが成功し、大きく政治が変動する。(乙巳の変・大化の改新)
○天皇は皇子(かる 孝徳天皇)に譲位して、皇太子に中大兄皇子を立てた
(斉明天皇時代)
○孝徳天皇在位9年ののち、皇極天皇は斉明天皇として再度即位した。

○板蓋宮が焼け、近くの飛鳥川原宮に遷る。歴代天皇の中で重祚の初例であり、かつ女帝としての初例でもあった。さらに後飛鳥岡本宮に遷り、両槻宮や吉野宮も造っている。
○国内では阿倍比羅夫が船師(ふなしき)
180艘を率いて、淳代(ぬしろ)(秋田県)の蝦夷を征討し、さらには沿海川の粛愼(みしはせ)国を討たしめている。
○国外では、百済の使いが新羅・唐軍の攻撃によって百済国の滅亡を伝えた。天皇は難波宮に移って戦争準備をし、百済救援のため西に向かい、伊予の石湯行宮(道後温泉)に泊まり、さらに大津(なのおつ)(博田)に至る。そして朝倉宮で崩御した。
○斉明朝で微妙な立場にたたされたのが有間皇子である。有間皇子は先帝孝徳天皇の遺児であり、孝徳帝は皇太子中大兄と対立し、さびしく最後を迎えている。
○斉明天皇は、孫建王を失った悲しみを癒そうと紀の湯(白浜温泉)に行幸中であった。その留守に有間皇子は蘇我赤兄にそそのかされ、謀反、結果紋殺された

天皇と宮の名⇒⇒⇒
陵墓
越智崗上(おちのおかのえのみささぎ)(車木ケンノウ古墳)  円墳
所在地奈良県高市郡高取町大字車木
○陵墓は小さな古墳状隆起で、古墳時代後期の範囲に入るものと推定できる。
○「日本書紀」によると孝徳天皇の皇后であった間はし人ひと皇后と孫の建王を合葬されていることとなり、「三骨一廟」の埋葬法であったと考えられる。

○「続日本紀」742年(天平14年)に、御陵がかなりの範囲にわたって崩壊したことが記されている。

    
 舒明天皇の皇后で、天智天皇・天武天皇の母。642年に皇極天皇として即位し、大化改新で退位。655年に再び即位して斎明天皇となる。宮殿や饗宴(きょうえん)施設の建設などで飛鳥で相次いで大土木工事を敢行した。
 661年に遠征先の九州で死去。小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)と合葬されたとされる。


夫  舒明天皇 
天智天皇 
天武天皇 
間人皇女 
斎明天皇⇒⇒⇒
猿石⇒⇒⇒
益田岩船⇒⇒⇒
牽午子塚古墳⇒⇒⇒
越塚御門⇒⇒⇒
石人像⇒⇒⇒
須弥山石⇒⇒⇒

鬼の俎・雪隠⇒⇒⇒
石の宝殿⇒⇒⇒
天理砂岩⇒⇒⇒
亀形石造物⇒⇒⇒