根来寺地図

 
 大塔(国宝)
 この塔は、真言密教の教義を形の上で示したものである。
明応5年(1496)に建立され、国内最大の木造多宝塔で、
明治32年に国宝に指定された。また秀吉の紀州征伐の
焼き打ちから残ったものであるが、そのころの戦乱の弾痕
がみられる。高さ37m横幅15m。
塔(国宝)  高野山大伽藍 
智積院  菅原遺跡 
          
   大門    
 覚ばん上人(興教大師)は、大治元年(1126)平為里により岩手荘を寄進され、この地に神宮寺を建て、大小一千社を勧請した。これが根来寺の開創である。
 上人は13才京都・仁和寺の寛助僧正について出家得度をし、京都・奈良で勉学に励み、後、永久2年(1114)高野山に登り当時のお山の実情を見て、弘法大師
開創の真言密教の神髄を正しく伝える必要を痛感し、伝法院を建立し教学の興隆をはかった。
 後、鳥羽上皇の院宣により、大伝法院をたてるとともに、岡田・山東・弘田・山崎の荘園を下賜され、着実にその成果を収めていたが、覚ばんの名声があがるにつれ
高野衆徒との間に不和を生じ、保延6年(1140)根来に移ることになった。しかし、1143年上人はこの地に生涯を閉じた。
 その後、正応元年(1288)頼瑜僧正が高野山から大伝法院を根来に移し、新義教学の確立という大業を成就し、学問の根来寺の地位を築き、所謂新義の
根本道場として栄え、堂塔2700寺領72万石といわれるまでになり、真言宗三大学山の一つとして全国から学問を志す僧侶が集まった。
 また警護のための僧兵の勢力も強大となり、これが秀吉に恐れられた結果、天正13年3月(1858)根来攻め、その結果大伝法院の一角と二、三の寺院を
残すのみで他は焼失してしまった。
 大塔・大師堂以外の現在の建物はすべて江戸時代徳川氏の外護を受けて復興したものである。
  
   
大門 
 根来一山の総門で嘉永3年(1850)に再建された。左右にに仁王像を配している。高さ17m、横幅18m、奥行6m。  
   
     
 鐘楼門  光明真言殿  光明真言殿内から鐘楼門
  光明真言殿
 当時の持仏堂で、略して光明殿といい享和元年(1801)に建立し、開山興教大師像を安置し、左右に歴代座主
の位牌を始め信徒の位牌が祀られている。 
     
 大師堂(重文)  大傳法堂  大日如来
大師堂
 弘法大師空海上人像を本尊として祀っている。創建は大塔と同時代の建物で天正の兵火から残ったもので、内部の須弥壇と
併せて重文に指定されている。 
大傳法堂
 文政10年(1827)に再建され、本尊は大日如来で、脇侍は金剛薩埵、尊勝仏頂尊。
この堂は真言宗の最も大切な修法を伝える道場で「伝法大会」「伝法灌頂」など、僧侶が厳しい修行をする場所。
   
 閼伽井(あかい)  聖天堂
 閼伽井
 仏にお供えする水の他、宗門僧侶の水垢離(みずごり)用として使用される。この水は
当山中第一の清水で、永雨で河川がにごっても、この水はにごらない。
しかも非常に冷たい水であり、依って金剛清水と呼ばれている。
聖天堂
 名勝浄土池に浮かぶ堂は聖天尊を安置している。この堂の正面の朱塗の壇が根来塗で
古くから伝わっているもの。
     
 本坊
 新義真言宗の管長職を兼ねる当寺の座主の住坊である。この内には紀州徳川家から拝領した建物で湊御殿、名草御殿、別院などがある。
また、庭園は国から名勝としてしていされ、自然の滝と池を配した名園といわれている。