仁和寺地図

吽仁王 二王門(重文)
京都三大門の一つ
阿仁王
 江戸時代に建てられ左右に金剛力士を安置することから二王門と呼ばれている。 
 第58代光孝天皇が大内山の麓に国家安泰と仏法興隆を願って、西山御願寺の創建に着手されたが、
志半ばで崩御。父帝の遺志を継ぎ21歳の宇多天皇が仁和4年(888)に完成、年号の仁和を寺号仁和寺
とした。
 

 天皇は、897年31歳のとき醍醐天皇に譲位され、899年東寺の益信(空海の弟子) を戒師として出家、
住房(僧坊)を建てられた。法皇の「室」なので「御室」と呼ば
れ、最初の門跡寺院となり、いつしか、
この周辺の地名となった。

 以後、明治維新までの約1000年間皇子皇孫が入寺され、筆頭門跡寺院であった。

明治維新には、第30世純仁法親王(最後の宮門跡)は、朝廷からの要請で還俗して仁 和寺宮嘉彰(よしあ
きら)となり、戊辰戦争では新政府軍の征夷大将軍、維新に貢献。

 京都の洛西、双ケ岡(ならびがおか)の北方に位置する御室仁和寺。
 御室とは、この寺を創建した宇多法里が、手の一角に住まいとして設
けた住;坊のことをいう。.御室はいつしかこの地一帯の地名となった。

   
 多聞天王 中門(重文)
 寛永再興の時に建立された。
持国天王 

 仁和寺は旧御室御所といわれ、宮廷風の佇まいをもつ門跡跡寺院

厳しい修行道場の側面を持つ真言宗御室派総本山でもある。

南北1里、東西2里で320万坪の広大な敷地面積を有していたが、現在は約

3万坪(10万㎡)、裏山を含めても約15万坪である。

また、御室桜は京都にあって遅咲きの桜として知られ、「お多福桜」の愛称

をもち、庶民に親しまれる。

御室桜は大正13年に国の名勝に指定。

平成6年、仁和寺は世界遺産に登録。

今も昔も映画やTVの時代劇ロケの舞台。  

 仁和寺は応仁の乱(1467~77)で堂舎はほとんど焼失

約170年後の寛永年間(1624~ 1645)、第21世覚深法親王(1588~1648)※

は後水尾天皇と徳川家光の援助により、伽藍を整備し仁和寺復興に尽力した。

家光からは20万両余(120億円)の寄進、朝廷からは慶長時代の紫宸殿、清涼

殿、常御殿等が下賜され、また、二王門、五重塔はじめとする堂塔が整った。

※覚深法親王:後陽成天皇第一皇子、

後水尾天皇の兄 

金堂(国宝)
本尊 阿弥陀三尊(阿弥陀如来・右勢至菩薩・左に観世音菩薩が脇役
開祖 宇多法王
開創 平安時代前期、第58代光孝天皇が創建に着手し、仁和4年(888)第59代宇多天皇によって完成した。
真言宗御室派総本山
 内部は、板扉で本尊を安置する内陣と、参拝者が座る外陣とに分け、仏堂としての機能を持たせてある。
 天井板を張らない化粧屋根裏は宮殿当時と同じで、極色彩の彫刻がある。 
 正面7間、側面5間の大規模な建物で、屋根が宮殿風の桧皮葺から寺院風の本瓦葺へ改められているものの、
 蔀(しとみ)と妻戸をめぐらせるなど桃山時代の宮殿建築の趣をよく伝えている。 
 応仁の乱(1468)で全伽藍を焼失した後江戸時代初期に徳川家光の協力を得て今日の伽藍に再建された。
 江戸初期の再建の時、慶長年間に造営された京都御所紫宸殿を1643年ごろ移し、仁和寺の金堂(本堂)とした。
 現存する最古の紫宸殿の遺構である。
 旧殿社の下腸を願いでた社寺や公家は30以上あったというが、仁和寺の第21世覚深法親王が当時の後水尾上皇の兄だったため、
配慮がなされた。
金堂は慶長13年(1613)に建立された京都御所の紫宸殿が寛永年間(1624~44)に下賜(かし)された。
 移築は、天皇家などとつながりを示すシンボルでもあり、短期間に建物を作り上げる手法の一つでもあった。

金堂(国宝)

 運節作の阿弥陀三尊を本尊とし、四天王立像や天灯鬼,龍灯鬼等を安置する。
また来
迎壁には浄土図をはじめ南天鉄塔や瑜祗塔等(ゆぎ)が、裏堂には五大明王像が

絵師徳應の手によって極彩色で描かれる。
堂宇
は、慶長十八年(一六一三)に建立された慶長度の内裏紫宸殿であり、紫宸殿の遺構としては現存最古の建造物である。
寛永年間(一六二四
~四三)に仁和寺に移築され、移築に際し、旧紫宸殿本来の

正面七間,側面五間という規模と形式は変わらないが、屋根を葺く材料が宮殿風の檜皮から寺院風の本瓦に変更された。

また内部は、仏堂としての機能を果たすため、内陣と外陣を区別し、賢聖障子を外して須弥壇の背後に来迎壁をつく

る、一部の柱間を開放するなどの改造がなされている。

反面、蔀ゃ妻戸、四周の組高欄をつけた縁や建具、細部 の極彩色の彫刻などに、紫宸殿の面影が強く残されている

この宮殿建築と仏教建築の意匠の取り合わせが、他の寺院には無い特別な魅力をかもし出している。 

経蔵(重要文化財)

 寛永から正保年間(一六四○年代)に建立。金堂を中心に鐘楼と相対して建つ経蔵は、他の建物が和様で統一されてい

るのとは異なり、正面の扉には藁座付きの桟唐戸をたて、両脇間には花頭窓がつくなど、禅宗様の特徴をもつ。

内部は全面瓦敷で、中央に大規模な八角輪蔵を備える。輪蔵には七六八箱の経箱があり、天海版一切経が納められてい

る。内部もまた細部にわたって禅宗様である。同時期の経蔵に、大徳寺経蔵がある。

   
金堂   観音堂
鐘楼(重文) 鎮守九所明神(ちんじゅくしょみょうじん・重文)
仁和寺追加⇒⇒⇒
徒然草 これも仁和寺の法師⇒⇒⇒
 仁和寺の鎮守として寛永に再興である。守護神として八幡・賀茂・山王・天神・稲荷・松尾・平野・小比叡・大原野、九座のご神体を観請したもので、これを九所明神という。 
 寛永再興の時に、慶長年間造営の京都御所の清涼殿の材の一部を賜り、これを再用して現在 の姿にしたものである。真言宗の祖弘法大師、ご開山宇多法皇、
仁和寺第二世大御室性信親王の影像を安置している。
御影堂(重文)
御影堂(重文)金堂と同じく、京都御所の清涼殿を賜り、その材を用いて建立された。  
京都・世界遺産⇒⇒⇒
聖護院⇒⇒⇒















御室桜
 中門内の西側一帯に「御室桜」と呼ばれる樹高が低く遅咲きで
有名な桜の林がある。
古くから庶民の桜として親しまれ、国の名勝に指定されている。
 御室桜は、境内に200本あるが、高さ3mしか成長しない。
最近の調査では、土壌が粘土質で栄養や空気が乏しく根が伸びず、
成長が抑えられていたことが分った。
五重塔(重文)
総高 36.18m塔身高さ32.70m
寛永21年造営の「三間五重塔婆」である。
五重塔
 各層の屋根の大きさがほぼ同じという江戸期の特徴がある。
観音堂・鐘楼・経蔵・五重塔・中門・仁王門も江戸初期に建立。(全て重文)
宝物 阿弥陀三尊像(平安時代初期)孔雀明王画像などの国宝をはじめとして数多くの文化財を蔵している。
毎年春と秋に霊宝館において展観している。
     
 双ヶ岡より望む  
 真言宗御室(おむろ)派の総本山で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。
 平安時代前期に光孝天皇が創建に着手したあと、仁和4年(888)に宇多天皇が完成させ、仁和寺と名付けた。宇多天皇は退位の後、出家して、仁和寺内に僧坊(そうぼう)を営み、30余年間修業に専心したため、法王が御座する室(僧坊)ということから、「御室」が後に仁和寺周辺の地名となった。
 以後、明治維新まで約千年間、皇子皇孫が門跡として法燈を伝えたが、その間、応仁の乱の戦火で全伽藍を焼失し、双岡(ならびおか)西麓に仮御所を設けた時期もあった。
 現在の伽藍は、江戸時代初期に徳川家光の協力を得て再建された。京都御所の中心的な宮殿の紫宸殿を移築して金堂とした。現在の宮殿風の金堂(国宝)
である。
 金堂の阿弥陀三尊像は再興に合わせ寛永21年(1644)に本尊として造られた。旧紫宸殿の改修は屋根を檜皮から本瓦ぶきに替え、内陣と外陣を
分けて内陣奥に来迎壁(らいごう)を作るなど、仏堂にするための最小限にとどめた。このため宮殿らしい構造と意匠が随所に残っている。
外周の建具は寝殿造りに使われた優美な蔀戸(しとみど)。金堂正面の戸や蔀戸が開くと、外光が差し込み、阿弥陀三尊の金箔が金色に輝く。
創建時の本尊の阿弥陀三尊(国宝)は兵火を逃れ、今は霊宝館に安置されている。金堂は、京都御所の現在の紫宸殿より一回り小さい。
 西門から成就山の麓にかけて、四国の八十八箇所霊場を縮小した「御室八十八箇所巡りの霊場」があり、中門の左手には、遅咲きの桜の名所として有名な「御室桜」が見られる。
 仁和寺は、仁和4年(888)に宇多天皇により完成した勅願時で、また皇子・皇孫が門跡を務めたことから門跡寺院の筆頭とされて、「御室御所」といわれている。
 応仁の乱(1467~77)により全伽藍を焼失したが、寛永18~天保元年(1641~44)に再興され、このとき当時御所にあった紫宸殿と常御殿が移築されて、それぞれ金堂(紫宸殿の遺構としては現存最古)と仁和寺御殿(明治20年焼失)に転用だれた。また清涼殿の古材を用いて御影堂が造営されたほか、二王門・中門・五重塔などが建てられ、境内の整備が進められた。現在見られる伽藍は、主としてこのときできたものである。
 金堂(紫宸殿)の外観の三段の垂木や蔀戸(しとみ)は名残りである。内部は仏堂へリフォームされた。天皇の高御座(たかみくら)であったであろう中央に須弥壇が設けられ、阿弥陀三尊像などが並ぶ。背後には浄土図などが極彩色に描かれている。
 仁和年間に、宇多天皇が先帝の遺志を継いでこの寺を建て、年号に因んで仁和寺とされた。天皇は譲位後この寺に入られたので、御室御所というようになった。それ以来法親王が入るのが例となり、門跡という言葉はこの寺から始まった。
 むかしは寺域が8km四方にわたり、堂塔坊舎が並び、塔頭子院が六十余もあったというが、応仁・文明の兵火にすべて焼失した。その後天正時代の御所の建物を移しやや旧観に復したが、明治25年また火災にかかり多くの堂塔を失った。境内は仁和寺御所跡として史跡に指定されている。現在ある主な建物は仁王門・金堂・御影堂・五重塔など。  
 光源氏の兄・朱雀院がみずからのために建立した寺は仁和寺がモデルとされている。出家を考える朱雀院だが、気がかりは娘・女三宮の行く末だった。いまだ幼さの抜けきらない姫宮は、はるか年上の保護者のような男に見守られるのがよかろうと、光源氏に白羽の矢が立てられる。

◆御殿(本房)

創建当初、宇多天皇が営まれた所を御室御殿という。

寛永年間に朝廷から慶長時代(1596-1615)の所「常御殿」が下賜されて再建。

明治20年に焼失し、大正3年に亀岡末吉(東本願寺勅使門設計者、京都府技師)の設

計で、最高傑作の御殿建築として建物は再建された。

<本坊>

正しくは旧御室御所御殿、いけばな御室流生花家元である。

<勅使門>

大正2年竣工、向唐門(正面・背面に唐破風を持つ門)桧皮葺で透かし彫りの意匠

天皇と福王子神社の神輿のみ出入りは可能。

<皇族門>
右にある御殿の入り口は平唐門。

<白書院>
門跡の非公式対面所。襖絵は福永晴帆(せいはん)画「松の四季」

<南庭>

宸殿の前の白砂敷の庭、右近の橘左近の桜。宇多天皇が梅から桜に変更。

<北庭>

宸殿の前の庭は小川治兵衛修復の池和泉回遊式庭園、池は心字を表わす。

光格天皇遺愛の茶室「飛濤亭」(重文)と尾形光琳の茶室「遼廓亭」が建つ。

☆飛濤亭(重文)

 宸殿北庭の築山にあり、入母屋造・茅葺の屋根。四畳半台目の茶室と水

屋の間、勝手の間で構成。入口は躙口ではなく貴人口が設けられている。

また壁には長いすさが散らされ、落ち着いた雰囲気が漂う。

☆遼廓亭(重文)

 仁和寺門前堅町の尾形光琳の屋敷より移築されたもの。二畳半台目の茶

室、四畳半の水屋と広間、控えの間と勝手の間で構成され、葺下し屋根の

下に袖壁を付け、その中に躙口。また、壁は黒い錆壁や長いすさが散らさ

れる所など、全体の意匠は織田有楽斎好みの「如庵」に似る。


<宸殿>

大正3年に亀岡末吉によって再建された一重入母屋造桧皮葺で、最高級の桧

材を使用。

外見は宸殿風の建物だが、内部は武家風書院造で三室からなる。

三の間 :襖絵は御所の御用絵師原在泉(1849~1916)『交野の鷹狩り』

二の間 襖絵は『賀茂祭』の「路頭の儀」と「嵐山三船祭図」

上段の間 玉座があることから宸殿と呼ばれ、一段高くなっており、折上小組格天井。

床・違い棚・付け書院・帳台構を備えた書院造。床の間に寛平(かんぴょう)法皇(宇多

法皇)のご真影

<黒書院>

 門跡の公式の対面所黒書院は明治42年に建立された入母屋造、瓦葺の建物

京都・花園にあった旧安井門跡の宸殿を移築改造したもの。設計は安田時秀で、

明治42年竣工。襖絵は近代画家堂本印象(1891 ~1975) 。

奥室の書院には第30世純仁法親王の影像が飾られている。

☆第30世純仁法親王(1846~1903)

伏見宮邦家親王第八王子で、13歳で孝明天皇の親王として嘉彰と称し、

仁和寺で得度し、仁和寺30世門跡に就いた。

1867年還俗、1868年鳥羽・伏見戦争では軍事総裁征討大将軍に任じ

られ、錦の御旗を授けられ官軍として京都に凱旋。

1869年仁和寺総務職を解かれ、1870年東伏見宮と改称した。


<霊明殿>

 仁和寺の僧坊・喜多院の本尊薬師如来坐像を安置する為に明治44年に建立。

宝形造・桧皮葺で正面に向拝、内部は小組の格天井、設計は亀岡末吉

像高10.3㎝の本尊「薬師如来」は1103年円勢と長円の作像と伝わり秘仏で

国宝。歴代門跡の位牌と高松宮家の位牌を祀る。須弥壇前面の格狭間(こうざま)

を飾る花は宝相華である。霊明殿の扁額は近衛文麿、昭和20年絶筆

霊明殿に掛っていた水引を 御旗に仕立てたともいう。

官軍の兵5000に対して、幕府軍は1万5000と数で圧倒し絶対優勢だったが、

この御旗により旧幕府軍内は「賊軍」にされたとの動揺が走り、形勢逆転にな

り新政府軍が勝利したという。

出陣に際して迎えに来た西郷,,が下乗し、馬を繋いだという松の木が京福電

鉄御室駅付近にあったという。

 

伽藍(主な建物)

 現在の堂塔伽藍は寛永年間、第21世覚深法親王の功績により復興。

(1)二王門(江戸時代 重文)

 高さは18.7mの五間三戸の二階二重門、入母屋造、本瓦葺。門正面の左右

に阿吽の仁王像、後面には唐獅子像を安置。上層の屋根が大きく急勾配、不安

定だが平面的な広がりと圧倒的な重量感を持つ。

同時期に建立された知恩院三門(24m)、南禅寺三門(22m)が禅宗様の三門で

あるのに対し、平安時代の伝統を引く和様建築。

(2)五重塔(江戸時代 重文)

 寛永21年(1644)建立。高さ約36m。東寺の五重塔と同様に、

ら下層の幅にあまり差が見られない姿(逓減率少ない)が特徴

初重西側には、大日如来を示す梵字の額が懸けられている。

(3)金堂 (江戸時代 国宝)

 慶長年間造営の紫宸殿を寛永年間(1624~43)に移築したもの。現存する

最古の紫宸殿であり、当時の宮殿建築を伝えるの建築物として、国宝。屋根

は桧皮葺から瓦葺きに変わったが、半蔀も美しく王朝の優雅が偲ばれる

金堂内陣の本尊「阿弥陀三尊像」は寛永21年(1644)の運節作。

(4)御影堂(江戸時代 重文)

 鐘楼の西に位置し弘法大師像、宇多法皇像、第2世性信(しょうしん)親王像を安置。

御影堂は、慶長年間造営の内裏清涼殿の一部を賜り、寛永年間に再建されたも

ので宝形造り、桧皮葺、柱間は蔀戸で、金具は清涼殿のものを利用している。

約10m四方の小堂であるが、外観は弘法大師が住まう落ち着いた仏堂。

(5)観音堂(江戸時代 重文)

 入母屋造、本瓦葺で前後に向拝が付き、たち(軒までの高さ)の高い建物。

仁和寺の最重要儀式である伝法灌頂」が行われる御堂である。

本尊は千手観音菩薩、脇侍として不動明王・降三世明王、周りには二十八部衆

が安置。須弥壇の背後や壁面、柱に白衣観音、高僧などが極彩色で描かれる。

(6)中門(江戸時代 重文)

 二王門と金堂の中間に、五重塔や観音堂の伽藍中心部に向かう入口の門。

切妻造・本瓦葺.柱間三間の八脚門、側面の妻部は二重虹梁蟇股が飾られる。

また、向かつて左側に西方天広目天、右側に東方天持国天を安置。


(6)中門(江戸時代 重文)

 二王門と金堂の中間に、五重塔や観音堂の伽藍中心部に向かう入口の門。

切妻造・本瓦葺・柱間三間の八脚門、側面の妻部は二重虹梁蟇股が飾られる。

向かまた、向かって左側に西方天広目天、右側に東方天持国天を安置。

(7)経蔵(江戸時代 重文)

 宝形造、本瓦葺, 正面に両開きの板唐戸、左右に花頭窓を付け禅宗様で統

内部は釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩など六躯を安置、壁面は八大菩薩や十六

羅漢が描かれる。内部中央に八面体の回転式輪蔵を設け、各面に96箱、総計

768の経箱が備えられ、その中には天海版の『一切経』が収められている。

(8)鐘楼(江戸時代 重文)
 入母屋造、本瓦葺。「鐘楼」の「楼」とは元来二階建ての建物を指す。

階上は朱塗で高欄を周囲に廻らせ、下部は板張りで覆われ袴腰式と呼ばれる。


(9)九所明神(江戸時代 重文)

 仁和寺の伽藍を守る社。

社殿は本殿・左殿・右殿の三棟あり

八幡三神を本殿に、東側の左殿には

上下の賀茂社・日吉・八坂・稲荷を

西側の右殿には松尾平野・小日

吉・木野嶋の計九座の明神を祀る

☆ 時代劇のロケのメッカ

(10)霊宝館

 空海が中国から持ち帰った「三十帖冊子」(国宝)をはじめ、

仁和寺の創建時の本尊阿弥陀三尊像(国宝)、

孔雀明王像(国宝)、愛染明王坐像(重文)など展示。

(11)済信塚(さいしんつか)

 塚は小円墳、松樹を植える。

寛朝のあとを継いだ仁和寺の別当、東寺の長者 

謡曲「経正」と仁和寺

 謡曲「経正」は、生前琵琶に堪能てあった

平経正の妄執を描いた修羅物てある。

 平経正は幼少の時から仁和寺御所の御竉遇

を蒙り、青山という琵琶の名器を拝借したが

西海の合戦で討死したので御所では僧都行慶

に仰せつけてこの琵琶を手向け、管絃講を

催して、その跡を弔われた。

 すると経正の幽霊が夢幻の如く現れ出てて

琵琶を弾き、又体修羅の苦患を示した。という

曲てある

 仁和寺は御室ともい、、仁和年代光孝天皇

の建立された真言宗御室派の本山で、宇多

天皇御落飾の後この所に一堂を構えてお住みに

なったので御室又は仁和御所という。爾来常に

法親王のお住みになる所となった格式のある

お寺てある。 御室の桜て有名てある。
 謡曲⇒⇒⇒

謡曲史跡係存会


































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