地震山の辺文化会議 講座資料より 北口聰人 講演
·奈良を襲った大地震 江戸時代以前を対象に
縄文時代の地震
<縄文晩期後半の地震>安威断層の活動
耳原遺跡(茨木市)で断層本体を確認
久宝寺遺跡(八尾市) ·池島遺跡(東大阪市)
東新町遺跡(松原市)などで噴砂跡を確認
※県内では痕跡未確認
弥生時代の地震
<弥生時代前期末の地震>
久宝寺遺跡·田井中遺跡·志紀遺跡(八尾市)
池島遺跡(東大阪市)で噴砂跡を確認
志紀遺跡では、溝の肩が地滑りを起こして破損
<弥生時代中期末の南海地震?>
下内膳遺跡(洲本市) ·瓜生堂遺跡(東大阪市)で噴砂跡
<弥生時代後期の南海·東海地震?>
黒谷川宮ノ前遺跡·黒谷川郡頭遺跡(徳島県板野町)、
坂尻遺跡(静岡県袋井市)で噴砂跡を確認
弥生時代後期初めごろには野島断層が活動、上沢遺跡(神戸市)で噴砂跡を検出
(阪神·淡路大震災の一つ前の活動)
古墳時代の地震
<古墳時代初頭の南海地震>
下田遺跡(堺市)-黒谷川宮ノ前遺跡(徳島県板野町)・・・古墳時代初頭の噴砂跡
志紀遺跡(八尾市)では地表面(厚さ60 cm)が側方流動し、杭が切断される
<古墳時代前期末~中期初頭の南海·東海地震>
赤土山古墳(天理市)・・・古墳時代前期末~中期初頭(築造直後)の地滑り痕
久宝寺遺跡(八尾市)で側方流動痕、坂尻遺跡(静岡県袋井市)で噴砂痕
『日本書紀』允恭天皇5年(416年)の条
「地震」(文献上最古の地震記録)
太田遺跡(葛城市)・・・4世紀以降の噴砂跡
詳細な時期は不明
飛鳥·奈良時代の地震
推古天皇7.4.27(599.5.28)震源不明、M7.0、最大震度6弱(大和)
「地動き、舎屋悉く破れる。即ち四方に令して地震の神を俾祭せしむ。」(『日本書紀』)
天武天皇13.10.14(684.11.29)白鳳南海地震
四国沖 M8.3 最大震度6弱(土佐)
「人定に逮(いた)りて、大きに地震(ないふ)る。国举(こぞ)りて男女叫び唱(よば)ひて、不知東西(まど)ひぬ、即ち山崩れ河涌く。
諸国郡の官舎及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊れし類、勝(あげ)て数ふべからず。是に由りて、人民
及び六畜、多(さわ)に死傷(そこなは)る。時に伊予温泉、没(もれ)れて出です。土左国の田苑五十余万頃(しろ)、没れて海と
為る。古老の日く、『是の如く地動ること、未だ曾(むかし)より有らず』といふ。」
「土佐国司言(もう)さく、『大潮高く騰(あが)りて、海水瓢蕩(ただよ)ふ。是に由りて、調(みつき)運ぶ船、多に放れ失せぬ。』
とまうす。」(『日本書紀』)
川辺遺跡(和歌山市)・・・7世紀後半~8世紀初頭の噴砂跡
酒船石遺跡(明日香村・・・地滑りにより石垣がダルマ落とし状に崩壊 7世紀末ごろ
汁谷遺跡(南あわじ市)・・・7世紀後半の住居床面に噴砂跡、操業中の窯が破壊。
太平洋沿岸の津波、高知平野沈降、道後温泉湧出停止→南海地震の特徴
坂尻遺跡(袋井市)、川合遺跡(静岡市)、田所遺跡(愛知県一宮市)・・・7世紀後半ごろの噴砂跡⇒白鳳南海地震に前後して東海地震も発生
天平6.4.7(734.5.18)震源·規模不明 最大震度6弱(大和) 「地大きに震(ふ)りて、天下の百姓の盧舎を攘(こぼ)つ。圧死せる者多し。山崩れ川塞ぎ、地往々にして拆(ひら)け
裂くること、勝げて数ふべからず」(『続自本紀』)
「大地震、神倉崩れ、峯より火の玉海に飛ぶ」(『熊野年代記』)
平安時代の地震
仁和3.7.30(887.8.26) 仁和南海地震
和歌山県南方沖 M8.0~8.5 最大震度不明
「七月卅日(みそか)申時地大いに震動す。数刻を経歴して震猶止まず。天皇仁寿殿を出で、紫宸殿南庭に御
し、大蔵省に命じて七丈の幄(あく)二つを立て御在所と為さしむ。諸司の舎屋及び東西京の盧舎(ろしや)、往々に
して顛覆(てんぷく)し、圧殺せらるる者衆(おおく)く、或いは失神頓死する者有り。(中略)五畿内七道諸国、同日大震
し官舎多く損す。海潮陸に 漲(みなぎ)り、溺死者勝て数ふべからず。其の中に摂津国尤も甚だし。」(『日本三代実録』)
地蔵越遺跡(愛知県稲沢市)で9世紀後半ごろの噴砂跡→東海地震も発生?
9世紀は「地震の世紀」・・・弘仁9(818)年関東諸国 天長7(830)年出羽国
承和8(841)年信濃国、伊豆国 嘉祥3(850)年出羽国真観6(863)年越中,越後国
貞観10(868)年播磨国
貞観11(869)年陸奥国(貞観地震
元慶2(878)年関東諸国
元慶4(880)年出雲国
仁和3 (887)年仁和南海地震
受難の九世紀 (818,830、850,869、878、880、885) 仁和三年 (ハ八七 )七月には仁和南海地震が起きた。西日本に起きた広域の大地震である。 『日本三代実録』では、被害の模様を中心に次のように記している。 (現代語訳 ) 午後四時頃、地が大きく揺れ動いた。数時間を経ても止まらず、天皇は紫宸殿の南庭に建てた幄舎 (あくしゃ・天幕を用いた仮の舎 )を御在所にされた。京都の東西各所で蔵や民家が倒壊し、圧死する者多く、ショツク死する者もでた。夜ー〇時頃にまた地震があり、関西を中心に西日本一帯が大いに揺れた。官舎の多くが壊れ、津波が陸を覆って、多くの溺死者がでた。その数は摂津国 (現在の大阪府と兵旗県の一部 )が最も多かった。 仁和南海地震の被害の記録は、淡路島で幕末にまとめられた郷土誌『味地草』にもあり、現在の淡路市のあたりの海に突き出ていた砂嘴(さし)の大半が水没したと記されている。津波は各地で大きな爪あとを残した。 仁和南海地震が起きた九世紀は、ほかにも地震が多かった。 斉衡二年 (八五五 )には各地でたびたびの地震があり、奈良の東大寺では大仏の首が崩落して、朝廷に大きな衝撃を与えた (『日本文徳天皇実録』 ) 。 元慶四年 (八八〇 )には、京都の太極殿の基壇に亀裂が入り、市街の家屋が損壊した (『日本三代実録』 )。 関西だけではない。日本各地で大地震が起きたのが九世紀だった。東北地方の陸奥国では貞観ーー年 (八六九 )に、出羽国では天長七年 (八三〇 )と嘉祥三年 (八五〇 )の二度にわたって発生。関東地方でも弘仁九年 (八一八 )、さらに元慶二年 (八七八 )の大地震で大きな被害があった。このなかでは貞観ー一年に陸奥国を襲った地震が大津波をともない、多賀城下 (現在の宮城県多賀城市 )が壊滅するなど大きな被害があった。 九世紀は地殻変動が活発化のサイクルに入っていたのだろう。列島では、十余年の周期で次々と大地震が起きた。関西はもちろん日本にとって受難の世紀だった。 古地図が語る大災害 本渡章 より |
「陸奥国の地大いに震動し、流光昼の如くに隠映す。頃之、人民叫呼(きょうこ)し、伏して起くる能はず。或
いは屋倒れて圧死い或いは地裂けて埋め殪(たお)る。馬牛駭(おどろ)き奔(はし)り、或いは相昇踏す。城郭倉庫,門
櫓墻(しょう)壁、頽(くず)れ落ち顛覆(てんぷく)して、その数を知らず。海口は咆哮し、声は,雷霆(らいてい)に似る。驚涛(きょうとう)は,涌潮(ようちょう)し、
沂洄(ごんかい)して漲長(ちょうちっょう)す。忽ちにして城下に至る。海を去ること数十百里、浩々(こうこう)としてその涯涘(はてし)を弁ぜず、
原野道路、惣て滄冥(そうめい)となる。船に乗るに遑(いとま)あらず、山に登るも及びがたし。溺死する者千ばかり、
資産苗稼、殆ん孑(ひとつ)として遺るもの無し。」(『日本三代実録」より、貞観地震の記録)
箸尾遺跡(広陵町)・・・西暦1000年を前後する時期の噴砂跡確認 詳しい時期は不明
938
承平八年 (九三八 )には四月と八月の地震で、平安京では建物の倒壊や築地屏の損壊が目立った。 |
天延四年 (九七六 )の地震でも、平安京で宮城の建物や京内の家屋が多数壊れ、寺院の被害も大きく、清水寺の倒壊では五〇人の圧死者がでた (『日本紀略』 )。また、近江国では琵琶湖西岸の崇福寺の諸堂が崩れ、瀬田川沿いの近江国府の官舎、さらに近江国分寺の大門が倒壊した (『扶桑略記』 )。 古地図が語る大災害 本渡章 より |
中世(平安後期~室町)の地震
延久2.10.20(1070.12.1) 京都府南部 M6.0~6.5
「十月廿日半夜地震動し、洛中家々の築垣、往々にして頽(くずれ)れ落つ。東大寺洪鐘震え零(お)ち、諸国の寺塔、
損壊を以て聞こゆ。」(『扶桑略記』)
「延久二年十月廿日大地震、東大寺の鐘の紐切れて落つ。」(百練抄・ひゃくれんしょう)
嘉保3.11.24(1096.12.17) 嘉保東海地震
三重県南東沖~遠州灘 M8.0~8.5 最大震度不明
『(興福寺)西金堂脇侍仆れ給ふ。」
「駿河国の解(げ)に云ふ、去月廿四日大地震、仏神舎屋百姓四百余流失す。国家の大事なり。」(『後ニ簾篩通記』)
「後に聞く、地震の間、近江国勢多橋落ち了(おわ)んぬ。わずかに東西片辺のみ残るなり。東大寺の鐘
地に落つ者(てえ)り。薬師寺廻廊顛倒し、東寺塔九輪落ち、法成寺東西塔金物破損し、法勝寺の御仏な
ど多く損す。凡そ所々の塔多く損すと云々。」,
「後に聞く、伊勢国阿乃津の民戸地震の間、大波浪の為に多く以て損ぜらると云々。凡そ諸国に
此の如きことあり、近代以来の地震、未だ此の如き例有らざるなり。」(『中右記』)
揺らぐ定説⇒⇒⇒
1096
十一世紀の末、白川上皇による院政がはじまる頃、嘉保三年 (一〇九六 )十一月に大規模な地震があった。藤原宗忠の日記『中右記』によると、激しい揺れが二時間も続いたので、堀河天皇は池に浮かべた船に避難した。この時の地震では、近江国の勢多橋が落ち、奈良でも東大寺の鐘や薬師寺の回廊が壊れたという。 古地図が語る大災害 本渡章 より |
承徳3.1.24(1099.2.22) 承徳南海地震 最大震度不明
和歌山県南方沖 M8.0~8.3
「正月廿四日、早旦陰、卯時大地震。 (中略)廿五日晴れて他行無し、興福寺昨日地震し西金堂柱小
損、塔又破損すと云々。」(『後二条師通記』)
「康和二年正月□四日地震の刻、国内の作田千余町、皆以て海底と成り畢(おわ)んぬ。」(土佐国文書)
瓜生堂遺跡(東大阪市)・・・11世紀末~ 12世紀の小規模な噴砂跡
1099
康和元年 (一〇九九 )には、南海トラフを震源としてマグ二チュードハ・〇〜八・三の大地震が発生した。これが、いわゆる康和南海地震。被害の実態は明確でないが、大阪以外では、奈良の興福寺の損壊と、高知の海浜沿いの田地が津波で水没したのが知られて いる。 古地図が語る大災害 本渡章 より |
治承元.10.27(1177.11.26)奈良県M6.0~6.5 最大震度5強
「地震の間、大仏螺髪二口、観音の前に落つ。又頂上の螺髪抜け上がる。又大鐘釣切れ、大地に落
つ。又印蔵の丑寅の角、頽れ落つ。」(『百錬抄』)
元暦2.7.9(1185.8.13)京都府南部 M7.4 最大震度6弱(京都)
「七月九日、午時大地震、其の声雷の如し。震動の間、已に時刻を送るに、其の後連々として絶えず、
宮城瓦垣並びに京中民家、或いは破損し或いは顛倒し、一所として全からず。就中大内日花門、閑院
西辺廊顚倒し、法勝寺阿弥陀堂顛倒し、九重塔破損し、三面築垣皆以て頽壊す。」(『百錬抄』)
「午刻大地震、古来大地動く事有りといえども、いまだ人家を損亡するの例聞かず。よって暫く騒
がざるの間、舎屋忽ち壊崩せんと欲す。よって余の女房等を乗車せしめ、大将之に同じく庭中に引き
立て、余独り仏前に候す。」(『玉葉』)
「大地震、処々顛倒多し」(『興福寺略年代記』)
「地動くに依り顚倒せしめ畢んぬ。(中略)中門同日顚倒す」(唐招提寺千手観音足柄銘)
「また、同じころかとよ、おびただしく大地震(おほなゐ)ふること侍りき。そのさま、よのつねならず。山はく
づれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水涌き出で、巌割れて谷にまろびいる。な
ぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在在所所、堂舎塔
廟、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰立ちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地
の動き、家のやぶるる音、雷にことならず。家の内にをれば、たちまちにひしげなんとす。走り出づ
れば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐
るべかりけるは、ただ地震(なゐ)なりとこそ覚え侍りしか。」(『方丈記』)
建物被害が強調され、死者の具体的記述少ない→屋根などが軽く、築地崩壊などを除き死者少数
堅田断層の調査・・・11世紀中頃~13世紀中頃に活動
苗鹿遺跡(大津市)・・・ 竪穴住居(古墳前期)が完全に埋没した後、地割れに引き裂かれる
蛍谷遺跡・穴太遺跡(大津市)・・・ 平安後期~江戸の噴砂痕
13世紀初めごろ・・・記録にない南海·東海地震発生?
※ 石津太神社遺跡(堺市)・・・13世紀初の整地層を裂き、13世紀中頃の溝に切られる砂脈
川関遺跡(那智勝浦町)・・・12世紀後半の倉庫周辺に砂脈13世紀前半に倉庫再建
上土遺跡(静岡市)・・・鎌倉時代ごろの地割れ多数
黒塚古墳(天理市)・・・鎌倉時代以前の地震により石室が崩壊 詳細時期不明
855、1185
鴨長明、地震を語る 斉衡二年 (八五五 )の大地震で束大下の大仏の肯が落ちた事件は、よほど強いインパクトがあったらしく、それから三〇〇年以上のちに、鴨長明が『方丈記』にたいへんな出来事として記している。その鴨長明が、斉衡二年の大地震もおよばない大災害としたのが、元暦二年 (ーー八五 )に京都を襲った大地震だった。『方丈記』に、被災のようすが次のように書かれている。 (現代語訳) また同じ頃、おびただしく大地が震えたことがあった。そのありさまは、山は崩れて河を埋め、海は傾き陸地を浸し、地は裂けて水が湧き、岩は割れて谷に転がる、渚の船は波に遊ばれ、道行く馬は立っているのもままならないという、かってないものであった。 京都の近郊、あちらこちらの寺院では、建物のどれひとっとして無事なものはなく、あるものは崩れ、あるものは倒壊し、立ちのぼる塵と灰が盛んな煙のようだ。地が動き家が壊れる音は雷鳴と同じ。その家に人が居たなら、たちまち押しつぶされるだろう。外へ走り出れば、地が割れて裂ける。人は羽がないので空を飛べない。なら雲にも乗ろうものを。恐ろしいもののなかでも、特に恐れなくてはならないものは、ただただ地震であると思われた。 冒頭に同じ頃とあるのは、大地震とほぼ同時期の養和年間 (ーー八一〜ーー八二 )に大飢饉があったことをさす。大地震が起きた元暦二年 (ーー八五)は、平家が壇ノ浦合戦に敗れて滅びた年でもあった。不穏な世情に追い討ちをかけるような大災害に、なすすべもない人間のありさまが描かれている。 文中、渚の船が波に揺れという箇所について、京都に海はないはずだと思われた読者がいるかもしれないが、これは琵琶湖をさしていると考えられる。琵琶湖西岸断層帯を形或している堅田断層帯が、この頃に活動したとみられる地震痕跡が琵琶湖周辺の蛍谷遺跡、穴太遺跡に残っていて、大地震の被害が滋賀県にもまたがっていたのがうかがえる。内大臣中山忠親の『山槐記(さんかいき)』には、この時の地震で琵琶湖の水が北に流れて岸辺が干上がり、後日もとに戻ったが、田んぼは裂けて回復しなかったと記された (寒川旭『地震の日本史』 )。 記述はこれで終わらない。 (現代語訳•続き ) 大揺れはしばらくして止まったものの、余震はまだまだ絶えなかった。世間が驚くほどの地震がニ、三〇回もこない日はない。ー〇日、二〇日と経っと、だんだん間隔があき、一日に四、五回、あるいはニ、三回になり、または一日おき、二、三日に一回というようになりながら、余震はおよそ三か月ほどもあった。 元暦の大地震はマグニチュード七・四。余震は長く、最初の揺れのひと月後にも強い余震があった。 『方丈記』は文章の末尾を、地震の当座は家を建てることの無益さを口にして、煩悩が薄らいだかにみえた人々も、月日が経っと、もう何も言わなくなったとしめくくっている。 古地図が語る大災害 本渡章 より |
阿波の雪の湊と云ふ浦には、俄に大山の如なる潮漲(みなぎ)り来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連
て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗男女、牛馬鷄犬一も残らず底の藻屑と成にけり。」(『太平記』)
※康暦碑. ..徳島県海部郡美波町に現存、津波死者60余名を合葬して1380(康暦2)年に建立
カヅマヤマ古墳(明日香村) ::盗掘後に石室滑落 盗掘坑内に13~14世紀前半の土師皿
地すべり後の堆積に15世紀の遺物→正平南海地震による異変か
中島田遺跡(徳島市) : 13世紀後半~14世紀前半の地層を裂き、15世紀前半の溝に切られる噴砂跡
※黒谷川宮の前遺跡(板野町)でも同時期の噴砂跡
門真沼遺跡(一宮市):
14世紀初頭の土坑引き裂き底に広がる噴砂→正平南海に対応する東海地震?
『太平記』に登場した大地震⇒
明応3.5.7(1494.6.19) 奈良県 M6.0 最大震度5強(奈良)
明応三年五月七日、午刻大地振、以ての外の事なり。東大寺、興福寺、薬師寺、法華寺、西大寺、
矢田庄在々所々破損損亡す。珍事なるかな大略転倒に及び了んぬ。」(『大乗院寺社雑事記』)
明応7.8.25(1498.9.20) 明応東海地震.
浜名湖南岸が津波で浸食、海とつながる
鎌倉で海水が大仏殿の堂舎屋を破壊、200余人溺死→現在まで大仏殿再建されず
伊勢大湊で1000余軒の家と約5000人流され、伊勢志摩間で約1万人流される
同年南海地震も発生
「明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七分は流失し、此度二三の遺島となれり。」(愛媛県新居浜市黒島神社の記録)
アゾノ遺跡(四万十市)・・・15世紀終わりごろの生活面に噴砂流出→集落廃絶
宮ノ前遺跡·古城遺跡(板野町)、船戸遺跡(四万十市)、中島田遺跡(徳島市)、で同時期の噴砂跡
徳島県南部で多数の死者を出した1512年の「永正津波」は、海底の地滑り
が原因で局地的に起きた可能性が高い。
徳島大などの研究グループが、そんな調査結果をまとめた。15日から茨城
県つくば市で開かれる歴史地震研究会で発表する。
永正津波の死者は、一説には約3700人とされる。ただ、
南海トラフ沿いのほかの地域では大津波の記録が見つかってい
ないことから、「謎の大津波」とされてきた。徳島大の馬場俊
孝教授(地震学)らは、古文書「震潮記」の記述などから、海
岸から約500mの家屋が流され、津波による浸水の深さは2m
以上と推定した。
馬場さんらは海底地形図を調べ、徳島県南部の宍喰地区(同
県海陽町)の24キロ沖に幅約6キロ、高さ約400mの崖がある
ことに注目。昨年、海洋研究開発機構などと共同で、音波探査
によって海底の地形を詳しく調べた。その結果、この巨大な崖
は海底地滑りでできたとみられることが判明した。
一般に大きな津波は、強い揺れを伴う地震とセットで起こる
と考えられがちだ。しかし、海底地滑りは小さな地震がきっかけ
でも発生する可能性があるとう。馬場さんは「揺れは小さくて
も大きな津波が来る可能性があり、今後も注意が必要だ」と話し
ている。2017-9-13 朝日新聞 (編集委員,瀬川茂子)
戦国時代の地震
豊臣秀吉により、初めて地震とナマズが結びつけられる。
秀吉は二度大地震に遭遇した⇒
1593(文禄元)年書状「ふしみのふしんなまつ大事にて候」・・・天正地震(天正13(1586年)の経験による
1596(文禄5/慶長元)年閏7月 慶長伏見地震⇒⇒ M7の伏見地震 京都の三大地震
大阪府北部M7.5 最大震度6強(宇治)
有馬-高槻断層帯、六甲·淡路島断層帯(合計長さ80km)が連動…野島断層はほとんど動かず
「伏見の事、御城御門殿以下大破、或いは顚倒し、大殿守(てんしゅ)悉く崩れて倒れ了んぬ。男女御番衆数
多死に、未だ其の数を知らず。其の外諸大名の屋形、或いは顛倒し、或いは相残ると雖も、形計り也。」(『義演准后日記』)
「和泉堺は事の外相損じ、死人余多之有り。」
「山崎は事の外相損じ家悉く崩れ了んぬ。死人数を知らず。」「八幡在所は是又家悉く崩れ了んぬ。」
(大坂)御城苦しからず、町屋共大略崩れ了んぬ。死人数を知らず。」
「兵庫在所崩れ了んぬ。折節火事出来し、悉く焼け了んぬ。死人数を知らず。」(『言経卿記1 )
「(京都)三条より下伏見迄家損じ人死に、上京は苦しからず。」(『当代記』)
京都:方広寺盧舎那仏破損、東寺諸堂倒壊、本願寺·興正寺本堂倒壊(寺内死者300人)、天竜寺·嵯峨二尊院·大覚寺倒壊
奈良:大安寺壊滅。唐招提寺戒壇,僧堂破壊、金堂,講堂,東塔破損。薬師寺八幡廊·西院堂。東西両門倒壊。法華寺金堂
破損。海竜王寺·興福寺でも建物破損
近畿地方一円で広域にわたり地震痕跡確認
噴砂:木津川河床遺跡・,内里ハ町遺跡(八幡市)、門田遺跡(京田辺市)、兵庫津遺跡,玉津田中遺跡(神戸市)、田能高田
遺跡(尼崎市)、太田遺跡·鹿谷遺跡(亀
岡市)、狭山池北堤(大阪狭山市)、佃遺跡(淡路市) 下内膳遺跡(洲本市)
焼土層:兵庫津遺跡(神戸市)
地割れ:芦屋廃寺(芦屋市)地震により廃絶
側方流動:住吉宮町遺跡(神戸市)、六条遺跡(芦屋市)
地滑り:西求女塚古墳(神戸市)、今城塚古墳(高槻市)
―――
大阪府北部を震源とする最大震度6弱を記録した地震の被災地は、
過去にも大地震に見舞われている。豊臣秀
吉が天下を統一した時
期にあたる1596年の「慶長伏
見地震」だ。「地震考古学」の第一人
者として知られる寒川旭·産業技術総合研究所名誉リサーチャー( 71 )
に、慶長伏見地震と今回の地震の特徴などについて聞いた。
―慶長伏見地震とはどんな地震だったのですか。
今回の地震は大阪府周辺の活断層のうち、「有馬ー高槻断層帯」「上町断層帯」「生駒断層
帯」の三つが交差する複雑な場所で起きた。このうちの有馬ー高槻断層帯が、1596年に起き
た慶長伏見地震で最大級の活動をしていた。豊臣秀吉が築いた伏見城(京都市伏見区)の天
守閣の上半分が崩れ、二ノ丸も倒壊し300人余りが命を失ったとされる。
従来、慶長伏見地震は狭い範囲の地震とみられてきたが、近年、新史料の発見や遺跡の
発掘調査が進み、大きな被害をもたらした地震だったことがわかってきた。(6世紀前半の継体
天皇の墓の可能性がある)大阪府高槻市の今城塚古墳では墳丘の直下に断層があり、墳丘
の7割程度が地滑りを起こしていた。
神戸市の須磨寺に残された記録には寺が被害を受け、兵庫の町並みも残らず倒れて燃えた
と記される、淡路島でも洲本城が崩壊するなど広い範囲で被害があったようだ。
ーそれより以前、この断層帯が影響した大きな地震はあったのですか。
慶長伏見地震より前には、同じような地震が約2800年前の縄文時代と弥生時代の境目くら
いに起きている。断層の活動周期は2千年あまりと考えられるため、近々、有馬ー高槻断層
帯から大地震が発生するとは考えにくい。だが、最近1万年間の活動が知られていない上町
断層帯に地震活動が波及する懸念もあり、様子を見守る必要がありそうだ。ちなみに慶長伏
見地震では、発生数日前に四国や九州で大地震が連続して起きていた。
1605年には、南海トラフからと思われる慶長地震が発生し、太平洋岸の広い範囲に大津波が
来ている。
ー南海トラフを震源とする地震も心配です。
南海トラフの巨大地震は、文献史料や各地に残る地震痕跡から考えると、90~200年の周期
で起きている。江戸時代以降で共通するのは、この地震が起きる数十年前に西日本で内陸の
地震が多くなっていることだ。
地震が頻発する活動期の最後に巨大地震が来る。西日本は1995年の阪神·淡路大震災以降、
活動期に入ったと考えられており、今回の地震は活動期に増える内陸地震の一つと考えること
ができる。
宝永4.10.4(1707.10.28)宝永地震
和歌山県南方沖M8.6 最大震度6弱(紀伊·土佐他)
東海·東南海·南海の三連動地震 天理市付近6弱
「四日午刻大地震、凡そ半時許り震す。地裂けて水涌く。そもそも去る月廿八日より暖気有り、人皆
家に居るを得ずと云ふ。京畿諸国関東同じ、南海道殊に甚だし。人家倒れ、人死ぬこと万余。大和亦甚だしく、法華寺塔倒れ、
永久寺内山諸堂太破す。」(『続史愚抄』)
全国で倒壊家屋約29,000棟、死者約4,900名 大和では倒壊3,219棟、死者63名
日向から伊豆までの太平洋岸に津波被害、大坂でも日本橋まで津波遡上
文政2.6.12(1819.8.2) 近江国東部 M7.0~7.5 最大震度6強(近江)
「文政二年六月十二日未之半刻、戌亥の方よりゆり申候。奈良町石燈籠残らずこけ、壁落ち候事は家
並に之有り、春日石燈籠大半こけ、ゆる事凡そ壱尺許り、家々うごかし、男女誠に生死の程案じ、
十方にくれ門へ出るものも有り、又は井戸へはまり,けが人これ有り。百八十年以来と申す事、八
十歳の人にとひ候えども、此度の様なる地しん覚えぬと申す事に御座候。」(『奈良井上町年代記』)
伊勢湾沿岸部を中心に被害、郡山でも全壊37軒、半壊132軒
嘉永7.6.15(1854.7.9) 伊賀上野地震 最大震度6強(伊賀上野)
木津川断層帯の活動
「六月十四日夜九つ半時頃よりゆり出し、十六日朝まで 大小ともゆり申し候。夫に付町家たをれ、
怪我人数知れず、死人凡そ弐百人許り。土蔵並びに高塀残らず崩れ申し候。町屋の者、興福寺南
大門へ寄り集まり、町々住居致し候もの壱軒之無し。興福寺四町四方の高塀残らず崩る。元興
寺大塔大いに損じ、石燈籠、石鳥居残らずたをれ申し候。南東は三輪辺り迄、西南は郡山、小泉
法隆寺辺り迄、西は峠迄東は伊賀上野辺り迄、此の辺は尚更厳しきと申す事に御座候。郡山同
刻同断に御座候。町屋怪我人数知れず、死人凡そ八十許りと申す事に御座候。」(『聞集録』)
恭仁京右京関連遺跡(木津川市)・・・18世紀以降の噴砂跡
江戸時代を揺るがした大地震⇒⇒⇒
二見の海⇒⇒⇒
嘉永7.11.4~5(1854.12.23~24) 安政東海·南海地震
遠州灘M8.4 天理市付近5弱 / 和歌山県南方沖M8.4
全国で倒壊·流失約33,300棟、焼失6,600棟、死者3,600名
「十一月四日朝五つ半時大地震、凡そ半時斗(ばかり)もゆり在町家の内に居るもの壱人も之無し。(中略)翌
五日七ツ半時、又々大地震ゆり皆々門或いは明地平地の畑などへ我れ壱(さき)と逃げ去り候。
此の上は如何成るべき事と人々胸に手を置き驚き申し候て、在町小家掛りいたし、寒夜に外住居誠に難渋いた
し申し候。右大地震にて、紀州和歌浦津浪にて大荒れ、夫より熊野長嶋浦、千軒の場所と申し候え
ども当時八百軒計の処、津浪にて六百軒余潰れ、二百軒斗残り候よし。(中略)堺浦も余程荒れ大坂
も所々損し、日本橋落ち候よし。勢州山田、津、松阪、大荒れ、伊州上野六月地震にて殊の外大荒
れ、其の後追々潰家普請いたし候処、此度地震にて又六月の通り家潰申し侯。当国郡山六月に大荒
れの処、此度六拾軒斗潰れ、南都処々家潰れ、丹波市、三輪、桜井家五六軒斗づつ潰れ、桜井札の
辻にて家潰れ、死人之有り候。八木、今井、田原本辺り家損じ之有り、高田にて家三拾軒斗潰れ候
よし。」(『笹岡家文書』)
伊豆下田に停泊中のロシア軍艦 ディアナ号」(プチャーチン
座乗)が大破、回漕中に沈没→戸田村船大工らにより日本初の西洋式帆船「ヘダ号」建造、
プチャーチンらを帰国させる
「魯西亜船も三人迄助けたり。魯人のはなしにては、同船脇を百人も、其の余も通りたりと也。魯人は死せんとする人を
助け、厚く療治の上、あんままでする也。助けらるる人々泣きて拝む也。恐るべし。心得べき事也。」(『下田日記』)
大坂に2mの津波、数百人が水死→木津川の渡しに『大地震両川口津浪記』の石碑建立
和歌山·広村の浜口儀兵衛、田んぼの稲束に火をつけて村民に避難路を示す→「稲むらの火」
袋井宿東本陣跡(袋井市)・・・噴砂を覆う焼土跡(幕末期)
上宅遺跡(徳島県板野郡上板町)・・・ 幕末期の噴砂跡
志筑廃寺(淡路市)・・・幕末期の地滑り跡
天理市岸田町にも、伊賀上野地震と安政東海·南海地震の犠牲者を弔う内容の石碑が所在。
おわりに寺田寅彦の教訓
「文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、
風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりに
なっていると、どうかした拍子檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤
防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間
の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄
積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのであ
る。」
たとえば安政元年の大震のような大規模のものが襲来すれば、東京から福岡に至るまでのあらゆる大小
都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有
機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状を惹起する恐れがある。万一にも大都市の水道貯水池の
防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫する大量の流水の勢力は少
も数村を微塵になぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。
こういうこの世の地獄の出現は、歴史の教うるところから判断して決して単なる杞憂ではない。しかも
安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸いであったが、次に起こる「安政地震」には事
情が全然ちがうということを忘れてはならない。」(『天災と国防』)
巨大地震の履歴が、世界 最もよく わかっている領域として有名な南海トラフ。古文書 などをもとに整理された地震の年表があり、「定説 考えら れてきたが、詳しく見直すと根拠があいまいなことが指摘され るようになってきた。 南海地震は1099年には発生しておらず、その3年前に東 海沖から南海沖まで同時に起きたのではないか。. 神戸市で8月に開かれた国際会議。過去の定説を覆す見解 を、石橋克彦·神戸大名誉教授が発表した。 古文書に残る記録などから当時の地震はまず、1096年 に東海地震が、3年後に南海地震が起きたとされる。しかし その根拠を探して古文書 詳しく読んだところ、疑わしい 多数浮かび上がったという。 京都で揺れの記録はあるものの、巨大地震なら続発しそうな 「余震」の記録がない。大阪と奈良でも被害の記録はあるが ほかの場所では地震や津波の配録が見つからなかった。 1099年の地震を南海地震としてきた根拠は、「土佐(高 知県)の土地が海底に沈んだ」との記録で、1283年ごろの 貴族の晶の裏紙に書かれていた。改めて調べると、地震から 70年以上たって書かれた土地権利書の一種を、その約100年 後に書き写したものだった。 土地が沈んだとの記述については、1099年の地震と10 96年の地震を混同した可 能性を指摘。1096年について は、京都で強い揺れが長く続いたことが複数の古文書で確認さ れた。1099年の地震は奈良県付近で起き,南海トラフ全域 の地震は1096年に起きていた可能性があるという。 南海トラフでは1605年に「慶長地震」が起きたとされ 揺れがほとんどなく 波が大きい「波地震」と考えられてき た。石橋さんらはこの地震についても,そもそも南海トラフで は発生せず、伊豆·小笠原海溝の地震 だったと 説を提唱して いる。南海トラフの地展があったのは、四国から関東まで広範 囲に揺れや津波の記録がある1614年だったと考えている。 南海トラフの巨大地震は、最長で260年ほどの間隔をお いて発生したとされている。平均の発生間隔は めて計算すると157 . 6年.含めないと180 . 1年だ。過 去の地震像が揺らぐとこうしたデータも再考が求められるこ とになる。 発生閱隔が最も短いのは、1854年の「安政東海地震」か ら1944年の「昭和東南海地震」までの90年。この二つの地 震の間隔が特に短いことに 理、由はあるのだろうか。 一般的な説によれば、二つの地震の震源域は重なっており、 安政よりやや狭い範囲で昭和の地震が起きた。重ならなかった 部分が「想定東海地震」の震源域だ。しかし、このエリアでは 単独で地震が起きた記録はなく、切迫性を特別視する根拠は 乏しい。 一方、安政と昭和の重なりは小さく、安政の震源域の残りを 中心に昭和の地震が発生したという説もある。昭和の地震が短 期間で起きたのはそのためで次の地震までの間隔は長くなる と考えられる。どちらの説が正しいのか、決着をつけるのは難 しい。安政の震源域が分からないからだ。 海洋研究開発機構の今井健太郎技術研究員らは、紀伊半島に 残る安政東海地震の津波記録をもとに、高さの分布から震源域 を推定する研究を進めている。 震源域が昭和東南海地震とどう重なるか探るのが狙いだ。 「改めて見直すと、実は過去の地震には分かっていないこと が多い。ただ、現在の想定がなくなるわけではないので、最悪 を想定して備えることが重要だ」。東京大地震研究所の古村 孝志教授はそう語る。 よく分かっているはずだった宮城県沖で、想定外の巨大地震 が発生した東日本大震災の教訓を、南海地震の見直しに生かし たいという。 東日本大震災の反省から、内閣府は2012年,南海トラ フの巨大地震について考えられる最大の想定を行い、「マグニ チュード(M) 9級」とした。 想定される津波の高さも、従来より引き上げられた。ただ、過 去に起こった最大級の津波はよくわかっていない。 産業技術総合研究所地質調査総合センターは、高知県で津波 堆積物の調査を続けている。宍倉正展研究グループ長による と、南国市では過去約6千年で4回の大津波の痕跡が見つかっ た。津波堆積物は海岸に近い範囲に限られ、山際まで広がる内 閣府想定の「最大級」の浸水域に相当するほどの痕跡は確認さ れなかった。 静岡県浜松市で津波堆積物を調べてきた同研究所地質情報基 盤センターの藤原治次長も「少なくとも4千年間は、けた違い に巨大な津波は見つからない。 だから起こらないとは言えないが、現実的に対応すべき津波の 規模を見柩めたい」と話す。 将来に備えて、過去を探る研究が続く。 |