今城塚古墳地図
6世紀の大王墓 今城塚古墳
今城塚古墳は6世紀前半につくられた巨大前方後円墳です。 学術的には継体大王の陵墓と いわれ、二重濠をふくむ全長は354m。 大王の権威と力を示すモニュメントとして、淀川流域 随一の壮大な規模と威容を誇っています。 10年間にわたる発掘調査では、墳丘内部の大規模な石積や排水溝、 石室を支えた基盤工、 そして200体以上の形象埴輪が並ぶ埴輪祭記場など、 他に例をみない発見が相次ぎました。 また、海路を九州熊本から運ばれた馬門石(阿蘇ピンク石)を含む3種類の巨大な石棺や、 |
中世城砦 |
北側の崖下には、大規模な川原石の石組·石室基盤工が埋 まっています。 文禄5(1596)年の伏見地震で割れて盛土ごと滑り落ちたもの もとは後円部2段目の上面中央 (現在地付近)に埋め込まれた |
阿蘇ピンク石切り出して石棺を復元した(今城塚古代歴史館) |
今城塚古墳から出土した阿蘇ピンク石 (今城塚古代歴史館) |
今城塚古墳の阿蘇ピンク石製の石棺片 こちらの石棺の破片は、氷室町4丁目の旧観音寺境内に立てられていました。 大きさは、長さ 110cm、 幅68 cm、 厚さ 25 cm、重さ 250kgで、表面にはノミの痕跡や塗布された 朱が残っています。 また、 後世に石を割る際にできた工具の痕跡も確認できます。 石材は、熊本県宇土市から産出する阿蘇ピンク石(別名「馬門石」)で、 今城塚古墳で発見されている 3種類の石棺のひとつです。 昭和30年代まで氷室町内の用水路にかかる石橋として利用されていましたが、 けがをする人が多 かったため、観音寺に運び込んでまつられていました。 平成28年に高槻市文化財スタッフの会の会員が石材の存在に気付き、 「石棺の発見」 となりました。 |
はにわで区切られた4区画に、祭殿風の建物や、門を守るかのような力士などが整然 と並び、ここが有力者の墓であったことを伝えている。 今城塚との名前の通り、戦国時代には城として使われ、1596年の伏見地震で崩れ、近代 では瓦製造のために土を取られるなど、受難続きだったこの古墳。1958年に国の史跡に指 定され、その後の発掘調査ではにわが大量に出土した。墳丘に生えた木を指さし、「地震で崩 れましたが、本来なら今の木の高さ(約10m)まで土があったんですよ」と内田館長。当時の 技術力の高さにも驚く。 宮内庁は約1..5km:離れた大田茶臼山古墳(大阪府茨木市5世紀中ごろ)を継体天皇陵と 指定するが、今城塚が6世紀前半に築かれた古墳の中で最大規模の前方後円墳であることなど から、多くの考古学者がこちらを継体天皇陵と考えている。 2016年には、継体天皇の石棺の一部とみられる大きな石材が近くの寺跡で見つかった。 内田館長は「熊本産の珍しいピンクの凝灰岩で、染料がついていることから石棺と判断できま した。昔は大きな石材は貴重だったでしょうから、橋などに転用されました」。継体天皇の石 棺は推定約6tonで、見つかったのは約200kg分だけ。「今後も破片が見つかる可能性はあり ます」と内田館長は期待する。 1500年の時を超えた石がまだどこかに眠っているとは、壮大なロマンを感じさせる。 |
大阪府高槻市の今城塚古墳は、6世紀の大王·継体天皇の墓とみられている。その後円部か
ら排水施設を兼ねた石積みの遺構が見つかった。昨年度は石組みの排水溝が発見されただけ に、「大王の眠る横穴式石室に通じるものでは」「これで大王の墓の可能性がますます強まった」 破壊されてしまったのか。関係者にも困惑が広がっている。 今城塚古墳は全長190mの前方後円墳で、出土した埴輪から6世紀前半につくられたとみ られる。継体天皇の没年は、日本書紀によれば531年。 宮内庁は今城塚古墳の南西1.5kmにある太田茶臼山古墳を継体天皇陵としている。 だが、同庁の調査で見つかった埴輪から5世紀半ばの古墳だとわかり、6世紀前半では最大 の今城塚を「真の継体陵」と見る研究者が圧倒的に多い。 国の史跡となっている今城塚古墳の規模や性格を確認するため、高槻市は97年から発掘調査 を進めてきた。これまでに、熊本県·阿蘇産、兵庫県·竜山産、奈良県·二上山産、と3種類の凝灰岩 今年度の調査では、約15m延びる排水溝の先に、人の頭ぐらいの川原石を積み上げた石組 みが見つかった。当初は「石室の天井部分か」と関係者も騒然となった。だが、最終的には直 丘にしみこんだ水を排水溝に流し、墳丘を補強するためのものだとわかって、がっかり。 天皇陵級の大型古墳をつくる技術の高さがうかがえる発見だったが、古墳の主が眠る石室の 発見には結びつかなかった。 さらに、今回は気になるものが見つかった。花崗岩の破片と、鶏卵ほどの大きさの丸い玉石だ。 今城塚の墳丘は、ほとんど原形をとどめないまでに崩れている。これまでの調査で、1596年の 地滑りで石室がむき出しになったか、壊れてしまったか。花崗岩は建材などにするために持ち もちろん、石室が後円部のもっと深くに埋もれているとも考えられる。ぜひ確かめてほしいところ |
大阪府高槻市の今城塚古墳墳長181mの前方後円墳です。発掘調査でわかった埴輪祭祀場が、 二重周濠の内側の堤(内堤)の北側張り出し部分に再現されています。埴輪の模型が実物大で並 今城塚古墳は20世紀はじめから、本当の継体天皇陵だろうと言われてきました。宮内省(当時) 戦後、今城塚古墳は文化庁の国史跡となり、今は「いましろ 大王の杜」という古墳公園として 大山古墳は墳長486 m、大阪府堺市にある古墳時代最大の前方後円墳です。葬られた人物 仁徳天皇陵と定められ、宮内庁の厳重な管理が続いています。墳丘はうっそうとした森となり、 過去の大山古墳は違う環境にありました。森は悠久の歴史に育まれたようにみえますが1879 なるものになるでしょう。 3世紀に築かれた桜井市の箸墓古墳は墳長280 m、伝説上の女性であるヤマトトトヒモモソヒメノ ミコトの墓に定められ、柵の中に入ることは出来ません。普段は宮内庁が固く禁じていますが、 それでも、私たちは墳丘に遺された歴史上のメッセージがないかと目を凝らしました。柵外の 明日香村の鬼の雪隠に自転車に乗った家族連れがやって来ました。観光客に親しまれる 5世紀の大山古墳、6世紀の今城塚古墳はともに倭国の大王墓ですが、現在の人とのつなが |
継体天皇陵 | ヒシャゲ古墳 | 佐紀石塚山古墳 |
地震 | 陵墓に眠るのは誰 | 奈良を襲った大地震 |
今城塚古墳 埴輪 | 継体天皇母方の墓 | 磐井 岩戸山古墳 |
M7の伏見地震 | 今城塚古墳の埴輪 | 今城津古墳(継体天皇と磐井の乱) |
今城塚古墳(大船団列島支配へ) |
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