高松塚壁画館
古墳の隣接地に壁画館を建設し、 石槨内部の模型と壁画の忠実精巧な模写・復元模造が展示されている。 |
特別史跡指定:昭和48年4月23日 史跡指定:昭和47年6月17日 日本で初めて、石室内に描かれた壁画が発見されました。墳丘の内部には、16枚の凝灰岩 の切石を箱形に組んだ石室(内部の奥行き265.5cm,幅103.4cm,高さ113.5cm)があり、その 内面に塗られた漆喰を下地として、壁に色鮮やかな男女群像や青龍、白虎、玄武、日、月 像、天井に星宿が描かれていました。こうした壁画古墳は、日本ではこの高松塚古墳とキ トラ古墳しか知られていません。石室は中世に盗掘されていましたが、大刀の飾金具や銅 鏡、ガラス玉などの副葬品の一部と、漆塗り木棺の破片などが出土しています 壁画の発見後、石室南側に保存修理のための施設を建設し保存対策を行いましたが、壁 画の劣化を止められず、平成17年に、石室ごと取り出して修理することを決定しました。 平成19年に石室を墳丘から取り出し、約500m離れた仮設修理施設で修理作業を進めてい ます。現在の高松塚古墳は、発掘調査の成果などをもとに、築造当時の姿(下段部直径23 m、上段部直径18mの2段築成の円墳)に復元したものです。 |
飛鳥美人の壁画には、 東南アジアなどが原産のカイガラムシ から採れる臙脂(えんじ)が使われて いる可能性がある。 壁画に書かれた緑の傘は、 一位以上の官位にゆるされた者。 |
檜前川右岸の南東から北西に伸びる丘陵南斜面に位置する古墳です。 墳丘は、斜面を平らに削り出し、そこに版築技術を使い築かれています。 規模は、直径二三m、見かけ上の高さ八.五 を測ります。 埋葬施設は、二上山産凝灰岩の切石を組み合わせた横口式石槨です。 石槨内寸は、全長二.六五m、幅一.0三m、高さ1.一三m を測ります。 南壁は盗掘により破壊されていましたが、石槨内面には、床面を除き四 神・人物像・,星宿図・日月像の壁画が描かれています。東壁には、奧壁 側から女子四人群像,青竜と旦像、男子四人群像、西壁には女子四人群像、 白虎と月像、男子四人群像が描かれています。北壁には、玄武が描かれ、 天井には星宿図がみられます。 石槨内からは、漆塗木棺の断片とともに棺飾と考えられる金銅製透彫 金具,金銅製円形金具、金銅製六花形座金具、銅製座金具、銅釘などが 出土しています。また、副葬品は海獣葡萄鏡、銀製大刀装具、琥珀製丸 玉二点,ガラス製丸玉六点、ガラス製粟玉九三六点以上などです。海獣 葡萄鏡については中国西安の七世紀末の墓から同型鏡が出土しています。 出土した人骨,歯牙の観察から、身長一六三m程度の熟年男性と被葬 者像が提示されています。文武天皇陵の兆域との関係から築造年代が八 世紀の初めと考えられるとし、忍壁皇子(おさかべ)を被葬者と考える説のほか、 る説もみられます。 |
高松塚壁画館のしおり 彩色壁画 ・四神の図と日像・月像 四神は中国の思想に基くもので古来天 子の象徴として用いられ、四方を鎮護し東西南北の方位を表し ます。青 龍(東)朱雀(南)白虎(西) 玄武(北・亀と蛇)は星座の形から 蛇⇒⇒⇒ 具象化されたものです。青龍. 白虎の上部にそれぞれ日像・月 像が描かれており、天井の星宿とともに被葬者の尊貴性を物語って いると思われます。 ・人物群像男子4人、女子4人各1 組の群像が、東西両壁に2組ずつ (計16人)描かれています。男子群像のいずれもが蓋、柳筥、床凡、鉾の ようなものを持っているのに対し、女子群像は2人ずつが東壁では団扇、 払子を西壁では翳、如意を持っているのが特色です。どの像もすぐれ た筆致で実に細かく描かれ、わが国美術、絵画史上すぐれた作品と評価 されています。 ●彩色壁画発見まで… 高松塚古墳は飛鳥地方の西南部に位置し、この一帯は桧隈と呼 ばれています。渡来人がとくに居住したといわれ、周辺には天武 持統、欽明、文武の各皇陵や中尾山古墳、岩屋山古墳などが築かれて います。江戸時代のころ、高松塚は文武天皇陵ではないかと伝承 されていた記録も多くみられます。 地元の人が墳丘の南斜面で作物貯蔵用の穴を掘ったところ凝灰岩 の切石を発見、これがきっかけとなって昭和47年3月から調査が 行なわれ壁画発見となったのです。 ・現状模写 発見当初の姿を越前和紙に岩絵具で忠実に模写 したもの。西壁。北壁.東壁を展開状に展示しております。 ・一部復元模写絵を見易くするため剥落や汚れを加減して模写し たもの。赤外線、顕微鏡写真などをもとに模写修正を行ないました。 ・壁画再現模造模写 高松塚古墳 石槨と同じ材質の二上山系の凝灰 岩にしっくいを塗り、西壁の女子群像を模写再現しました。 ・石槨模型 発見当初の石槨を忠実に再現したものです。盗掘 口部から内壁の現状壁画がごらんいただけます。 副葬品 発掘時、石槨内から出土したものは海獣葡萄鏡、銀荘唐様大刀の外 装具、ガラス、コハク製の玉類のほか、棺を飾っていた金銅製透飾金具、 円形飾金具、銅製角釘など。 いずれも美術工芸史上貴重な資料です。 ・副葬品模造 発掘のさい発見された鏡、大刀飾金具類など棺関係 遺物の一部を模造し展示。 ・天井部の星宿図天井石の中央 約1m四方の範囲に描かれたもの。直径9mmほどの金箔を円形にはりつけ朱線で結び、星座を表現した ものです。東西南北七宿ずつ計二十八宿を描いています。 飛鳥時代略年表 538年 百済から仏教が伝わる(仏教公伝> 574年 聖徳太子誕生 588年 法興寺建立にかかる 592年 蘇我馬子、崇峻天皇を殺害 593年 聖徳太子摂政となる(豊浦宮) 603年 冠位12階を制定(小墾田宮) 604年 聖徳太子、17条憲法を作る 606年 飛鳥大仏完成、橘寺建立 630年 第1回遣唐使 643年 蘇我入鹿、山背大兄王を殺害 645年 大化の改新(飛鳥板蓋宮) 649年 中大兄皇子、蘇我石川麻呂を滅す 668年 皇太子中大兄皇子即位する 670年 戸籍(庚午年籍)を造る 672年 大海人皇子(天武天皇)弘文天皇を滅す 飛鳥浄御原宮にて即位(天武天皇) 673年 役人の出身法を定める。 675年 豪族の私有地を廃止する 681年 律令と国史の編さんをはじめる 686年 大津皇子、謀叛の疑いで処刑される 689年 飛鳥浄御原令の制定 694年 藤原宮に都を移す 701年 大宝律令の制定 710年 都を藤原から平城京に移す 高松塚古墳壁画は昭和47年3月、橿原考古学研究所の調査により 発見されました。その後壁画は国宝に指定され、保存上いっさい 公開されませんので、古墳の隣接地に壁画館を建設し、石槨内部の 模型と壁画の忠実な模写・模造を展示することになったものです。 古代史解明の貴重な文化財として海外からも広く注目を浴びている 壁画を、あらゆる角度から鮮かに再現した技術力の結晶を ごゆっくりご鑑賞ください。なお、現在高松塚古墳壁画は、仮設 修理施設に移動して修理しています。この壁画館は高松塚古墳 保存の記念郵便切手の寄附金によりできあがりました。 |
元禄年間の高松塚古墳 | 昭和47年3月高松塚発見後 | 平成20年4月の高松塚古墳 | 平成21年10月造成中 | 仮整備イメージ図 | ||||||||||||||||
古墳の石室が壁画の保存修理のために発掘・解体されている。古墳取り出された壁画は、 修理施設内でカビ除去作業すすめられている。修理が完了するまでには約10年間を要することが見込まれている。 7世紀末から8世紀初頭頃に築造された二段築成の円墳で、下段部の直径は23m、上段は18mある。 北側が高く南に傾斜する地を選んで墳丘が築かれている。 702年に再開した遣唐使が持ち帰った鏡を副葬されている。忍壁皇子の墓の可能性が高い。
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平成25年5月 |
甘南備山 |
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