父…天智天皇(第二皇女)
母…蘇我遠智娘(そがのおちのいらつめ蘇我石川麻呂の娘)
誕生…645年(大化元年)
御名・異称…ウ野讚良(うののさらら)・高天原広野姫尊たかまのはらひろのひめ)・大倭根子天之広日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)
皇后…━━
立太子…━━
即位…690年(持統天皇4年)1.1 在位年数…7年(称制4年)
崩御…702年(大宝2年)12.22 年令…58才
皇居…飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら)・藤原宮 年号…━━
〇ウ野讚良皇后が即位しないで執政する称制となる。4年后病弱な草壁皇子が薨去した后、即位の儀式を挙げ、正式に持統天皇となった。
〇「日本書紀」によると、天皇は落ち着いて心が広い人であり、さらに天武天皇を助け、特に政治において力となることが多かったという。
〇持統3年戸籍作成を命じ翌年完成させる。(庚寅年籍) 20年前の天智天皇の康午年籍以来であり、こののち6年ごとに奈良時代末まで作られた。この戸籍作成で判明した青壮年男子の4分の1を兵士とし、各地に軍団を編成、必要により皇軍として活動できる体制を整えた。
〇天武天皇は新しい都を造営する計画を持っていたが、実現前に崩御、その遺志を継いで、持統天皇がこれを完成した。従来の宮室が天皇一代に限って使用されていたが、持統・文武・元明三代天皇が使用した宮跡である。(藤原宮)
〇「懐風藻」には、大津皇子は風貌、体格ともにたくましく、文武両道に秀でて多く人望を集めていたとされている。持統天皇の子・草壁皇子の擁立を願う皇后にとってはどうしても除かねばならない存在であったことが容易に想像される。川島皇子の密告を契機として、大津皇子ら30余人が捕縛され、大津は死罪になった。「日本書紀」には、天智天皇の娘で大津の妃であった山辺皇女の悲惨な殉死のさまをリアルに描写している。
〇天武天皇とは異なり、持統天皇は臣下が政治に参画する機会を設けた。高市皇子を太政大臣、丹比嶋を右大臣に任命し、以下八省百寮の選任が行われた。
〇草壁皇子の薨去を受けて、皇族間では皇太子の人選を巡り物議を醸したが、結局、草壁皇子の遺児・軽皇子の立太子が実現した。持統天皇11年皇位を軽皇子(文武天皇)に譲位、自らは太上天皇となり、後見役を果たした。
〇特記すべき点は、藤原不比等が持統朝において頭角をあらわし、持統・文武両朝を実質的に支え、自らも藤原氏発展へ礎を築いた。
○夫である天武天皇がやり残した国家プロジェクトである「律令制度」「歴史書編纂」「役所機能を持った新都建設(藤原京)」をほぼ成し遂げて崩御した。
陵墓…檜隈大内陵 (ひのくまおおうちのみささぎ 野口王墓古墳)
所在地…奈良県高市郡明日香村大字野口
〇遺詔に「素服、哀を挙げることなく、文武官の釐務(りむ)は常の如くにし、喪葬の事は専ら倹約に従わしむ」とあり、天皇の喪葬で、倹約の遺詔を出したのはこれが最初である。
○このように遺言により遺体は火葬に付され、遺骨の入った骨壺は夫の棺の傍らに置かれた。
○鎌倉時代に盗掘ににあい、副葬品の財宝と共に持統天皇の骨壺も盗み出されてしまった。銀製の美しい壺だった。
〇日本列島で火葬が行なわれるようになったのはかなり古く、縄文時代には各地の遺跡から火葬された人骨が見つかっている。また、古墳時代にも火葬された例がある。飛鳥岡に天皇として初めて火葬され、銀壷に御骨を入れて、天武天皇の檜隈大内陵に合葬された。持統天皇は、自らの葬儀に際して、簡略化を強く望んだため、火葬はその一環で行われた。
〇文武天皇、元明天皇、元正天皇も荼毘に付され、天皇の火葬が定着した。
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