この寺は東の薬師仏をまつる三重塔、 中央宝池、西の九体阿弥陀堂から成り たっている。. 寺名は創建時のご本尊、薬師仏の浄 土である浄瑠璃世界からつけられた。 薬師仏は東方浄土の教主で、現実の 苦悩を救い、目標の西方浄土へ送り出 す遣送仏である。 阿弥陀仏は西方未来の理想郷である 楽土へ迎えてくれる来迎仏である。 薬師に遣送されて出発し,こ 現世 へ出て正しい生き方を教えてくれた釈 迦仏の教えに従い煩悩の河を超えて 彼岸にある未来をめざし精進する。 そうすれば、やがて阿弥陀仏に迎え られて西方浄土へ至ることができる。 この寺ではまず東の薬師仏に苦悩の 救済を願い、その前でふり返って池越 しに彼岸の阿弥陀仏に来迎を願うのが 本来の礼拝である。.. |
浄瑠璃寺(九体阿弥陀如来) 浄瑠璃寺は、真言律宗の寺院である。本堂に九体の阿弥陀如来像を安置することから九体 寺とも呼ばれる。池を中心とした浄土式庭園と平安末期建立の本堂や三重の塔が現存する。 当時京都を中心に多く建てられた九体阿弥陀堂の唯一の現存するものといわれている。 阿弥陀如来座像を九体安置するのは『観無量寿経』に説く「九品往生(くぼんおうじょう)」の教え に基づくもので、阿弥陀如来の浄土に往生しようとする場合、少しでも上の位に行けるように と願い、小さな像よりは等身大へ、さらにはより大きい像へと、エスカレートしていき、やがて仏 像の数も1体よりは2体、2体より9体というように数もどんどん増やすことによって願いが叶え られることを求めたのである。この九体像は各寺でも多く造られたようだが、結果現存してい るのは浄瑠璃寺像のみである。 浄瑠璃寺の9体の像は、ともヒノキ材の寄木造·漆箔仕上げで、中尊像のみが大きく224cm、 脇仏8体は139cmから145cmとなっている。 |
●お彼岸 平等院でもこの寺で も、古来、人々は浄土の池の東から彼岸におられる |
山門 山里の一角でささやかな門構えをみせている。 門をくぐると、緑にこじんまりした境内。東に三重塔(国宝)が西面して建つ。 宝池を挟んで、西に九体の阿弥陀如来堂(国宝)が東面して建つ。 |
浄瑠璃寺は、京都府の南奈良との県境加茂町にある。 静かな田園風景から、道が山懐に入ると、浄瑠璃寺の小さな門が見えてくる。 |
京都府南部、木津川流域の南山城と呼ばれる地域は平安貴族が憧れたり祈りの地であった。 寺域は旧山城国だが、すぐ南には大和国。古寺巡りなどでは大和に含められ、特に浄瑠璃寺 や東方1km強の岩船寺は奈良市の西大寺を総本山とする真言律宗に属し、今も大和と濃密な 関係を保っている。 |
本堂(国宝) 本堂は宝池の西側にある 。 極楽浄土の主、本尊阿弥陀如来九体(国宝)は、池を隔てて三重塔(国宝)、 澄み切った静寂の世界浄瑠璃浄土に住む本尊薬師如来像とむかいあっている。 送り出してくれる薬師仏から迎えてくれるのは、阿弥陀仏へ。 苦悩の現実から安楽の浄土へ、年に二回太陽が二つの浄土の橋をかける。 九体の阿弥陀如来像の中尊が来迎印(らいごういん)を結ぶ周丈六(丈六の四 分の三)の坐像、左右に四体ずつ半丈六(丈六の二分の一)の坐像が横一列に 定印(じょういん)を結んで並ぶ。 本堂には他に、吉祥天立像(重文)、不動明王二童子立像(重文)四天王の内、 持国天像と増長天像(国宝)、地蔵菩薩立像(重文)などが祀られている。 浄土信仰は、来世を阿弥陀浄土に往生することを勧める。往生には、この世で の善根の多少により、上品上生から下品下生まで九種のランクがある。そのすべ てに対応するために九体阿弥陀如来像を造ることが行なわれた。本像は唯一の 遺例として貴重。 服装⇒⇒⇒ |
三重塔(国宝) 薬師如来(重文)が安置されている。 三重塔と本堂を結ぶ線は東西の方向に配置されている。 宝池の東側から春秋の彼岸の日に、太陽は朝6時三重塔の真後ろから昇り、 宝池をゆっくり渡り、午後6時本堂の真後ろに沈んでいく。 浄瑠璃寺では、まず東の藥師仏に苦悩の除去を願い、その前で振り返って 池越しに彼岸の阿弥陀仏に來迎を願うのが本来の礼拝の形である。 三重の塔の扉は普段は閉じられているが、正月3ヶ日・彼岸の中日・毎月8日に は扉が開かれる。 池を中心にして、東に薬師如来を祀る三重塔が、西には阿弥陀如来九体を安置 する本堂がある。 |
明治時代、古社寺保存法に基づいて博物館への出陣命令あったために、多聞天は 京都国立博物館、広目天は東京国立博物館に寄託中。 この寺の四天王は4体とも国宝。平安時代後期、11世紀後半~12世紀前半の作と される。貴族の時代の像らしく、ポーズはややおとなしめとされる。 この四天王の内、多聞天は他の3体と違う。持国天など3体は片腕を肩より上に振り上 げ、上着の袖が大きく翻る。天衣と呼ぶ布も足元でたなびいている。 一方多聞天はあくまで真直ぐ立ち、袖も天衣もゆったりしている。制作技法も違うといわ れる。 |
南北に細長い仏殿に、金色の阿弥陀如来が9体が横一列に座る。ここは全国唯一残 る平安時代の九体阿弥陀堂。浄瑠璃寺(じょうるりじ)は九体寺の別名をとっている。 本尊の九体阿弥陀如来は中尊だけが像高221cmと大きく、他の8体は140cm前後と なっている。 嘉承2年(1107)現本堂を建立、治承2年(1178)に京都一条大宮から三重塔を移築 し伽藍を整えた。宇治・平等院や平泉・毛越寺(もうつうじ・地図)などともに 浄土庭園のある古寺として名高い。 古い寺院の金(本)堂や、都の大極殿などは南面が原則であるが、平安時代の中ごろ から京都を中心に、阿弥陀如来を東面に祀り、その前に池を造る型が 出てくる。平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)など、その典型である。 奈良の法隆寺金堂では、東に薬師、中央に釈迦(三尊)、西に阿弥陀の三如来が南面 に祀られている。 太陽の昇る東方にある浄土(浄瑠璃浄土)の教主が薬師如来、その太陽がすすみ沈ん でいく西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来である。 |
宝池(ほうち)池を中心とした庭園が平安時代のまま揃って保存されている。 東に三重塔(国宝)西に本堂が建っている。 自然の湧き水をたたえている池は、800年のあいだ一度も枯れることがな いといわれる。 |
浄瑠璃寺山門へ行く道の途中に丁石、石碑がある。 |
当尾(とうの)一帯は、古くは浄土信仰の霊地として栄えたところであり、 1951年(昭和26年)に加茂町に編入されるまで当尾村(塔婆が立ち並ぶ 尾根という意味の「塔尾」からきている)と呼れれていた。現在は「当尾の里」 として親しまれている。 |
●過去世・現世・来世 東の如来"薬師は過去世から送り出してくれる仏、過去仏という。遠く無限 に続いている過去の因縁、無知でめざめぬ暗黒無明の現世に光を当て、さらに苦 悩をこえて進むための薬を与えて遺送してくれる仏である。 苦悩の現実から立ちあがり、未来の理想を目指して進む菩薩の道を、かつてこ の世へ出現して教えてくれたのが"釈迦であり、やがて将来出現してくれるのが "弥勒“で共に現世の生きざまを教えてくれる仏、現在仏という。 西の如来”阿弥陀“は理想の未来にいて、 すすんでくる衆生を受け入れ、迎えてくれる来世の未来仏、また来迎の如来という。 ●九体阿弥陀如来像(国宝)藤原時代 今は唯一のものとなった九体阿弥陀仏。西の本尊で 未熟な私たちを理想の未来へ迎えてくれる如来。 "観無量寿経“にある九品往生、人間の努力や心がけな ど、いろいろな条件で下品下生からはじまり、下の中 下の上と最高の上品上生まで九つの往生の段階があると いう考えから、九つの如来をまつった。中尊は丈六像で 来迎印(下生印)、他の八体は半丈六像で定印(上生印) を結んでいる。寄木造、漆箔。 ●九体阿弥陀堂(国宝)藤原時代 当時、京都を中心に競って建立された九体阿弥陀仏を まつるための横長の堂で、現存する唯一のもの。(正面 十一間、側面四間)太陽の沈む西方浄土へ迎えてくれる 阿弥陀仏を西に向かって拝めるよう東向きにし前に浄土 の池をおき、その対岸から文字通り彼岸に来迎仏を拝ま せる形にしたものである。 一体一体の如来が堂前に板扉を持つ。 ●三重塔(国宝)藤原時代 平安末の治承二年、京都一条大宮から移されてきたも の。初層内は扉の釈迦八相、四隅の十六羅漢図などと 装飾文様で壁面が埋められている。元は仏舎利を納めて いただろう。この寺へ来てからは東方本尊の薬師仏を安 置している。(十六羅漢図は、重文) ●子安地蔵菩薩像(重文)藤原時代 現在、中尊の横に立つ子安地蔵と呼ばれる腹巻を巻い た地蔵さま。片手に如意宝珠を持ち、一方は与願の印を 示す。木造で胡粉地に彩色された美しい和様像。
●四天王像(国宝)藤原時代 この寺の像は藤原期四天王の代表像で、特に全身に施 された截金(きりがね)を交えた甘美な彩色は素晴しい。 足の下にふまれた邪鬼の表情もおもしろい。 現在多聞天·広目天が国立博物館に0堂内には持国天 と増長天がまつられている。 ●·浄瑠璃寺庭園(特別名勝及史跡)藤原時代 池を中心にしたこの庭園は、伊豆僧正恵信が久安六年 に、伽藍や坊舎の整備、結界を正すなどした時に始まる。 阿弥陀堂を東に向け、その前に苑池を置き、東に薬師仏 をまつって浄土式庭園とした。鎌倉はじめの元久二年、 小納言法眼がそれを補強する。
●不動明王 制多迦童子(重文)鎌倉時代 元護摩堂の本尊であるこの三尊像は、力強い表情、鋭 い衣紋の彫り、玉眼の光、見事な迦楼羅(かるら)光背など鎌倉時 代の特徴をよく顕わした秀像である。 向かって右にやさしい矜羯羅童子(こんがら)、左に知恵の杖をも った力強い制多迦童子(せいたか)を従えている。
●延命地蔵菩薩像(重文)藤原時代 蓮華座の上に立ち円い頭光を台座からの支柱が支 える美しい像である。左手に如意宝珠をささげ、右 手与願印で截金(きりがね)を使った多様な彩色文様もよく伝え られている。端正な姿の木彫りで延命地蔵と呼ばれ ている。 ●馬頭観音像(重文)鎌倉時代 怒りの菩薩、たたかう菩薩ともいう馬頭観音の像 はわりあい少ない。この寺には仁治二年、南都の巧匠と いわれた良賢。增金、観慶の三仏師がこの地で彫ったこ とを示す胎内墨書のある四面八臂の見事な木造彩色 像が健在するが、今は奈良の国立博物館に出ておられ る。火焔光背、蓮座、胎内仏、胎内経巻などもそのまま 保存されている。 |
秘仏·薬師如来像(重文)藤原時代 東の本尊、三重塔内に安置されているこの像は九体 弥陀仏より六十年前に造顕されたこの寺のはじめのご本 尊。遠い昔からつみ重ねられてきたいろいろな力を私た ちに持たせてこの現実へ送り出し,さらに現実にある四 苦八苦をのりこえる力を薬として与えてくれる仏さま。 太陽の昇る東にいて遣送(けんそう)の如来ともいう。 |
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秘仏·吉祥天女像(重文)鎌倉時代 五穀豊穣、天下泰平。豊かな暮らしと平和を授ける 幸福の女神吉祥天。南都の寺々では正月にそういう祈 願の法要をするのが伝統で吉祥天の像は多い。この寺 の像は建曆二年にこの本堂へまつられたことだけが記 録に残されている。(周囲の厨子絵は復元模写されたもの。 |
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·秘仏·大日如来像鎌倉時代
潅項堂(かんじょうどう)のご本尊、智挙印を結ぶ。詳細は不明。 |
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